水琴窟 10

   水琴窟 十
 問、『群生海に回施したまへり』とはどう言うこと (前号より続く)
答、(前号より続く)
地獄に堕ちるとは、理想主義が行き詰まって、ニヒリズムに落ちることですから、この世の一切の理想が消えてしまって、自暴自棄になるより外はありません。其れは人生の破滅です。ですから人は何としてでもこの破滅から逃れようと、あらゆる手立てを用いて、地獄から逃れる方法を考えるのです。
 所が、浄土真宗は、『地獄は一定住み家ぞかし』と宣言したのです。カトリックの信者であるフランス人が驚くのは当然であります。親鸞聖人はなぜそんなことが言えたのでしょうか。
 『儂が落ちる』とまでは言えても、『仏も落ちる』とまで言うのは、どうも狂気の沙汰と言わねばなりません。然し仏が落ちなければ私が落ちると言うことは、自暴自棄に過ぎません。ここに親鸞聖人の深い信仰告白があるのです。      
 仏も落ちるとは、本願の心であります。その本願力に助けられると言う確信を得た者に、 初めて『安んじて地獄に落ちる』と言い切れる世界が開けるのです。
 『群生海に回施したまえり』と言う事は、真実無き衆生に真実を回施しようとする事です。所が、我々凡夫は、一向に真実無き衆生であるとの自覚がありません。その為に、『真実を回施しよう』と言う如来の願いなど必要ないものと考えて、如来の心を理解しようとは致しません。
 我々は『我に真実有り』と自負している存在であります。そこで如来は『一者至誠心』と、人間が救われるためには、先ず、第一に『至誠心(真実心)』が必須条件であると説かれるのです。
 『至誠天に通す』と言う事が、人間に信じられる最高の生き方ですから、人は必死になって至誠を尽くして生きようと心懸けます。その結果至誠が天に通じて想いが叶えられる場合いも有りますが、又全然天に通じなくて思いが叶えられない場合いもあります、何故でしょうか。天の道理が間違いないとすれば、私の至誠が足りない事になります。そこで益々、心を込めて至誠を尽くすのですが、実は、天は気まぐれで、人間の願いなど気にも懸けずに、因縁次第で人間の願いが叶えられる事もあり、叶えられない事もあるのです。
 其れは人間の真實心などは当てになら無いもので、この世の一切の出来事は、只、因縁に依って起こるだけの事なのです。
 所が、私達は人間の真実は絶対に正しいものと信じて疑わないのです。しかし、人間の真実などは全く当てにならないものなのです。人間の心は、ころころと揺れ動いて一向に定まることがありません。ちょっと風が吹くと、サット散ってしまう羽毛のようなものなのです。そのような心を当てにして真実だと言っているのです。とても当てになるものではありません。
 この当てにならない人間の真実心を、本当の真実だと信じて、一切の行為の基準にしているのが人間の現実であります。
 如来は、人間の真実心が当てにならない事を先刻見抜いて、如来の真実を与えようと願を起こしたのが、如来の本願であります。その本願を受け入れるためには、『我に真実無し』と自覚する必要があります。阿弥陀如来が、光明無量の願を起こしたのは、智慧の光明によって人間の真実が当てにならないものである事を照らし出して、『我に真実無し』と自覚せしめる為でありました。
 従って、衆生は、如来の光明に照らされる事によって、初めて、自己に真実がない事を自覚するのです。光明に照らされるとは、教えを聞く事です。教えを徹底して聞き抜く事によって、衆生が、我には真実がない事に目覚め、如来の真実によってこそ、衆生救済の事実が成就するのであると、信知ずる事が出来るのです。
 教えを聞き抜く事によって、『我に真実無し』と目覚める事が出来た者にのみ、『地獄は一定住み家ぞかし』と言う親鸞聖人の告白の言葉を、我が身の事として頷く事が出来るのです。 
 教えを聞き抜くと言いましたが、教えは聞いても聞いても中々受け取れないものです。その為に、多くの人が困って、途中で止めたり、いい加減な聞き方でお茶を濁したりしてしまいます。  
 私もこれで随分悩みました。所が、先輩も同じ悩みを持っておられた事を知らされました。其れが、唯識学の十大論師の一人である護法であります。
 彼は、『無漏の種子の本有説』を称えてくれました。私達の聞法は『有漏の経験』であります。有漏の経験は、幾ら積み重ねても無漏には成りません、然し、私達に本有の無漏の種子が宿っていて、有漏の経験である聞法は、その無漏の種子を激発する唯一の機縁になると言うのです。
 本有とは、私達が生まれる以前から、私達の心の中に宿っているものと言う事です。
本当にそんなものがあるのでしょうか。これは、『如来蔵経』の思想です。『如来蔵思想』と申します。
 聞いても聞いても解らないと言う嘆きは、もう心配有りません。もっと聞けばよいのです。『本有の無漏の種子』が現行してくれるまで聞き続ければよいのです。必ず、無漏の種子が動き出して、『他力の信心』という、無漏の経験が成立するのです。
 これは、護法の真摯な求道が見出した恩恵であります。勿論、この原理は、護法に先立つ『如来蔵思想』に有りました。人類の永い求道の蓄積に依って、此の様な思想を見出した、『人類の叡智のたまもの』であります。我々は、深く深く先人達の御恩徳を、感謝せずには居られません。

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