水琴窟 15

   水琴窟 十五
 問、仏像を拝む意味は (続き)
 答、 (続き)
 渡辺氏と二葉氏の論争を長々と述べましたが、『日本の仏教』は今も読まれて居ますので。参考になればと思い煩を厭わず引用いたしました。
 二葉氏は更に批判を続けていますが、要するに、
 『言葉で、あるいは認識でもって、知識化されたものでもって釈尊の体験の内容を知るということは不可能である』と云う事です。 
      (『親鸞、仏教無我伝承の実現』、二葉憲香著、p8。) 
      (『学問がつまずきである場合』、同著作集第二巻、p185、)
 つまり、理性による解釈や、知性による理解だけで、釈尊の体験の内容を知ろうとすることは不可能なのです。宗教を観念でとらえると云う事です。其処に学問をする人の陥入る落とし穴があるのです。これを宗教の観念化と言います。
 偶像崇拝と宗教の観念化から脱却せしめるために、仏像を創り出した、仏教の智慧による配慮を理解しなければなりません。
 仏像を拝むことにより、正しく仏とは何かということを学ぶのです。仏像は仮の佛です。仮の佛とは、仏とは何かを知るための方法です。だから仮の佛を縁として、真の佛に遇うのです。
 昔は、お寺が焼けると。直ぐ『ご本尊御安泰』と言う立札を立てなければなりませんでした。ご本尊を焼いたら住職は責任を取って辞職しなければならないのです。これは、明らかに偶像崇拝です。あれは木でこしらえた彫り物にすぎません、ですから、火事で焼けたからと言って別に不思議はないわけです。所が、ご本尊を焼くと住職は罰せられるというのは偶像化している証拠でしょう。偶像崇拝は、このように人間の心に深く食い入っている迷いであります。
 現代人は、仏像を礼拝の対象とは見ないで、知識だけで仏像を見ますから、仏像を、せいぜい美術品としてしか見ることが出来ないのです。其処には、美術品としての価値しか認められません。従って、美術的価値のない仏像は、二足三文に見られます。
 では美術的価値のない木像は、何にもならないものとして粗末にしてもよいかと言うと、あの木像を縁として本仏の真意に触れるのです。だから、御本尊として礼拝するのです。
 仮の佛と言いましても、この仏像を拝むことは、仏に遇う為の必須の条件であると、善導は説かれているのです。
 善導の観経疏第八像観に、『所以者何と言うは・・・所以須想仏者何』と『須』の文字を入れています。これは経文には無いのです。善導が敢て『須』の文字を加えたのは、この像観こそ。眞仏に遇う為の必須の条件であることを強調する為であります。
 像観の解説には、『応心即現』と言う言葉が用いられています。仏は、衆生の心に応じて姿を現すというのです。衆生の心とは、衆生の情願です。情願と言うのは、曇鸞の言葉で、人間の心の底に隠れている、真実に会いたいと云う止むに止まれぬ願心です。  この情願に応えて、初めて如来は『即現』するのです。従って、情願に『目覚めない者の前に現れる事は出来ないのです。この故に、『心想中に入りたもう』と言うのです。
 映画でも見るように、衆生の方に何の心の準備もなく現れるのではありません。それならば『奇跡』です。でなければ『幻想』です。奇跡も幻想も人間の迷いであります。正しい宗教心ではありません。衆生に熾烈な 宗教心があって、初めて、如来に遇うのです。だから、必須の条件だと言うのです。
 善導は第七華座観で、『応声即現』と言いました。『声』とは仏陀の説法の声です。釈尊の説法を只聞くのではありません。釈尊の説法の真意を聞き抜いて、その響きに頷くのです。その頷きが『情願の満足』(論註、一切所求満足功徳)衆生の熾烈な宗教心の満足であります。
 応声即現と応心即現の二つが揃って、阿弥陀仏に遇いたてまつると云う事が成就するのです。誠に、観無量寿経の第七華座観と第八像観の必須の条件が成就した結果、第九眞身観の『仏身を観ずる者は、仏心を観ず、仏心とは大慈悲これ成り』と云う事実が成り立つのであります。 
 仏像でなくて、キリスト教の様に十字架を拝んでもよいのです。但し、何んな心で拝むかが問題なのです。たとい何を拝もうと、人間の心を元にして、人間の求める要求、人生の幸福や、社会の安定を、神や仏に要求するならば、それは全て偶像崇拝なのです。
 偶像崇拝と観念化が、宗教の純粋性を破るものです。仏教には、此の事を徹底して追及して来た歴史があります。従って、堂々と仏像を拝んで善いのです。しかし、偶像崇拝と観念化に陥らないための聞法精進が、不断に要求される訳です。 
 さて『仏像を拝む意味』と云う事が問いの課題でありました。仏教は偶像崇拝を否定するために仏像を作ったのであります。
 そもそも『偶像崇拝』と言う言葉も一神教が作った言葉でありまして(モーゼの十誡)この言葉には誤解を生ぜしめる危険がありました。イスラームの様に、仏像を破壊するのは、器物破壊でありまして、はた迷惑であります。モーゼの時代に偶像崇拝の意味が理解されていたのかどうかは判りませんが、少なくとも後世にイスラム教徒に誤解されるような危険は、この言葉にあったようです。
 今日では、別の言葉を見つけることが困難になりましたので、偶像崇拝と言う言葉でこの問題を語るしか方法が有りませんが、偶像崇拝の正しい意味は以上のようなことです。
 少なくとも、浄土真宗の者は、偶像崇拝の正しい意味をはっきり自覚して、堂々と仏像を礼拝すべきであります。
 仏像は、決して美術品ではありません。礼拝すべき本尊であります。仏像はあくまでも仮の佛です、その仮の佛を礼拝する事を通して、真実の佛の心に目覚めるのです。この方法に依らねば仏心に目覚めることは出来ません。これは必須の条件であります。
 我々は、此の事を心に銘じて、朝夕の勤行を勤めるべきであります。仏像を拝む意義を終わります。

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