水琴窟 6

  水琴窟 『六』
問、どうして南無阿弥陀仏というの、何かの呪文 ? 。
答、
南無阿弥陀仏は、素晴らしい言葉です。人間は言葉を用いることを憶えま
した。
 言葉を自由に操ることが出来るようになったお蔭で、人類は素晴らしい文明
を築く事が出来たのです。即ち、言葉で意志を伝える事が出来るようになり、
先輩の経験を蓄積出来るのです。折角素晴らしい事を経験しても其れを次の人
に伝える事が出来なければ、その人が死んでしまえば消えてしまいます。言葉
で伝える事が出来て、先人の尊い経験が蓄積出来たのです。
 先輩達は、自分の得た経験を言葉によって後輩に伝えました。その時用いた
方法が神話です。人間が生きるための大切な智慧を、神話によって伝えたので
す。ですから神話と言って馬鹿にしてはいけません。今日、神話学の発展によ
って神話の素晴らしい事が見出されています。
 仏教の経典も、元は、神話として語られていたものを、後に文字が発明され
て文字で書かれたのです。その為に、経典には神話的要素が多く含まれていま
す。荒唐無稽な表現がしてあるように思うかも知れませんが、神話的表現の巧
みな表し方に驚かされます。
そこで、南無阿弥陀仏ですが、この言葉の背後には、無量寿経という経典
がありますので、其れを無視しては意味が解りません。然し今其れを語るのは
大変ですから、後日ゆっくり語ることにして、今は当面の大切なことだけを申
します。
 先ず、南無阿弥陀仏は、如来の呼びかけであります。我々は、生まれてくる
以前から、深い闇の中にいます。そんなことは少しも感じないで居ますが、智
慧を持った人から見れば、無明という深い闇に覆われて居るのです。その証拠
に、色々の悩みを持っていて、苦しんでいるのです。
 世の中には苦しみなんか感じないという人も居ますが、殆どの人は何らかの
苦しみや、悩みを抱えているものです。『其れは俺が悪いのではない、世の中
が悪いのだ』と言います。確かに悪いやつが随分居ますから、そのせいで私が
苦しむのですが、幾ら恨んでも、非難しても、私の苦しみは一向に無くなりま
せん。逃げても逃げても駄目です。
 私に降りかかった苦しみは、私が受けていかねばならないのです。そんな理
不尽なことはとても我慢が出来ないと言いますが、泣いても、喚いても、苦悩
は厳然として迫ってきます。之は厳粛なこの世の現実です。
 この現実を、くまなく知りつくしているのが、如来の智慧であります。この
如来の智慧によって見出された世界を、『生死の苦海』と言うのです。この生
死の苦海を乗り切って、安穏な向こうの岸まで辿り着くことが仏教の目標で
す。
 この為には、生死の荒波を抜き手を切って泳ぎ切ることが出来なければなり
ません。それだけの能力があるものは其れも可能でしょうが、能力がなければ
途中で溺れるより道はありません。昔から殆どの人が溺れてしまったのです。
 そこで、多くの人が、この難題に取り組みました。中々渡りきる者が居ませ
ん。渡りきった人の代表が釈迦牟尼如来であります。ですから皆、釈迦に倣っ
て、荒海に飛び込むのですが、一人も成功した者が居ないのです。
 竜樹菩薩もその一人でありました。竜樹菩薩は悪戦苦闘のあげく、遂に重大
なことを発見したのです。
不退のくらいすみやかに えんとおもわん人はみな
恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし
(竜樹和讃、11-23)
 之は竜樹の作である『十住毘婆沙論』に述べられたものを、親鸞聖人が和讃
にしたものであります。『十住毘婆沙論』は竜樹の晩年の作ではないかと思わ
れますが、竜樹の課題であった『不退の位』を得る道が、遂に見つかったとい
うのです。
 其れが『弥陀に名号称すべし』と言うことです。名号を称するとはどういう
事でしょうか。
 只、声に出して何かをとなえるのであれば、『唱える』と言います。『呪
文』は唱えるものです。日蓮上人は『唱題目』を勧めました。『南無妙法蓮華
経』と法華経の題目を声を出して唱えればよいと言うのです。 
 然し『称』と言う字には『はかり』と言う意味があります。『はかり』とは
物の軽重を測ると言う意味です。自らの罪の重さを量り知るのです。また弥陀
の御恩の深いことを測り知るのです。
 南無阿弥陀仏を称えることは、阿弥陀仏の光明を褒め讃えることです。光明
を褒めるとは、光明に照らされて我が身の罪業深重を知らされることです。
 従って、弥陀を讃嘆することは、我が身の罪業を懺悔することです。其処に
自ずから弥陀の浄土に生まれたいという心が生ずるのです。
 其れで、『称仏六字と言うは、即嘆仏、即懺悔、即発願回向・・・』と言わ
れています。
 『称名』の前に『聞名』があるのです。『聞名』とは、名号のいわれを聞き
開くことです。通り一遍に聞いても解りません、聞いて聞いて、聞き抜く必要
があります。
 『何故、南無阿弥陀仏と言うのか』との問でありますが。南無阿弥陀仏は、
如来の呼びかけであると申しました。
 如来は名号を以て衆生を助けんと誓っているのです。名号は言葉です。名を
聞くと言うことは、仏の教えを聞く事です。教えを聞く事によって我が身の事
実に目覚めます。我が身の事実は、私が自覚しているものと大いに違ってい
て、煩悩具足、罪業深重の事実であります。そんなこと、露塵程も気づかずに
生きて居るのが我々です。
 我が身の事実に目覚めた者は、如来の呼びかけに答えて念仏するのです。念
仏が申されないのは、教えを聞いていないからです。
 念仏の『念』という字は、憶念です。憶念と言うのは、仏の教えを聞いて、
心に常に想い念ずることです。其れを、『仏の前の生活』と申します。
 念仏は呪文ではありません。仏の教えを憶念することです。その為には、念
仏を称えることが最も良い『縁』になるのです。   
 夜晃先生は、『念仏して、愛憎善悪の心を浄土に流せ』と教えられました
愛憎善悪の心に振り回されて、右往左往して居る私ですが、このみ教えを思い
出して、念仏の生活を続けたいものです。

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