水琴窟 17

水琴窟 十七
問、摂取不捨とは何う言う事ですか。
答、 (
歎異抄には『弥陀に誓願不思議に助けられまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の発る時、すなわち、摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり』(23の1)とあり。また、観無量壽経には、『光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨』(2の15)とあります。
本願に救われることを『摂取不捨』と言うのです。しかし、本願に救われると云う事は如何なる事かが判りません。それを考えることに致します。
先の歎異抄には、『念仏申さんと思い立つ心の発る時』とありました。その『時』が大事な意味を持っているのです。
『時、が熟す』と云う言葉があります。 永い間、待たれていたものがやっと日の目を見るようになることを『時が熟した』と言います。我々が本願の救いに遇う事も時が熟したのです。即ち、永い間念じられてやっとその時が来たのです。宿善開発とも申します。
今、『念仏申さんと思い立つ時』と言う時も、『時が熟した』のです。この『時』は、普通の時計で測る時ではありません。普通の時計で測る時を突き破って『永遠の時』が顔を出した時であります。それを、『永遠の今』と申します。
時計で測る時は、何年何月何日何時と言う時間ですが、『永遠の今』と言う時は、何時でも『今』でありますので、今、今、今と今が連続している今であります。『念仏申さんと思い立つ時』は、何時でも今であります。その今を『摂取不捨』と言います。
私共が、日頃聞法していて、仏様の事を思い出して、『確かに、仏様は在します』と佛を念ずる時、『摂取不捨の利益に預けしめ給うなり』と言うのです。
『摂取不捨の利益』は、何年何月と言う時間では測られない『今』と言う時間でしか語れないものです。
その体験を、観無量壽経では、『阿弥陀仏が空中に住立し給う』と表現しました。それについて善導は、『応声即現』と言います。『声』とは、釈尊の説法の声です。それは耳に聞こえる音声ではありません。法を説かれる音声を聞いて、説かれている法の心を聞き取るのです。釈尊は今はいらっしゃいませんけれども、尚、法を説いて下さる方が有れば我々も声を聴くことが出来るのです。
声を聞く事が出来るとき、『応声即現』と阿弥陀仏に遇う事が出来るのです。このこと以外に『摂取不捨』はありません。
しかし、善導は更に『応心即現』と言います。『応心即現』とは、阿弥陀仏は衆生の、『阿弥陀仏に遇いたい』と言う心の底深くに隠されている熾烈な願い、曇鸞は其れを『情願』と言いました。善導は其れを『安楽の慈尊、情を知るが故に、東域に影臨す』と『情』と縮めて言いました。衆生が阿弥陀仏にお会いしたいという切実な願いを抱いて、阿弥陀仏の仮の姿である阿弥陀仏の像を礼拝する時、阿弥陀仏はその心を見そなわして、衆生の前に姿を現して下さるというのです。これが『応心即現』と言う事実であります。
この『応声即現』と『応心即現』と云う二つの事実は、阿弥陀仏に遇う為の必須の条件なのです。釈迦の教えを聞こうともしない者、従って阿弥陀仏にお会いしたいと願う心のない者の前に姿を現すことはありません。
勿論、姿を現すと言っても、人間の目に見える形で現れるのではありません。聞法によって、心に阿弥陀仏在しますと頷くことです。それは、わが身を『心想ルイ劣の凡夫』と自覚した者の心に頷かれる事実であります。
『念仏申さんと思い立つ心の起こる時』とは、『阿弥陀仏に遇いまいらする時』と言う時です。『摂取不捨の利益』は我々が阿弥陀仏に遇うことによって成就するのです。それを、『唯観念仏衆生摂取不捨』と言われています。『念佛申す者のみ』を摂取不捨すと云うのです。何故でしょうか。それは後で申します。
『摂取』という言葉は、食べ物を摂取するとは食べ物が私の血となり肉となる事であります。如来は、衆生の現実の全てを受け取って、如来の血となり肉として下さることであります。
我々の現実が、如来に受け取られて、如来の血となり肉となるのです。すると、我々の現実が、全て意義のあるものに成るのです。如来に摂取されなければ、我々の現実は、不消化になり、空しく、意味の無いものに終わるのです。人生空過で、愚痴の儘の中で死んで行くより外に無いのです。
我々の現実が、全て意味のあるものとなる時、空しく過ぎることのない人生を賜わる事が出来るのです。
本願力に遇いぬれば 空しくし過ぐる人ぞなき
功徳の宝海満ち満ちて 煩悩の濁水へだてなし
と和讃に述べられる通りであります。
さて、何故『念仏の衆生のみ、摂取不捨される』と言うのでしょうか。観無量寿経には、『光明遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨』と有って、『唯観念仏衆生摂取不捨』と言ったのは、善導大師です(12の22、往生禮讃)。善導は『唯観』の二字を加えることによって、『念仏衆生』と云う事を、明確に照らし出し強調したのです。
『念仏衆生』とは、ただ念仏を声に出して称えて居る衆生と云うのではありません。本願を信受して、如来在しますことを明らかにわが身の上に、立証した衆生であります。そのことを抜きにして、いくら『摂取不捨』を語っても、単なる言葉の遊びになるのです。
『摂取不捨の利益にあづけしめ給う時』とは、普通の日常の時間、即ち、何年何月何日と言う時間ではありません。『時が熟した』時間であります。時が熟すとは、永遠の時が日常の時を貫いて、永遠と日常が交差した時であります。それは『今』と云う表現でしか言いようのない時間であります。
『人身受け難し今既に得く、仏法聞き難し今既に聞く』と言う『今』であります。その時、人間は無上の喜びを与えられるのであります。この『今』は、喜びに満ちた時であります。それを『摂取不捨』と言うのであります。           観無量寿経には、『この語を説き給う時、無量壽仏空中に住立し、観世音・大勢至、是の二大士、左右に侍立せり』と説かれています。この『時』が、摂取不捨の時であります。
無量壽仏には、観音と勢至の二菩薩だけが侍立して、他の仏も菩薩も一切居ないのです。これは無量壽仏のみの働きを現しているのです。
此の『空中に住立したもう阿弥陀仏』を初めて礼拝したイダイケが、阿弥陀仏の御心にお会いしたのです。『仏身を観ずるを以ての故に亦仏心を見る、仏心とは大慈悲これなり』(2の15)と言わています。その時が、今申します『永遠の今』と言われる『時』であります。此処に、イダイケの救いが語られているのです。當に『摂取不捨の利益にあづけしめ給うた時』であります。

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