水琴窟 22

水琴窟 22
問 二尊教について
答 二尊教は、釈迦牟尼佛と阿弥陀如来が、別々の役割を果たしながら、一致して衆生救済を果たして行く宗教であります。
宗教は本来多神教から進化して一神教に成ったと言われています。確かに現在では、一神教の構造が宗教の主流であります。  所が、日本では、浄土真宗と言う、二尊教の構造を維持していて、明らかに一神教と違う構造を保っている教団があり、先進国で唯一の『非一神教』の国であります。
浄土真宗の源流は、無量壽経と言う経典に由来しています。この経典は、法蔵菩薩の物語から説き始められています。恐らく、この『法蔵菩薩の物語』は、古い神話を源泉にしていると思われます。これはモンゴリアンと言われる種族が伝承して来たものでありましょう。
モンゴリアンはインドからは、ヒマラヤを挟んで、南北に分かれて東進しますが、日本で、もう一度合流するのです。所が、日本に到達する時間にずれが生じて来ますので、両者には、思想に若干の相違が生まれました。
インドから南の海上を進んだ種族は、1万年も早く日本に到着して、所謂『縄文文化』を形成して居ました。其れから一万年も遅れて日本に到着したのが、北を進んだ種族で、『仏教伝来』と言われれている現象を日本に伝えたのです。
この時初めて日本人は仏教に出会ったと言われているのですが、縄文時代にはどんな宗教が信仰されていたのか、現在では判らないと言われています。
少なくとも、『神ながらの道』と言われる宗教が存在していた筈ですが、その全貌は、弥生時代に改竄されて仕舞って、今では原型は不明であると言わねばなりません。
しかし、北アメリカに渡ったモンゴリアンの神話によると、阿弥陀佛の神話によく似た物語が見られる所を見ると、元々、モンゴリアンの神話には、阿弥陀仏の信仰があったのではないかと思われます。
阿弥陀仏は、ゴッドと同様な優れた神格を持ちながら、決してゴッドの様に唯一神を主張しないで、他の多くの神々と仲良く同居する神として仰がれているのです。
アメリカに進出したキリスト教の牧師が、アメリカインディアンの神話を研究して、『彼等の神は、我々の言う「ゴッド」だよ』といくら言っても、現住民は聞き入れなかったと言います。そこで、その神を、グレート・スピリットと呼ぶことにしたのだと言われています。
確かに、『ゴッド』と『グレート・スピりット』には、重大な相違があるのです。それを見分けて、能くも頑張ったものと思われます。
阿弥陀仏と、諸仏は、夫々異なった役割を果たしながら、一致して衆生を救う働きを果たすのです。それで、釈迦弥陀二尊教と言うのです。釈迦は諸仏の代表であります。二尊二教の儘が、二尊一教と言う衆生の救いを成就するのです。
勿論、グレート・スピリットと阿弥陀仏が同じものかどうかは判りませんので、これは想像の域に過ぎませんが、よく似た構造を両者は持っているようです。
この構造を持つ宗教が、最も健康な宗教であると言われているのです。宗教の健康性と言うのは、観念論や、偶像崇拝に堕す事無く、又、無因論と、他因論を離れる事であります。
観念論は、人間の理知によって、宗教を解釈することであります。人間が創った思想であり、理性中心の、理知の産物でありますから、宗教とは言えないものであります。
偶像崇拝は、人間が勝手に創った神に、人間の要求を祈る事であります。どんなに真剣に祈っても、要求が叶えられるか叶えられないかは、その時の条件に依るので、偶々叶えられたら霊験あらたかな神だと喜んでいるだけの事です。
また、他因論は、人間が勝手に創り出した神に、摩訶不思議な力があると信じて、人間の要求を叶えてもらおうとする信仰で、恩寵の信仰であり、神のお慈悲に、ひたすらすがる信仰でありまして、甘えの信仰であります。
無因論は、神も仏も在るものかと言って、何も彼も投げ出してしまう事です。人生を真面目に努力しようとしなくなり。遂に破滅に至ります。
ニーチェは、『神々は死んだ』と云いました。その結果、ニヒリズムだと言って非難攻撃を受けましたが。しかし、ニヒリスムの深淵から世界を見据えてみる必要があるのでしょう。仏教も神の存在を認めませんから、西洋の思想から見ればはニヒリズムと言う謗りを受ける恐れがあります、しかし、其処には深い思索が有るのです。
親鸞は、『地獄は一定、住み家ぞかし』と言いました。若し、『念仏のみぞ、誠にておわします』と言う言葉が無ければ、あれは、ニヒリズムの思想であります。しかし、其処には前人未到の深い思索が積み上げられていました。
キリスト教が、地獄へ堕ちたら、絶対救われないと云うのは、ニヒリズムに堕することを言ったのです。仏教の地獄は、人間の状態の一つですから、地獄の意味が違うのです。同じ『地獄』と言う言葉を用いたから混乱したのです。
仏教でも、ニヒリズムに堕ちたら、真実も仏も、その存在を認めないのですから、救いの対象から外れるわけです。ただし、『回心懺悔して、本願に帰すれば』必ず救われるのが浄土真宗です。
偶像崇拝は、人間の迷妄によって生み出されたされた神に、人間の幸福を祈るものでありますから。決して正しい信仰とは言えません。
また宗教の観念化は、人間が理性で解釈して、創り出した思想です。神と言うも仏と言うも、人間を救う力はありません。人間が勝手に理屈を並べているだけで、自分で自分を持ち上げようと為るようなものです。
今、宗教の健康性を失う条件を四つ並べました。今日、宗教と称している諸々の宗教団体が、果たして健康な信仰でありうるのか、不健康なものであるのか、能々、自分に問い質してみる必要があるようです。これは、宗教団体としての、浄土真宗教団にも言わねばならぬ問題であります。
現在、二尊教と言う宗教構造を持つのは浄土真宗しかありません。それ故に。浄土真宗の存在は貴重であります。此の浄土真宗を大切に護り、世界に発信することは、人類の将来に対する大切な使命であります。
上来、二尊教の優れた問題点を挙げてきました。今日。一神教が行き詰まっている時代に、一神教を否定して二尊教を弘めるのではありません。一神教にも優れた面があります。そこで、静かにお互いが話し合って、互いに相手を尊敬し合う関係を樹立したいのです。
真理は一つでしょうが、それを理解する立場は、それぞれ違っていても良いのでしょう。相手の立場を認め合って話を進める事こそ、世界平和の基礎であります。
中々相手の主張が認められないこともありますが、其処はお互いに辛抱強く話し合って納得するより外に道はありません。国連の使命は其処に有る筈ですが、今の様に第二次世界戦争に勝った国に優先権が与えられている制度は改める必要があります。   寛容の精神は、人間には随分頼りないものではありますが、此の寛容の精神を、お互いに大事に護って行くより外には平和を護る手立ては有りません。
もう一度、覇権国家成立以前の、首長同士の話し合いの制度を取り戻して、平和の維持を図るべきであります。それが、仏教の願いでもあります。
国を棄て、王をすて、沙門となった法蔵菩薩の精神に目覚めて、話し合いを続けるける事が、大無量寿経の教えであります。
今日の争いは、全て、『真理は一つである』と云う信念の、その『真理』の解釈の相違が元になって居ます。しかし、人間の解釈は全て『所知障』です。
所知障は、『真理』そのものを正しく知る障害に成って居るのです。所知障の弊害を離れて、『真理』そのものを正しく求めるべきであります。其の為には、『仏教の叡智』を学ぶべきでありましょう。

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