親鸞聖人の危険思想について 岡本義夫

親鸞聖人の危険思想について(Ⅰ)
 1、歎異抄の問題  
 歎異抄の後序と呼ばれる文章に、『信心一異の相論』と言う物語りがあります。是れは、真宗では、よく知られているもので、私も何とも思わないでその物語を読んでいました。所が、この頃になって、その物語に秘められている容易ならぬ思想がある事について気付くことになりました。
 この物語について、是れを語っているのは、歎異抄と御伝鈔だけでありまして、他の浄土宗の法然上人伝には一切語られて居ないのです。之は変なことだと以前から不審に思って居たのですが、恐らく、自分達に不名誉な結果を暴露された物語でありますので、敢えて無視したのであろうと邪推していました。所が、そうでは無くて、この物語をカットしたのは、重大な理由があったのではないかと言うことに気付かされたのです。
 そもそも法然上人伝には、親鸞聖人の存在も無視しているのですが、これも親鸞聖人に対する嫌がらせであろうと思っていました。然し、そうでは無くて、親鸞聖人の存在自体が、承元の法難以後、法然の門弟には、次第に忘れられて仕舞っていた居たのでしょう。 それは、無理もないことで、無罪放免の後は、親鸞は関東に放浪生活をされましたので、京都の人達にはその存在は伝えられなかったのでしょう。
 親鸞と同時に流罪をうけた人達は、執行猶予になった、幸西成覚房、善慧房の二人、を除いて浄円房(備後国)・澄西禅光房(伯耆国)・好覚房(伊豆国)・行空法本房(佐渡国)は、共にその後の生死不明であります。(法本房のみ消息が伝っている)恐らく劣悪な環境の中で命を落としたのでありましょう。
 親鸞も明治まではその実在が疑われていたのですから。承元の法難が如何に過酷なものであったかが伺えます。
 この時に処刑された人々は、いずれもラジカルな思想の持ち主であったようです。親鸞も流罪の途中で殺せという内命が下されていたと言う伝承があります。その武士は殺し得なかったので、京都には戻らず、丹波の山の中に寺を建て出家したと言うのです。その寺が、今も、大谷派の寺院として残って居るというのです。
 また晩年に京都に帰られても、承元の法難から二十年後の「嘉禄の法難」によって、法然門下の念仏者は、皆追放されましたので、法然門下を名乗って京都に住む事は出来ません。恐らく、名も無き念仏者として潜んで暮らしていられたものと思います。その為に、誰も、法然の直弟子が京都に住んでいるとは思っていなかったのでしょう。
 また、この相論の当事者である、聖観房が法然上人伝を書いて居るのですが、彼には深い考えがあって、親鸞を無視したのであろうと考えられます。それは、親鸞の思想は、ラジカルな危険思想であると考えられでいたからでは無いかと思われます。
 その一例が、この『信心一異の相論』でありました。この物語の原点は、歎異抄でありましょう。覚如の御伝鈔は、歎異抄を写した物でしょう。即ち、この物語は、歎異抄以外には伝えられなかったものと考えられます。それ程重要なものでありますので、『大切な証文』として、『此の書に添え参らせ候』と言われたのでありましょう。
 しかし、この物語が『危険思想』であるとは、今日、誰も気付きませんでした。その理由は覚如によって御伝鈔に語れましたが、親鸞が如何に、他の弟子達に比べて、優れた信心の人であったかと言う事に重点が置かれていて、危険思想の持ち主であると言うことは、隠されて居たからでありましょう。
 然し、蓮如はさすがにこの事に気付いていたと思われます。其れが『無宿善の機には、左右無く見せるな』と言う後書きの意味であったと思われます。
 明治になって、蓮如の禁断は解かれましたが、既に此の書の危険思想は忘れられて仕舞っていました。其れは『佛法を内心に深く蓄え、外相にその色を見せぬ様に振る舞うべし』と言う蓮如の掟によって封印されたからです。
 此の掟によって、虎が猫に変えられました。猫に変えられた虎は、もう人間に害を与える事はありません。せいぜい鼠を捕るばかりであります。この頃は鼠も殆ど居ませんから、ただ昼寝を為るばかりとなりました。浄土真宗の歴史にも似た様な事が言えるかも知れません。
 所で、危険思想と言うことですが、第一に、為政者にとっての危険思想です。法然上人は、時の上皇を初めとする貴顕や、聖道諸宗の僧侶達に尊敬されて居る、学問も修行も並ぶ者の無い『一心金剛の戒師』でありました。
 所が、事もあろうに、その法然上人と、一介の名も無き親鸞が、同じ信心だと言う事は、社会秩序を破壊する、以ての外の暴言でありました。勿論、親鸞が言う信心と世間で考えられて居る信心とは、全く違ったものでありましたが、そんなことは一向に解らない連中ですから厄介な訳です。
 特に、儒教の影響の強い知識層には、信と言えば、『仁義礼智信』の信を思い浮かべます。その信は人間の努力によって生み出される人間の真心で有ります。其れは、各人各別のもので、決して同一のものとは言われません。
 其れを法然上人と自分の信心とが同じであると言うのですから、法然の人格を無視するものであり、且つ亦、社会の秩序を無視する、アナーキストと言われても致し方の無い事であったのです。これは、危険な思想でありますから、取り締まらなければなりません。
 法然上人の浄土宗教団の中に、危険思想のものが居ると言うことが、当時既に囁かれて居たのですが、こんなことが公になれば大変なことになるわけです。
 法然の教団は、時の支配者によって執拗に取り締まりを受けた理由が、此処にあったのであります。
 此の法然上人の思想を、忠実に継承したのが親鸞でありました。その為に、法然亡き後にも度々鎌倉幕府から、専修念仏の禁止令が出され、弾圧を受けているのが、親鸞の浄土真宗でありました。(当時は、一向宗と呼ばれて居ました。)他の法然門下の弟子達は、口を噤んで、誰もそんなことは言わなかったのです。
 2010(平成22)年二月発行の『考える人』冬号(新潮社)に、中島岳志氏が『親鸞と日本主義』第一回『保守思想と国粋主義との間で』と言う文章を書いています。これは連載ものですが、まだ終わってはいません。
 私も、初めは余り注意していなかったのです。所が、急に気になりだして読み直している所です。
 中島氏は、第一回の初めの方に、『私は当時「理想の限界」と言う問題にぶっつかっていた。きっかけは、保守思想との出会いだった。
 保守思想では、「人間の理性には決定的な限界が存在すると考え、人智を超えた伝統や慣習、良識などに依拠為べき事が説かれる。」「人間は永遠に不完全な存在であり、その不完全な人間が構成する社会は、永遠に不完全なまま推移せざるを得ない。」
 左翼的啓蒙思想は、設計主義的合理主義によって成り立っており、其処には、「理性への過信」が含まれる。そんな人間の感性可能性への希望的・楽観的観測よりも、人間の悪や不完全性を直視し、理性の限界を謙虚に受け入れる事の方が重要である。』と言う。
 この様な、保守思想の主張は、「自分の能力」を過信為がちであった二十歳の私を直撃した。理性に決定的な限界があるとすれば、人間の力で世界を善くする事は不可能なのか。人間の主体とは何なのか。そんな疑問を抱えながら、私は徐々に保守思想に接近していった。
 その頃たまたま、吉本隆明の講演を聴く機会があって、親鸞の思想に触れる事になり『最後の親鸞』を読むうちに次第に親鸞に傾倒していった。』と述べています。
 『当時(大正9年頃)日本には国粋主義というものが台頭して来ていました。1920(大正9)年以降の超国家主義者には、日蓮主義者が多く居ました。国柱会主宰の田中智学を初め、北一輝、石原莞爾、井上日召などは、皆「日蓮主義者」であります。所が、原理日本社」を結成して蓑田胸喜と共に、此の組織の中心人物としてマルキストやリベラリスト、更には右翼までを徹底的に弾圧し、思想弾圧の先兵となって活躍した、三井甲之の『親鸞研究』を読む事によって、三井甲之や倉田百三が、熱心な親鸞の心酔者であった事を知りました。』
 『私は、敢えて問うてみたい、親鸞の思想そのものが危険な思想を内包しているのでは無いかと。そして、その危険性を顕在化させたのが、大正から昭和前期の親鸞主義者なのだとすれば、彼等の議論に遡行することで、浄土真宗の信仰の論理そのものを見つめ直す必要があるのではないか』と。
 『私は此の連載で、倉田百三、三井甲之、亀井勝一郎、暁烏敏らの思想にメスを入れ、親鸞思想と日本主義の関係を検討したいと思う。
 其れは、浄土真宗の信仰を否定する爲に行うのでは無い。むしろこの考究は、危険と裏腹な親鸞思想の魅力を明らかに為る作業となる筈である。
 私は近代日本における親鸞思想のファナティクな展開に目を向けることで、親鸞の論理に潜む危うさを明らかにすると共に、そこから逆説的に見えてくるラディカルな可能性を探って見たいのである。』
 『無害な思想など、思想と呼ぶに値しない。
   虎穴に入らずんば虎児を得ず。
「親鸞と日本主義」と言う危ない橋を、敢えて「そして慎重に」渡って見たい』
 これが、第一回目の中島氏の論文の結びの言葉であります。

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