水琴窟 34

   水琴窟 34 
 問、宿善開発
答 御文 二帖目、第十一通(29の25)に、『宿善開発して善知識に遇わずば往生は叶うべからざるなり』とあります。これは、元、覚如上人の『口伝鈔』の文に依るのであります。
 『口伝鈔』(25の3)『然るに、宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、一念疑惑を生ぜざるなり。その疑惑を生ぜざることは、光明の縁にあう故なり。もし光明の縁もよおさずば、報土往生の真因たる名号の因をうべからず。言うこころは、十方世界を照曜する無碍光遍照の明朗なるに照らされて、無明沈没の煩惑、漸々に融らけて、涅槃の真因たる信心の根芽わずかに萌すとき、報土得生の定聚の位に住す』と言はれて居ます。長く成りましたが、覚如上人の篤い思いが込められていますので敢て引用しました。これを、『五重の義』と申します。  
 共に五重の義の項目は同じですが、覚如上人と蓮如上人では、順番が違っています。それぞれ、引用の思惑が違いますのでこういう事に成ったのでしょうが、善導の『光明名号摂化十方』の説を重視すれば、覚如の説が正しいと思われます。
 それはとも角として、宿善開発して善知識に遇うと云う事は、両者一致しています。宿善の働きと言う事が起こらなければ、善知識に遇えないのです。宿善を求めて捜し歩いても、宿善とは如何言うものか判りません。宿善は、遇ってみて、これが宿善であったかと頷くものです。
 それでは、誠に頼りない事になりますが、そもそも、宿善に巡り合う為には、ひたすら聞法するより他はないのであります。その聞法は、自己を求める為の聞法でありす。自己を求める事を抜きにして、法を聞いても、話に終わります。l
 宿善開発して、善知識に遇うと言う事は、同時に起こる事実であります。我々から言えば偶々の事でありますが、如来の側から見れば、永く待ち続けた『時』がやっと訪れたのであります。
 宿善開発して善知識に遇うと言う事が起こらない限り、往生は叶わないのであります。それは、光明と名号の御働きに依るのであります。信心決定することは、偏に光明名号の御催しであります。
 只管、聞法することは、私の努力でありますが、それに報いて善知識に遇うと言う事は、如来の御催しでありますから、信心決定して念仏申すことは、全て他力の御催しに預かっての事であります。 
 宿善開発して善知識に遇う者は、先ず、ひたすら聞法に励みます。これが声聞と言われる段階です。聞法に励んだ結果、次第に仏法が判ってきます。これが縁覺と言われる段階であります。仏道を求めるものは、必ずこの声聞と縁覺の段階を経なければなりません。
 しかしこの段階で留まってはいけないのです。それは二乗地に堕するものとして嫌われるのです。この二乗地から脱出して、菩薩道に入らねばなりません。
 菩薩道は、自利利他の世界です。二乗地は自利のみの世界です。自利のみの世界とは、自己関心に終始する世界です。菩薩道に至って、初めて、利他が問題になります。自利と利他が成就して初めて仏道が成就するのです。釈尊は、『自利、利他、覚行窮満』の徳を成就されたと説かれます。正しく、仏道を成就された証拠です。
 我々も、仏道成就の為には、自利利他が成就しなければなりません。所が、浄土真宗では、自利も利他も如来の回向によると説かれます。往相回向と還相回向であります。
   弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり
    これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ  往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり  悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり
還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ
すなわち諸有に回入して 普賢の徳を修するなり (11の26)
往相・還相の回向に もうあわぬ身となりにせば
流転輪廻もきはもなし 苦海の沈淪いかがせん (11の36)
 如来の回向は、純粋贈与であります。大自然は、純粋贈与の原理で成り立っています。大昔の人々は、この大自然の純粋贈与を、深い感謝の心で受け取って生きて居ました。所が、現代人は、自然を利用すべき物質と受け止めて、様々に利用し、感謝の心を失いました。其の為、如来の回向と言う事も理解できなくなりました。
 浄土真宗の念仏者は、自利も利他も、如来の回向によって与えられるものであると教えられて来ました。如来の回向とは一体どんな事なのでしょうか。大自然の恵みの様に、その行いに対して、一切代償を求めない行為です。之を、純粋贈与と申します。
 所が、人間は此の純粋贈与に甘えて、貪り求める事ばかりに走りました。その結果、大自然は、枯れ果てて、息も絶え絶えに成って居ます。如来の回向は、衆生の仕打ちにもめげず、回向を続けて下さるのですが、其の為に衆生の方が、自ら疲弊して、荒れ果てた砂漠のような大地を歩むことに成ります。
 この荒涼たる砂漠の大地にも、時に、清らかな泉がわき、澄み切った花が咲いているのですが、荒れ果てた衆生の心には、それが見えないのです。合掌念仏して、この事実に目を覚ますべきであります。
如来の回向によりてこそ、業火に焼かれ、宿業に翻弄されている我々に、合掌念仏の生活を成就して下されるのです。
 この如来の純粋贈与を、有り難く頂戴する事のみが、我々衆生の勤めであります。如来は、衆生に何ほどのお返しも要求しません。ただ合掌して、如来の回向を感謝申し上げるのです。それを、報謝の念佛と申します。
 其処に開かれる世界は、罪業深重の自覚であります。如来の純粋贈与を素直に受け止められずに、自力の手を出してもぎ取ろうとするのが、仏智疑惑の罪であります。
 人間は、大自然の純粋贈与を素直に受け取らないで、却って、より多くの物を得ようと、貪りました。丁度その様に、如来の回向をも貪り取ろうとしているのです。
   仏智うたがう罪ふかし この心おもい知るならば くゆる心をむねとして 仏智の不思議をたのむべし(11の38)
 如来の回向と言う純粋贈与を、此の身に賜って、篤い御恩徳を頂いて居るわが身の事実に気付く時、ただひれ伏して、如来に合掌供敬するより外に、私の道はありません。其処に、宿善開発して善知識に遇い得た者の、安らかな感謝の姿があります。

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