水琴窟 30

   水琴窟 30 
 問、無宿善の機
答 御文 三帖目 第十二通に、『夫れ当流の他力信心の一通リを勧めんと思わんには、まず宿善無宿善の機を沙汰すべし・・・、無宿善の機は信心を取り難し。まことに宿善開発の機は自から信を決定すべし』と蓮如上人は言っています。之は文明八年一月の御文ですから、吉崎の御坊を捨てて、河内出口に移られた前年の八月から四ヶ月しかたっていません。吉崎の御坊が危なくなって大阪に移られるのですから、命の危険に迫られている頃のものであります。
 無宿善の機とは如何いう人の事でしょうか。当時は戦乱の時代でありますから、随分乱暴な人も居た筈です。その為に無宿善の機と言う言葉も出てきたのですが、本来、この世には、宿善を厚く蒙っていない者は一人も居ないのです。
 太陽の熱と光の恩恵を受けないものは、地上には一つもない様に、この世のものは、皆厚く宿善を蒙っているのです。にも拘らず、それに背を向けて却って仇をするものが居るのです。その宿善に背を向けて居る者に向かって、佛法を説くことはなかなか容易ではありません。しかし、『貴方も宿善厚き方であるのですよ』と何処までも信じて、法を説く必要があるのでしょう。無宿善の機であるから、『法を信じ難し』と言って投げ出すのではありません。何処までも無宿善の機を抱き続けて、法を説き続けられたのが蓮如上人でありました。
 『我が妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬは浅ましき事なり、宿善無くば力なし、我が身を一つ勧化せぬものが有るべきか』(30の11)とも仰せられています。  『宿善無くば力なし』とは、悲嘆の言葉であります。わが身の力が足りないことを嘆く言葉です。相手に宿善が無いと責めるのではありません。
 わが身に徳が有れば相手は必ず宿善に気付いて呉れるのですが、わが身に徳が無いので、教えの言葉に頷かないのです。だから、『わが身一つを勧化せぬ者が有るべきか』と言うのです。
 長年仏法のお育てを頂いて居ながら、妻子や孫たちに仏法を伝えることが出来ないのは、誠に申し訳ない事です。何としても、仏法の伝承を願うべきであります。
 現代は仏法を聞いてくれるものが少ない時代であります。永い戦争に国民の心が疲弊してしまって、佛法など聞く気が起こらなくなってしまいました。しかし、やがて復、仏教復活の時期が必ずやって来ると思われます。その時まで、佛法の種を絶やさない様に護持して置かねばなりません。
 現代はまさにそのような時代であります。このような時代こそ、仏法に遇い得た者は、只管に、『仏法、弘まれかし』との志願に生きねばなりません。その先人の厚い志願に支えられて、仏法の歴史は私の所まで伝えられて来たのです。 
 『嗚呼、弘誓の強縁は多生にも値い難く、真実の浄信は億劫にも獲難し、遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ』と親鸞聖人は仰せられます。誠に、不可思議の強縁に催されて、今ここに念仏に遇い得た事であります。遠く宿縁の深厚を喜ぶと共に、この宿縁を孫末代まで伝承させて頂かなくては成りません。
 しかし、人間には、個人の力だけでは如何にもならない限界があるようです。其処に、サンガの働きが重要になります。サンガの働きに依らねば、自分の子供や孫たちを、仏法に引き入れる事が出来ないのです。
 そんな馬鹿なことはない、私は私の力で子供や孫を教育して見せると思っているかもしれませんが、それは思い違いであります。私を超えたサンガの力によって育てられているのです。私の歩みが正法に叶っていれば、其処には必ずサンガが生まれるのです。
 真面目に仏法を求めて居た筈なのに、子供や孫が仏法を聞かないのは、サンガに対する私の姿勢に問題があるのでしょう。サンガに対する、恭順の姿勢が欠けているのではないでしょうか、よくよく反省してみる必要があります。
 親鸞聖人は、『御同朋、御同行』とかしずかれて居られたと言われています。夜晃先生は、『お同胞は、佛様から頂いた私の宝である』と言われました。それはサンガに対する、帰依、恭順の心であります。
 そもそも、阿弥陀如来は、十方衆生を諸仏として拝んで居られると云います。一神教の神は、一切のこの世のものを創り出した絶対者であります。しかし、阿弥陀如来は、我々人間を、善親友と呼び、眷属功徳(伴荘厳)と言われます。ここに、一神教とはっきり異なる人間観があるのです。
 この人間観こそ、仏教の大切なサンガの精神を培ってきました。サンガに対する恭順の心を大切に護って行く事が、仏教の伝承に欠くことのできない条件であります。
 サンガに対する恭順の姿勢とは、師や友に対する尊敬です。我々の心には、一見尊敬をしているように見えながら、その内面に、相手を見下して居たり、師や友を批判する心が隠れているのです。特に、同胞に対して、尊敬できないものが隠れて居る時、その人には、サンガを尊敬する心が無いのです。その心の底に深く隠れて居るものが、家族には見抜かれているのです。
 『私は、仏法を正しく受け止めている』と思っている自負心が、サンガを無視する心です。この心が災いをして、家族を仏法から遠ざけている事実を、厳しく反省しなければなりません。これは家族だけに留まらず、周囲の人にも及びますから、サンガは次第に枯れ果てていくのです。我が光明団のサンガも、枯れ果てることなく続く為には、この原理に気付いて、サンガを護る道を見つけなければなりません。
 其の為には、如何すれば良いのか、答えは一つ、サンガへの尊敬です。尊敬とは、サンガの行事に参加する事です。即ち、サンガの重要な行事は、講習会ですから、それに参加する事です。講習会に参加することは自身の聞法の為ですが、それにも益して、サンガを尊敬し、守護する事に成るのです。此の事が、今日サンガの一員にとって、大切な事だと思います。
 『我が妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬは浅ましき事なり。宿善なくば力なし、わが身一つを勧化せぬ者が有るべきか』との蓮師の言葉の、深い意味を受け取らねばなりません。    
 『わが身一つを勧化せぬ者が有るべきか』と言う言葉に、我が身の聞法の姿勢を深く問い直す心が滲み出て居ます。
 『自ら僧に帰依し奉る』と言う三帰依文の深い心が頷かれることです。私は長い間、この僧に帰依するという意味が解りませんでした。今、妻子を勧化するという問題に気付いて、やっとサンガに帰依すると言う意味が理解されました。
 サンガに帰依する事が出来なければ、妻子を勧化することが出来ないのです。サンガを無視する心は、我が身一つを善しとする心です。それは、二乗地の独覚の心でしょう。竜樹菩薩が、二乗地に堕する事を極力誡められて居た事を思い出します。
 二乗地に堕するとは、利他の心を失う事です。これは、大乗仏教の精神を失う事で、其の儘、仏道の教えそのものを失う事であります。帰依三宝が仏道の重要な精神であることも初めて頷く事が出来るようになりました。
 サンガを尊敬し、サンガに奉仕し、サンガを護り続ける事の、重要性を改めて思う時、我が光明団が、100周年を迎える事の意義を有り難く感謝申し上げる次第です。我々は、一致団結して、このサンガを護持して行かねばなりません。
 その為には、サンガの行事に奮って参加して下さい。そして、サンガに遠のいている人に極力呼び掛けて、サンガに復帰して頂くことです。これが、100周年の大切な記念行事であると思います。

    

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