水琴窟 16

水琴窟 十六
問、悪人が救われる本願なら、どんな悪い事をしてもいいの
答、
これは大事な質問です。ですから、歎異抄にも大切にとりあげてあります。仏教は『諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教』(過去七佛通誡偈)と言って、諸悪を作る莫れと戒めており、悪い事をしても良いとは言っていません。悪い事はしない様に心がけましょう。
しかし、心がけている心算でも悪いことを為てしまうことが度々あるのです。其の為、この問題については、中々はっきりしたことが言えないのです。
親鸞聖人も『薬あればとて、毒をこのむべからず』(歎異抄第一三章)と言われます。安田先生も『信心の人は悪い事は出来なくなるのだ』と言っておられます。しかし、どうも煮え切らないような言い方になっています。
これは質問が良くないのです。そもそも善とか悪とかと言う事は、世間の問題です。仏法は出世間の世界です。出世間には善も悪もない、善悪を超えた次元なのです。信心決定して浄土に往生したら、善悪を超えた涅槃の世界に住する身となります。しかし、私達は世間に住んでいるのです、其の為、善悪を考えないわけにはいきません。
この世の事は、全て、因縁によって起こります。因は私の内にあります。外にあるものは全て縁です。縁次第で、どんなことをも犯してしまうのが我々です。
『さるべき業縁の催せばいかなるふるまいもすべしとこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相を外に示して、うちには虚仮をいだけるものか』(歎異抄第一三章)
我々は誠に意志の弱い存在で、縁さえ起こればどんな事を為てしまうかもわからないのが人間の本性です。所が、信心を頂くとは、主体が変わることです。
私が主人公であったのが、変わって、如来が主人公になるのです。其れを『前念命終、後念即生』と言います。私が主人公であった『前念』が死んで、直ちに、如来が主人公になる『後念』が生まれるのです。
『念仏申す身となる』と云う事は、この様な変革が起こることなのです。それで『南無阿弥陀仏は大行である』と言われるのです。大行とは如来の行であると言われますが、私の上に、大きな変革を起こす働きです。
一度、南無阿弥陀仏が働くと、主客が顛倒して主人公が阿弥陀仏になるのです。
『弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり、南無阿弥陀仏の主になるというは、信心を獲る事なりと云々』(御一代記聞書、30の35)
南無阿弥陀仏が主人公となるとは『み仏の前なる生活』です。日頃、如来在しますことを忘れた生活をしている私が、み教えによって如来の前に引き出されるとき、初めて如来の前の生活に連れ戻されるのです。
如来の前に連れ出された者は、如来に見いだされた生活ですから、何もかも見通されています。如来を忘れた生活に終始する私を、如来の前の生活に引き戻す道は、聞法のご縁に遇う以外にはありません。
聞法の縁に遇う間隔が遠くなるなれば、電線がたるんでしまったように、生活がたるんでしまいます。
如来が主人公である、如来の前なる生活に瞬時でも連れ戻される生活を志したいものです。其の為に、聞法の会座に足繁く出席することが大切です。
聞法によって如来の前なる生活に連れ戻されても、又直ぐ如来を忘れた生活に戻ってしまう我々ではありますが、仮令暫らくでも如来の前に引き戻される時、私達は自分を取り戻すことが出来るのであります。そうして、罪悪深重の我が姿を懺悔せざるを得ないのであります。そのような生活を続けることが念仏生活でありましょう。
『大法の如く、戦々恐々として歩め』と、夜晃先生は誡めておられます。『大法の如く』歩む事を忘れて、放縦な生活に流されてしまう我々に、聞法は大切な警告を発してくれる縁であります。
聞法に心がけ、如来の前なる生活に呼び戻される以外には、我々の生活を糺す方法はありません。其の上で、善悪の事は如来にお任せして、ひたすら、念仏申すのです。
善きにつけ、悪しきにつけ、ただ、念仏申すよりしか道のない私であります。念仏したらどうなるか、結果は知りません、念仏申すより外に、道のない私であります。
『一碗の苦味に託して、愛憎善悪の心を浄土に流し、念仏するを茶の湯と言う』と夜晃先生は言われました。日常生活の一つひとつを縁として、念仏するより外にないのが、私どもであります。
親鸞聖人は、歎異抄に『善悪の二つ総じてもて存知せざるなり』(歎異抄23の13)といわれます。存知とは、我々の分別の心です。分別の心によって、善悪を計らう事は、賢い事のようですが、我々には、善悪を正しく見分ける力が無いのです。善と思ってしたことが悪い結果になったり、悪と思ったことが善い結果を招いたりするのです。遠くを見据えることが出来ないのです。
如来のみ善悪を見分けることが出来るのだと云う事を、肝に銘じて承知すべきであります。ですから、念仏申すより仕方のない私だと言うのです。
『よしあしをの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、善悪の字しりがおは、おおそらごとのかたちなり』(11の42)
『聖人の仰せには「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり。その故は、如来の御心に善しと御召すほどに知りと徹したらばこそ善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと御召し程に知り徹したらば悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は萬の事みなもてそらごと・たわごと真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」とこそ仰は候いしか』(歎異抄、23の13)
存知とは、人間の計らいで3あります。信知は、信心の智慧に依る自覚であります。
『唯、念仏のみぞ、誠にておわします』と言う事が信知の世界です。

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