水琴窟 46

       
水琴窟 46
  問 浄土の定散の機  
  答 『仮と言うは、即値是れ、聖道の諸機、浄土の定散の機なり』 (12の92)
  もう一つ,仮に就いて『浄土の定散の機』と親鸞は言われています。是れについても、考えてみる必要があります。
 『浄土の定散の機』と言うのですから、是れは念仏を申して浄土に往生を願う者なのです。所が、是れも、仮の仏弟子と言われる者となるというのです。
 其れはどんな衆生かと言うと、念仏を称え、仏を大切に崇めているようですが、私と言うものを第一にして居て、仏は二番目になっている者です。私が可愛いいと言うことが一番に成っているのです。すると仏は私の爲に利用するものになります。仏法を利用するだけになって、仏法に帰依して居いないのです。其れを、仏智疑惑の者と言います。
 私が、私がと,何を為るのも、私が中心に成っている限り、仏に背いて居るのです。是れは、中々自覚しにくい問題です。自分では仏法を大事にしているつもりですから、お前は仏に背いて居ると言われても、容易に納得出来ません。
 仏智疑惑の者は、胎宮に生まれて三宝を見ることが出来ないと言われます。仏を見ず、仏法を聞かず、僧伽に帰依することが無いのです。中でも。仏道を歩む者に取って,僧伽に帰依することが出来ないと言うことは、一番大きな欠陥に成ります。是れは一人よがりに為るのです。本人は、立派に仏法に帰依して居る心算ですが、独覚と言う独善の世界に閉じこもって、自己が見えなくなるのです。
 是れは、大無量寿経の最後の課題でありました。わざわざ、弥勒菩薩に,世尊に問わしめると言う形を取って、此の問題を取り上げるのです。 
 世尊は、浄土の有様を弥勒に見せて、浄土の大衆が一勢に念仏しているのに,『この中に、胎生の者が居る、弥勒よ其れを見たか』と弥勒に問われます。すると、弥勒は確かに胎生の者がいると世尊に申し上げるのです。此の問答の後に、弥勒が何の因で浄土に胎生の者と化生の者が居るのかと問うのです。その弥勒の問いに対して、世尊は、『疑惑の故に胎生となる』と答えるのです。
 こんなやりとりをして、大無量寿経が、わざわざ此の問題を取り上げるのは、やはり大事な問題であるからでありましょう。大無量寿経の最後に成って、如何しても取り上げなければならない問題であるのでしょう。胎生の問題は、人間に最後までくっついて離れない,人間の最深の病いであります。死ぬまで離れる事が出来ない病であります。
 さて、死ぬまで離れられない病と言うことですが、人間の心の奥に隠れている、深い病であります。其れを善導は、『無有出離之縁』と言いました。是れは人間の自覚では捉えられない病でありまして、如来の智慧の光によってのみ見出されるものであります。
『浄土の定散の機』と言うのですから,聖道門から漏れている自分である事は自覚されて、ひたすら念仏を申しているのですが、『如来の嘉号を己が善根と為る』と言われるように、『私は念仏しているから善いが、あの人は、念仏しないから駄目だ』と自分の念仏を誇りに思う心が心の底に隠れて居るのです。此の思いは中々自覚されない心であります。是れを、佛智疑惑の罪と言います。是れによって胎宮に生まれるのです。
 人間は、よくよく自己肯定の存在です。折角念仏しながら,その善根を,自分の功績に為るのです。念仏は、如来の功績です。衆生の功績ではありません。しかし、その功績を自分のものにしたい衝動を抑えられないのです。ここに如来無視の姿があるのです。
念仏は、如来回向の行であると聞きながら。『私は念仏しているから善いが、貴方は念仏しないから駄目だ。』と言いたいのです。その思いは、幾つになっても無くならないのです。是れが如来無視の我が身の姿であります。
 曽我量深先生が、『信前の疑惑と信後の疑惑』と言うことを言われてお居られるそうです。信前の疑惑は,如来を対象化して疑うのですが、信後の疑惑は、本願の嘉号を己が善根とする事でありましょう。
 信前の疑惑もさることながら、信後の疑惑こそ、最も注意すべき問題であります。その為に、折角の大慈悲を空しくするのです。『自障障他の罪』を犯すものと言うべき存在であります。しかも、その存在が、私自身である事が解らないのです。
 親鸞聖人が,晩年になって、しつこいほど『佛智疑惑の罪』を和讃に詠い続けられる所以が,やっと理解されるように思います。この仏智疑惑の罪は、一生涯死ぬまで消えることの無い罪でありますから。生きている限り念仏して我が身に問い続けなければ成らない問題でありました。
 『浄土の定散の機』こそ、念仏申す者にとって、最も大切な課題で有ります。
   『権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ』
と言う和讃の意味の深さを知らされた事であります。
 既に、聖道門の教えからは、はみ出してしまって、救われない身である事は自覚されていて、念仏より外に救いの道が無いことは解っているのです。だから、念仏に励むのですが、その念仏を称えていることに誇りを見出して、念仏申さぬ人に対して、念仏を申していることを肯定して、他を批判して居るのです。
 確かに、念仏申すことは優れた行為ではありますが、其れは、如来が優れているのであって、衆生の功績ではありません。衆生は、ひたすら罪業深重の身に覚めて、如来の前にひれ伏すべきであります。この『機の深信』に徹する事が浄土真宗の要であります。
 『機の深信の話は、聞き飽いたから、今度は、法の深信の話をし て呉れ。』と言う人がありますが、其れは仏法を聞いているのでは無くて、ただ話を聞いて居るのです。
 機の深信に徹する以外に仏法を聞く道はありません。心すべきことであります。我が身の『浄土の定散の機』である事を銘記して、慎み謹んで聞法す可であります。
 
 

     

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