水琴窟 47

    水琴窟 47  
 問 『いのち』は誰のもの  
答  安心決定鈔に『天親菩薩の「往生論」に「帰命尽十方無碍光如来」と言えり、深き法も浅き譬えにてこころえらるべし。たとえば日は観音なり、その観音の光をば、みどり子より眼に得たれども、稚き時は知らず,少し小慧しくなりて、自力にて「わが目の光にてこそあれ]と思いたらんに、よく日輪の心を知りたらん人「己が目の光ならば夜こそ物を見るべけれ、速やかに元の日光に帰すべし」と言わんを信じて、日天の光に帰しつるものなれば、わが眼の光やがて観音の光なるが如し。帰命の義もまた斯くの如し。知らざる時の命も阿弥陀の御命なりけれども、稚き時は知らず、少し小慧しく自力になりて、「我が命」と思いたらんをり、善知識「もとの阿弥陀の命に帰せよ」と教うるを聞きて、帰命無量寿覚しつれば「わが命無量寿なり」と信ずるなり。』(28の15)
と説かれてあります。
 『わが命』と思うのが一般の常識ですが、浄土真宗では『阿弥陀の御命』を頂いて生きているのであると教えるのです。
 わが命であれば、私の思い通りになる筈ですが、命の事実は、私の思い通りには決してならないことは、先刻承知のことであります。
 私の『いのち』は、如来より賜ったものでありますから、大切に為なければなりません。そうして、因縁が尽きたらお返しするのであります。唯それだけのことですが、其れが中々、頷かれないのです。
 所で、『如来より賜った命』と言うことは、何う言う命なのでしょうか、いのちを賜ると言っても,具体的に何を賜るのか一向にはっきりしません。
 『いのち』とは、私が『今』生きている事実です。所が、『今』という事実は、私に於いては、何時も瞬間に過去に流れてしまって、捉え所が無いのです。
 過去は思い出に過ぎません。どんな美味しい食べ物でも、食べてしまえば、『美味しかった』と言う『思い出』だけに過ぎません。
 日常生活では、『今』と言う時間は『過去の思い出』として在るだけです。しかし、今確かに、生きているではないかと言います。実は、その『今』が問題です。
 日常の今は、常に瞬間に過去に流れて行くのですが、過去に流れない『今』が在るのです。其れを『永遠の今』と申します。
 永遠の今とは、永遠なるものが、日常の今の中に入ってきて充満することです。

 
 
   

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