水琴窟 7

  水琴窟 『七』
 問、 なぜ毎日勤行するの ? 。お経って意味の解らない言葉ばかりだけれど・・・
 答、
  お経は神話で語られてきたものを、文字が発明されてから文字に写されたものです。ですから、神話的表現が多く見られます。之は理性では語りきれないものを神話で語るのです。我々人類は言葉を持って意志を伝えることを習得しました。
 文字は重宝ですが時代や民族の違いで読めなくなります。矢張り言葉で伝える事が大切な方法でしょう。
 日本では文字は中国から伝えられましたので、中国語で表現することが基盤になっていて、仏教も中国語で伝えられました。その為、中国語と日本語が混ざり合ってしまいました。その為に中国語で書かれたお経を、日本語に翻訳しないでその儘用いることにしましたので、現代人には分かり難いことになりました。
 昔は、漢文の学習に時間をかけて勉強したものです。然し現代では、漢文より英語の方が優先されますから、漢文は益々厄介なものに成りました。
 所が、仏教を学ぶためにはどうしても漢文が必要ですから、努力して学ぶ必要があります。文字の持つ厄介な問題です。
 先ず、言葉による聞法が大切です。或る程度お話が解るようになれば、漢文も読めるようになります。
 所で、勤行ですが、毎日勤行をするように喧しく言われてきました。その事について考えてみましょう。
 我々は求道者として生きるためには、法に従い法に聞き法を実践して生きるのであります。その為には常に法を聞き続ける事が望まれます。これを仏の前なる生活と言います。法を聞くことが疎かになれば、勢い自分の思いが中心になり、我執に引き回される生活になります。
 そこで、我執中心の生活から引き戻して、法中心の生活に立ち返るためには、法を忘れた生活から、法を憶念するために勤行を怠らないことが求められます。勤行は、法に遇うための日常の勤めです。ですから勤行をする時は、只、礼拝をしたり、お経を読むだけでなく、自分に親しめる仏書を少しずつでも読むように心がけたいと思います。
 仏の前なる生活を続けるために、勤行を是非欠かさず続けて行きたいものです。
私は住岡夜晃先生のお育てにより、光明団の諸先生の恩恵を受けてきましたが、同時に東本願寺の、曾我量深先生、金子大栄先生を初め、安田理深、蓬茨祖運、仲野良俊、平野修と言う諸先生の篤い薫陶を受けてきました。此等の諸先生のお蔭で今日の私は在ります。従って、此等の諸先生方の書物を拝読することが、私にとって最も親しいものであります。特に最近は、宮城顗先生の物を愛読しています。矢張り同じ先生にお育て頂いた者同志ですから愛着があるのでしょう。
 勤行には、本堂では、朝は夜晃全集、夜は宮城顗選集を、お内仏では、光明を拝読しています。こうして、仏法の御縁にお会いすることによって、お念仏が新しく申されます。これこそ、勤行の徳であります。どうか勤行を大切に続けて下さい。
 勤行は、仏徳の讃嘆でありますが、讃嘆というのは、唯、仏徳を褒めて居れば善いというのではありません。仏の徳を褒めるとは、仏の教えを頂くことです。仏の教えを頂くことは、仏の教えによって私の内に内観の眼を注ぐことであります。従って内観の眼によって見えてくる我が身の実相に醒めることであります。
 其処に見えてくるものは、我が身の想いも染めぬ実相であります。日頃、自覚されている我が身の姿は、よい加減のもので、自分もまんざら捨てたものでも無いと思っていたのですが、仏法の鏡の前に出てみれば、浄玻璃の鏡でありますから、隠すことなく私の実相が映し出されるのであります。これは凡夫の身には辛いことでありますので、その為に、勤行をしたくない心が起こるのでありましょう。
 勤行を続けるようにやかましく注意される理由が其処にあります、辛くても勤行を続けることが精進であります。  
 朝夕の勤行を続けることが聞法の初めであります。勤行を怠る時、聞法も疎かになります。
 『継続は力なり』と言われますが、継続は仏力によって生まれます。継続こそ仏力の働いて居て下さる確かな証拠でありましょう。
勤行は聞法の初めでありますが、矢張り会座に参加して、親しく教えを聞き抜く事が無くては聞法になりません。会座に参加して聞法を続けた効果を確認し憶念することが勤行の意味であります。

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