水琴窟 31

   水琴窟 31 
 問、念仏は行である
答 『南無と言うは即ち是れ帰命、亦、是れ発願回向の義なり。阿弥陀仏と言うは、即ち其の行なり』と、善導大師は言われます。
南無阿弥陀仏は行であります。但し、如来の行であって、人間の行ではありません。『南無妙法蓮華経』と唱えるのは人間の行です。人間の行は威勢が良いですね。唱えていると元気が出て来ます。南無阿弥陀仏は称えても余り元気は出て来ないのです。
 行と言えば、普通には我々の、人間の行為しか思い至りません。其れで念仏も、行であると云えば、人間の行為だと考えるのです。
 行巻には、『諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行』と言われています。『行』について、これは、諸仏称名之願と云う本願から生まれ出たもので、阿弥陀如来の本願であります。決して人間の願いから生まれたものではありません。それで、浄土真実之行と言うのです。
 念仏は、浄土に生まれる為の、『行』なのであります。浄土に生まれる為には、行が無くてはなりません。普通現代人は、『死んだら極楽に行くのだ』と言います。しかし、行が無いのに極楽へ行ける筈はありません。 
 すると、『南無阿弥陀仏と言ってさえおれば、極楽に行けるのか』と云う事になります。
所が、極楽浄土と言ってみても、どんな所か、一度も行ったことが無いのですから、其処が浄土であるかどうかわかりません。此処が浄土だと云って、とんでもない所へ連れていかれも、文句が言えないのです、其れでは全く当てにならないことになります。
 念仏は、人間の行ではなくて、如来の行であります。如来の行でありますから、如来の働き懸けであります。如来の働きによって、私に変革が起こるのです。今までに経験したことのない変革が起こるのです。
 『極楽など有るのか無いのかわかるものか』と言っていた者が、『浄土は確かに在ります。如来は確かにおいでになります』とはっきり言い切れる私に変革されるのです。
 念仏が、浄土の行であることの証明として、『浄土真実之行』と言われるのです。更に、『選択本願之行』と言い、『極速円満』と言われます。念仏は、人間の選びでは無くて、如来に因る選択であるというのです。だから、極速円満なのです。           念仏は、如来の行でありますから、大行と言います。『大行とは、即ち、無碍光如来のみ名を称するなり』と、親鸞聖人は言われました。『称』とは、『かなう』とか、『釣り合う』と言う意味で、如来の願意に釣り合うと言うのです。行とは、変革でありますから、如来の願意と私とが釣り合うまで変革されることです。
 称名念仏は如来の行でありますから、如来からの働きかけであります。歎異抄には、『弥陀の本願誠におわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず、仏説誠におわしまさば、善導の御釈虚言したまうべからず、善導の御釈まことならば法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞がもうす旨またもって虚しかるべからず候か、詮ずるところ、愚身が信心におきては此の如し、・・・』と親鸞は言います。
 『弥陀の本願まことにおわしまさば』とは仮定的表現です。『もし仮に、弥陀の本願が誠であるとすれば』と言うのです。何故仮定的表現なのかと言いますと、弥陀の本願は、人間の決定事項ではないからです。人間の決定事項なら、信用できません。いくら、力を込めて主張しても、人間が決定したものは信用できないのです。弥陀の本願は如来の決定事項なのです。それで、人間の方から言えば、仮定的表現になるのです。
 仮定的表現であれば、頼りないではないかと言うかもしれませんが、それは人間の言う事です。如来の仰せでありますから、これ程確かなものはないのであります。
 ですから、『弥陀の本願まことにおわします』と、はっきり言い切っても良いのですが、
如来の決定事項であることを示すためにあえて仮定的表現を選んだのだと思います。
 如来の決定事項である弥陀の本願によって、釈尊、善導、法然と伝承されて来た念仏が、、今ここに、親鸞に受け継がれ、更に、八百年を隔てて、私にまで届けられた『念仏の歴史』の事実であります。之を、『信じ奉るとも、又捨てんとも、面々の御計らいなり』と聖人は言い切って居られます。此処に、如来の御働きかけに対する、聖人の絶対揺るぎない信心の姿勢が、いかんなく、明白に打ち出されています。
 念仏は、教権による押し付けではありません、又、権威による脅しでもありません。如来の御働きに対する、限りなき信頼であり、絶対信順であります。
 『面々の御計らいなり』と言うのは、自由の天地に人間を解放して、決して、人間を束縛せず、人間に自由に選ばしめる態度です。強権主義による束縛でなく、神の意志であると云って、強迫するのでもありません。全て自然の法則に従って、人間は手を離すのです。
 曽我先生は、『教行至り届いて、信証を生ず』と言われます。如来の教行が歴史となって私にまで届けられる時、正定聚 不退転と言う、証果が成就するのです。それは、一切人間の手が入らない、如来の御働きであります。
 念仏は如来の行でありますから、教行至り届いて、我々の上に『信証を生ぜしめる』と言う変革を興すのであります。 
 此処に『念仏は行である』と云う意味があります。如来の働きかけが私を動かして、浄土まで歩み切らせる変革をおこすのです。私には浄土に向かって歩むと言う心は微塵もありません。ただ縁に任せて右に左に流されている存在であります。その様な私が、真っ直ぐに方向を決めて浄土に向かって歩む存在に変革されるのです。
 『教行至り届いて、信証を生ず』とは、私の上に浄土に向かう願生心が芽生える事であります。如来の『欲生我国』の召喚に応えて、『願生彼国』の歩みを始めるのです。この様な変革を生ぜしめる働きを如来の行と言うのです。🅂
 南無阿弥陀仏は、南無の願と阿弥陀物の行と、願行具足の念仏と言われます。この願行具足の念仏によって、私の往生が決定するのであります。
 願も行も、如来より賜ったものであります。此れは、私の方からはお返しなしの『純粋贈与』と言われものです。この世には、『純粋贈与』と『交換関係』と言われる二つの関係があります。純粋贈与はお返しなしの関係ですが、交換関係は、等価交換ですから。やり取りは、全て等価でなければなりません。損得なしの交換です。その為に、貨幣と言うものが創り出されたのです。
 人間の営みは、すべて交換関係で成立しています。しかし、その中でも『母と子』の関係の様に、お返しを求めない純粋贈与も厳存しているのです。人間の存在の原点には、本来、純粋贈与が存在して居るのですが、それを忘れて、交換関係だけで、物事を割り切ろうとするところに、人間の迷いや、争いが始まったのです。 
 もう一度、純粋贈与の意義を、問い直して見る必要があるのです。

    

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