水琴窟 1

問い 仏教の教えを聞いて、そんな古い教え、いったい何かの役に立つの ?。
答え 
 仏教の教えは、釈迦から始まると言われていますが、実はもっともっと古い時代から伝えられていたものです。
 神話は、文字のない時代、長老から若者へと語り継がれてきた物語であります。仏教も神話として語り継がれてきたものが、後に文字で伝えられるようになりました。其れが『お経』であります。      
 人類は、言葉を使う事が出来るようになって、物語で色々の事を伝える事が出来るようになりました。言葉がない時代では、思うままに意志を伝える事が出来ません。言葉によって飛躍的に人類は知識を積み重ねていく事が出来るようになりました。
 神話は、人間が生きるための最も重要な知識を伝えるための格好の方式でした。それ故に、長老は厳粛に若者に神話を語って聞かせてきたのです。
人類が、他の生きものと違って今日のように素晴らしい文化を築く事が出来たのは、偏に言葉を自由に使う事が出来たからであります。その文化の基礎に宗教があるのです。
 宗教と聞けば、今の日本人は、迷信だと思って眉をひそめますが、宗教は本来人類が築いてきた叡智の集積であります。
 確かに、巷にはいかがわしい迷信が溢れています。然し正しい宗教がある事を知らねばなりません。其れは人類の叡智を集めたものです。
 何が正しい宗教か迷信かは、慎重に判断する必要があります。誰も『俺は迷信を語っている』と言う者は居ないのです。
 迷信と正しい信仰の問題は後回しにして、古い教えが今の時代に役に立つのかと言う問題から考えて参りましょう。
誰でも、昔と現代では、現代の方が優れていると考えているのでしょう。昔は科学的知識が乏しかったから、何でもないものにまで怯えていましたが、現代は何事も科学的知識によって判断されていますので、現代人の方が優れていると言います。確かに、科学的知識は発達しました。一五〇億光年先の天体まで観測する事が出来ますし、コンピユターに依って難しい計算も瞬時に可能であります。然し、人間は科学的知識だけで生きられるものでしょうか。科学が発達したために返って心配事が増えてきた一面もあります。原爆や水爆は勿論ですが、交通事故や、犯罪事件も昔より増えてきましたし、戦争の危険も昔に比べてずっと複雑になりました。果たして人類は昔に比べて進化したと言えるのでしょうか。科学の発達はかえって人類を悩ませるだけになっているようです。
 昔の方が、時間もゆったり流れていたし、人の心も温かであったと言ってみても、時間は後戻りしてくれませんから、何にもなりません。我々現代人は、これから益々世知辛い人生をあくせく生きていくより外はありますまい。
 『仏教なんか古くさいもので、現代に何も役立つものではない』などとうそぶく事が出来るのでしょうか。
 お釈迦様よりもっと昔から伝えられてきた仏教の叡智に学ぶべきものは何も無いというのは、現代人の傲慢であります。もっと謙虚に自己及び人生を考えてみる必要があります。昔の人間は、そんなに馬鹿ではありません。現代人よりもっと深く考えていたのです。まして永い叡智の蓄積には、学ぶべき多くのものがあるのです。
 特に仏教は現代人が予想も出来ないような深い叡智を伝えています。其れは『無我』の教えであります。我々は『無我』などという事はとても考えられないのです、所が仏教は『無我』の教えに尽きていると言っても良いのです。
 人間は生まれてくると間もなく自我を主張し始めます。だんだん成長してくるに従って、自我の主張は強くなり、所謂反抗期がやってきます。そんな人間に向かって、『我』というものは存在しないのだと宣言する訳ですから、こんな教えは誰も直ちに納得出来ない訳です。
 所が、仏教はこの『無我』を何処までも主張して決して譲らないのであります。現代人が仏教を敬遠して、好んで聞こうとしない理由は偏にこの『無我』の主張のゆえであります。 キリスト教やイスラム教は厳しいようですが、誰でも喜んで信者になるのは、『無我』という教えが無いからでありましょう。皆『有我』の教えであります。有我ですから、自己主張を認め、自己を正当化することを許す教えです。
 自己主張を認める限り、自己主張と自己主張とが対立して争いは絶えないのであります。家庭の問題も国家間の問題も、偏に自己主張の為の争いであります。然し相手が自己主張してくるのに、こちらが無我では忽ち相手にやられてしまって生きて行けなく成るではないかと言う反論が出てきます。
 確かにそう言う問題があるので、相手が軍備を増強すれば、こちらも軍備を増強することになり、世の中は益々ややこしくなってきました。これでは困るというので国連が出来て調停しようとするのですが、うまく行く筈もありません。これが仏教が無い世界の特色であります。
 仏教は、そう言う事を先刻承知して生み出されたものですが、我々は其れをすっかり忘れて、相も変わらず争いに明け暮れているのです。この後、仏教精神が復活するのか、この儘争いを続けて人類滅亡に至るのかは解りません。願わくは仏教復活の方向に舵を切りたいものです。
 さて無我の教えと言うことですが、小乗仏教では、無我を説くために『五蘊』と言うことを説きました。『我』があるのではない、『五蘊』があるのだと言うのです。『五蘊』とは、生きて居るものの機能で色受想行識の五つです。色は肉体、受は感受性、想は想念、行は行動、識は意識です。自己の存在の全体です。その五蘊は『仮和合』で因縁次第で消滅してしまいます。後に何も残りません。其れで無我というのです。
 然しここに問題がありました。其れは『自殺』というようなことは、何故起こるのか、人間は自己の存在を否定してまで主張しなけばならない何かを抱えているのです。其れは一体何でしょうか。
この問題を解くために、大乗仏教になると『唯識』という説が生まれました。『阿頼耶識』に一切の経験が蓄積され、その蓄積から一切の経験が生み出されてくると言うのです。この阿頼耶識は機能ですから、実体がある物質ではありません。この阿頼耶識を自我と誤認しているのです。誤認しているのは『末那識』です。此の様に従来六識だけで考えられていたものに、阿頼耶識と末那識を加えることによって、八識構造になり、無我と言うことが完全に証明されたのであります。
 末那識の誤認によって、阿頼耶識を『自の内我』となし、我痴、我見、我慢、我愛の煩悩を起こして、自己主張し争いが絶えないのです。その末那識が平等性智に転ぜられ、阿頼耶識は大円鏡智と成る時、意識は妙観察智、前五識は成所作智となって成仏道が完成されるのであります。
 然し、転識得智と簡単に言っても、そう簡単に転識得智が成就するものではありません。凡夫が仏に成るのには、三大阿僧劫と言う永い時間がかかると言われ、四十二段の階段を昇って、やっと仏に到達すると言われています。そんな縁遠い話をしては、凡夫にはとても手の届かない夢のような話に感じられます。そこで、仏道成就の可能性があるものは、いかなる困難にもめげず修行成就しうる丈夫志幹に限られることに成りました。  
 ここに聖道門仏教の泣き所があります。然し、凡夫の救済が説かれるようになるのはずっと後の時代でありまして。仏道とは此の様な厳しい修行に耐えて成就するものとされていました。
 ともかく、転識得智が成就して、平等性智が成就することによって無我の自覚が完成し、自己主張に依る争いが収束するのです。この為に仏教はひたすら無我を説くのです。
 然し、転識得智が容易には成就しないとなれば、所詮仏教は絵に描いた餅で、実効のないものに成ります。ここに先人達の悪戦苦闘がありました。  
 釈尊以来2000年の時を懸けて悪戦苦闘が続けられ、法然親鸞の二聖によって、阿弥陀仏の本願による救いが提唱されて、二千年に及ぶ難問が解決されたのであります。
 然し、この二聖に依る浄土真宗の教えが万人に認められるにはもう少し時間が懸かります。先ず、浄土真宗の教えが外国語で理解されるようになる必要があります。日本語で語られている限り世界の人に理解されることは難しいからです。その為には、多くの人々の御苦労が必要であろうと思います。これからの方々の御苦労をお願いするしかありません。どうかそのような苦労が実を結んで、浄土真宗が世界の人々に理解される時代が来ることを願ってやみません。