水琴窟 49

    水琴窟 49  
 問 未生怨 『 阿闍世コンプレックス』                   答 『未生怨』とは『未だ生まれざる以前からの怨念』と言うことです。観無量寿経の悲劇は、阿闍世自身の『未生怨』と言う怨念が主題になって展開して行きます。   其れは、阿闍世の父母が子供ほしさに仙人を殺したというのです。仙人は、『この怨みは、必ず晴らしてやる』と言って死んで行ったというのです。
 そもそもこの事件の発端は、占いという事が原因でありますから、随分頼りない事です。しかし、人生の問題は、常にそのような頼りないことに基づく誤解や妄想、不安や猜疑から始まるのでしょう。
 結論を先に言えば、『縁起の法』と言う事が受け取れないのです。我が身に起こることは、全て縁起の法則によって起こっているのですが、其れが受け取れないから、色々な憶測や相念から、悲劇や混乱が起こるのです。
 縁起の法とは、因は私の内に在り、縁は私の外に在ると言うことです。ですから、私の上に起こる一切の出来事は、私の責任で受け取らなければならないのす。
 所が、其れが受け取れないが故に、自分の上に起こる事柄を、自分の責任とせず、全て自己以外のものへの責任に変えて、恨んだり憎んだりして、受け取ろうとしないのです。あれが悪い、此れが悪いと、自分の周囲に責任をすり替えて、自分一人善人にならなければ承知しないのです。
 この人は、常に自分は被害者であると考えて、不平不満を持ち続けて居るのです。その為に、たとい周囲から親切や好意を受けても、当り前のことと思い、感謝する事が出来ません。その結果、只、愚痴や恨みに明け暮れするのです。
 涅槃経では、未生怨とは、阿闍世の事だと言われていますが、果たして、阿闍世だけが、未生怨だと言って済まされるのでしょうか。確かに,阿闍世は未生怨の代表者でありますが、私自身もまた、阿闍世と同類であると言わねばならないのでしょう。
 『日本人の阿闍世コンプレックス』(小此木啓吾著、中公文庫、1982刊)と言う本が発刊されて、更に、二十年後に『阿闍世、コンプレックス』(小此木啓吾・北山 修編、創元社、2001刊)と言う本が出ました。
 これらの本によると、『阿闍世コンプレックス』と言うことを、最初に取り上げた人は、古沢平作と言う学者であります。彼はフロイトに学んだ精神分析学の人でありますが。フロイトの父性原理という『一神教の風土』に対して、母性原理の観無量寿経というものが日本には在る事を発見して、『阿闍世コンプレックス』説を称えました。これは、フロイトには歓迎されなかったのですが、ユングを初め、其の他の多くの人々に受け入れられて今日に至っているのです。
 一神教の、父性中心的雰囲気のキリスト教社会では、古沢説は、理解されにくいのでしょう。しかし、ユングは、カミユの『ペスト』に見られるような、キリスト教に批判的な思想を感じて居た一人でありました。
 ユングには、観無量寿教に関する論文があるのですが、中国の文献までで、それも、翻訳が不充分であったらしく、佛教に対する理解が正しいとは言えな様です。若し、法然・親鸞の著作まで見ていれば、もっと別の意見が聴かれただろうと思われます。
 所で、古沢氏の論文は、精神分析の立場からの意見ですが、彼は、浄土真宗の家庭で育っていて、二尊教の雰囲気に馴染んで居ますから この様な説を称え得たのでありましょう。 お念仏の立場から見ると、『未生怨』と言う問題は、人間の深層に潜む妄念の深い苦悩の問題であります。  
 古沢説では、観無量寿経は、母親韋提希とその子阿闍世の母子の精神的葛藤と見られ、
父親の存在はあまり重視されて居ません。其れで、フロイトの『エディプス・コンプレックス』に対して、『阿闍世コンプレックス』と名付けたのであります。
 確かに、観無量寿教は、母韋提希と阿闍世の問題で、阿闍世の母に対する怨念が事件の背後に有るのでしょう。此れは無意識の中に宿されている、母子の間の怨念で有ります。
 即ち、生むか生まないかは母親の思い次第で有ると、平気で言っている現代ですから、生殺与奪の権限を、母親が握っているという思いが有ります。其れが、無意識のうちに未生怨となって、現代社会の心理に存在しているのです。      
 この様に、現代の理性中心の思想には、必然的に未生怨が隠されて居ることを、思い知らされるのです。
 オイディプス王物語は、父性中心社会の問題でありますが、阿闍世物語は、母性中心社会の問題であります。母性中心社会の問題の方が、父性中心社会より複雑で有ります。
 従って、父性中心社会の問題解決の方法では、母性中心社会の問題は解決不可能なのです。父性社会は、理性中心で、何処までも理想を求め追求する方向を維持します。其れに対して、理想追求からこぼれ落ちる者が問題になるのが、母性社会の課題です。
 前者は、聖道門の解決で事足りますが、その聖道門から漏れて落ちる者の爲に浄土門の教えがあったのです。
 聖道門は、一神教的てあり、浄土門は二尊教で有ります。『阿闍世コンプレックス』は、二尊教の『弥陀の本願』に依らねば救われぬ、人間の病であると言わねばなりません。
 フロイトは、あくまでも、一神教に立ちますが、ユングは、一神教では救われない人間が居る事に気付いて居るのでしょう。此処に、古沢が提唱した『阿闍世コンプレックス』と言う問題がある事を思います。
 佛教は、『法華経』にしろ、『涅槃経』にしろ、常に二尊教を意識の中に持っていまして、たとい、一神教に傾いたにしても、二尊教の心を決して忘れては居ないのです。其処に、一神教の持つ負の面を是正する意図が常に働いて居る事を思うのです。 
 『如来所為興出世 唯説弥陀本願海』と親鸞が自信を持って言い切る所以が此処にあるのです。まことに、『ゴッド』に成ることを拒否した、『阿弥陀仏』の面目が歴然と現れているのです。 
 『精神分析学』と言う心理治療法を生み出した、フロイトの功績は大きいものがありますが、其処から更に発展した、『阿闍世コンプレックス』と言う発想は、浄土教の風土の中から出て来たものであります。
 そもそも、精神分析なるものは、フロイトによって創められますが、佛教には、唯識学というものが、既に一千年前に確立して居たわけです。それは、フロイトの『精神分析学』に勝るとも劣らぬものでありました。我々は、もっと自信を持って、東洋の発想を世界に発信して行く必要があるのです。
 

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