水琴窟 18

   水琴窟 十八
 問、摂取不捨とは何う言う事。 (続き)
 答、
 阿弥陀経和讃に、
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし  
摂取して捨てざれば 阿弥陀と名ずけたてまつる。 (11の20)
と言われています。阿弥陀仏と言う名は、十方の衆生を摂取不捨して下さるるから、阿弥陀仏と申し上げるのです。
 阿弥陀仏の本願は、どんな状況の人間でも善悪浄穢の区別無く、平等に摂取して下さるのです。大変結構なことのように見えますが、実は、衆生にとっては、とても困る事なのです。何故かと言いますと、衆生は平等と云う事が最も嫌な存在なのです。衆生が求めている事は平等ではなくて差別なのです。
 愛と言うのも私一人、幸福と言うのも私一人、豊かと言うのも私一人、苦しみも私一人が逃れればよいのです。常に私一人が都合よく行けば良いのであって、他人の事は如何でもよいのです。
 平等を愛するというのは、自分だけが不幸にならない為の防衛で、本当は自分だけの差別を求めているのです。ですから、一切を平等に救うと云う事は、迷惑な話でありまして、私だけが救われればよいのです。
 所が、阿弥陀如来は、一切衆生を平等に救うというのですから、『あんな嫌な奴まで救われるのか』と云う事になるのです。
 貴方は熱心に念仏しているようでも、『絶対許せない者が一人でも居る限り、貴方は救われません。』と言われます。何故でしょうか。
 如来は、『平等の大悲』と言われます。如来の前には、許されない者は一人も居ないのです。其の為に、念仏の衆生も一切衆生を平等に受け入れなければならないのです。しかし、これは我々にとって不可能な問題であります。そこに念仏の厳しさがあります。
 念仏することくらい、たやすい事だと思っているかもしれませんが、念仏申すことは、凡夫にはとても難しい事であります。この難しさを潜ってこそ、念仏が大事な働きを為し遂げる事が出来るのでしょう。
 実は、平等と云う事は、我々には既に成就しているのです。我々は、皆、凡夫と言う平等の大地の上に居るのです。所が、自我と言うものに邪魔されて、平等の大地を拒否して自分だけは特別の存在であると考えて、自分は凡夫ではない様に思っているのです。
 自分だけは違うと思っているのは、足が大地についていないのです。宙に浮いて居て、糸の切れた凧の様に、ふらふらと風の間に間に漂って流され続けて居るのです。これを流転の生活と言います。 これを善導は、『決定して深く、自身はこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこの方、常に没し、常に流転して、出離の縁有る事無しと信ず』と言いました。
 この『機の深信』の自覚こそは、万人平等です。この機の深信の自覚に目覚めた者は、初めて、万人平等の地平に立つ事が出来るのです。      
 親鸞聖人は、
 『第一の深信は、決定して自身を深信する。即ち是れ自利の信心なり』(一四の十九)
と言われます。
 本当の自分に目覚め、見失っていた自己を取り戻すのです。それを『自利の信心』と言われたのです。その時、自他の区別を超えて、如来の平等の大悲の中に摂取不捨されるのです。摂取不捨の事実以外に阿弥陀仏は居られないのです。
 『阿弥陀仏は何処に居られるのか』と言うと、摂取不捨の事実に目覚めた『其処』に居られるのです。如来の智慧光に照らされて、罪悪生死のわが身に目覚めた、『機の深信』の自覚が生まれた、その所に、阿弥陀仏は在しますのです。何処か別の所を探しても、阿弥陀仏にお遇いする事は出来ません。
 浄土真宗の安心は、偏に『機の深信』に在ります。『法の深信』は、摂取不捨の事実ですから、機の深信の所にある訳です。それで『ひとたび、機の深信が成り立つと、法の深信は、機の深信に包まれる。』と言われるのでしょう。『機の深信はもう解ったから、今度は法の深信を説いて欲しい。』と云う事はありません。機の深信に徹する事以外に摂取不捨はないのであります。
 教行信証の総序に『誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世奇有の正法、聞思して遅慮することなかれ』という言葉があります。それに就いて、平野修先生が、『摂取とは、その言語から言いますと、「受け容れる、納得する。把握する」と言うのが、元々の意味です。・・・我々自身が、我が身に納得すると云う事です。しかし我々は、いつの間にか、自分と言う者を捨てていく。あるいは、利用はするけれども、本当の意味で受け容れていないという面を持っております。・・・私と言う意識にとっては、この体も利用の対象です。それは丁度、人間の意識にとって環境と言うものが利用する、利用できると言う事での関わりしか出てこないと云う事に、よく似ております。』
 先生のお父様が中風にかかって、涎を垂らしながら念仏を称えて居られるのを、疎ましいことに思って見ていたことに、『大変な間違いをしていた』と、反省しておられます。
   (平野修選集、第6巻、p151)
 『摂取すると云う事は、本当の意味で受け容れると云う事です。価値が全く無くなっても、なお、受け容れることが出来ると云う事は、これは、我々の意識からは出てこないと言う問題が在ります。そういう意味で、南無阿弥陀仏と云う事が、摂取不捨の真言、真実の言葉です。』 (平野修選集、第6巻、p155)
 法然上人の『浄土宗の人は、愚者になりて往生す。』と云う言葉があります。愚者とは、自ら主張すべきものが何も無い者と云う事です。南無阿弥陀仏と表す『仏陀の世界』だけが『お前など生きている意味がない』と云う事を絶対に言わない世界、そういう世界があることを、南無阿弥陀仏が現しているのです。(同上)
 我々の意識は、人でも物でも自分にとって利用価値があるものだけが尊いのであって、利用価値がなくなれば、弊履の如く捨ててしまいます。親でも、我が子でも、お構いなしです。近年このような傾向が益々激しくなってきました。親を大切にするという儒教道徳などどこ吹く風かといった風潮が大ぴらにはびこって、年老いた親は施設に入れられる事になりました。エゴイズム丸出しの世の中であります。
 もう一度、人間らしい思いやりのある時代は、帰って来ないのでしょうか。まさに人間喪失と言うべきであります。
 何としても、お念仏の教え『浄土真宗』が、復活して、念仏の声が巷に響く時代が来なければ、人間復活は出来ない時代であると言わねばなりません。

 

 

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