釈迦弥陀は慈悲の父母(8)

釈迦弥陀は慈悲の父母 二尊教について 8  
 
 二尊教は、釈迦と弥陀の二尊が別々の役割を果たしながら、一致して衆生救済を果たしてゆく宗教であります。
 釈迦は教主、弥陀は救主と言います。教主と言うのは教を説いてくださると云う意味で、私達は、釈迦の教えに依らねば絶対に救われません。しかし、釈迦は衆生を救わないのです。釈迦は、我々と同じ人間です。人間には人間を救う力はないのです。
 新興宗教では、その宗教を創めた教祖が、信者を救うのですが、その結果、必ず問題が起こっています。オーム真理教の浅原教祖は、信者から絶大の信頼を得て居たようですが、結果は御承知の通りです。これは教義が間違いであったのも事実ですが、それにもまして、人間である浅原教祖が救主であったからです。人間の行為には、必ず煩悩が付随しています。煩悩が付随している限り有漏の行為を免れ得ません。有漏は幾ら熱心に積み重ねても決して無漏にはなりません。
 人間を救うには、無漏の働きが必要です。しかし、無漏の経験は私達にはありません。ただ、私達に生まれる前から宿っていて下さる無漏の種子があって、この無漏の種子を激発して現行させる縁となって下さるものが、正法等流の教であると言われています。私達の聞法は有漏の聞法ですが、この有漏の聞法のみが、無漏の種子を激発して、無漏の信心を呼び覚まして下さると言うのです。この法則によって、我々は救われるのです。教えを説くのは釈迦です、その教えを聞いて、無漏の信心が生まれ、信心を因として往生即成仏の証果が得られる所に、浄土真宗の救済が成り立つのであります。
釈迦は、邪見を離れていたと言われますが、人間であると云う限界を護って、教主に留まって居る、ここに、二尊教の構造の特色があります。もし、聖道門の諸派が、二尊教の構造の趣旨を忘れて、釈尊を、救主とするならば、必ず、正しい宗教としての性格を失います。 
 また、一神教は、救主である神の地位は揺るぎませんが、神の意志を伝える教主としての役割が、あいまいに成って居ます。キリスト教では、預言者が神の意志を伝えるのですが、二尊教の釈迦や諸仏と違い、神に依る被造物の人間であり、神の前には、絶対服従を迫られる存在であります。人間は、全て、唯一の神に依って創られた『被造物』であり、神に対して絶対服従を強いられる関係であります。仏教には、被造物と言う思想はありません。全て仏と成るべき存在であります。其の為に、一神教には、仏教の様な『仏と仏が念じ合う』と言う関係はあり得ないのです。
 これは大事な問題でありますから、ゆっくり考えて見たいと思います。一神教の神は、唯一神でありますから、他の神の存在を認めません。神以外の存在は、全て神によって創られた者、即ち『神の被造物』です。ですから、神は絶対者であり、一切を神の意志の下に統一します。これは、大衆を統率する為には都合が良いのですが、いきおい、弱い者や、愚悪な者の訴えは見落とされ、切り捨てられて仕舞ます。
 二尊教の佛は『弥陀即諸仏』と言われる様に、弥陀と諸仏とは、互いに念じ合う関係です。それを『仏々想念』と申します。弥陀は諸仏によって讃嘆されて弥陀と成り、諸仏は弥陀に念じられ、弥陀を讃える事によって諸仏と成り得るのです。弥陀を離れて諸仏無く、諸仏を離れて弥陀は存在しないのですが、弥陀と諸仏は平等の関係であります。。
 此の弥陀と諸仏の関係は、蓮如上人の時代にやや薄められて、弥陀一佛を頼めと勧められて、浄土真宗の歴史から忘れられる運命を辿りました。しかし、最近になって先輩の方々の努力によって復活することが出来ました。誠に、喜ばしい事であります。
 諸仏と言うのは、元は衆生ですから、弥陀は、衆生を軈て必ず仏となるべき存在と認めて、拝んでいるのです。十方世界の全ゆる衆生を、全て、仏と成るべき者と拝む所に、阿弥陀仏の深い慈悲と智慧があります。それを『若不生者、不取正覚』の誓いと言います。
 弥陀の浄土には、『如来浄華衆、正覚華化生』(眷属功徳荘厳)と云う荘厳が説かれています。眷属とは親子兄弟です。決して主君と臣下と言う関係ではありません。友、同朋です。弥陀と衆生の関係は、衆生の方から言えば、絶対の権威をもった如来でありますが、如来は、『我が善き親友』と、衆生を呼んでいるのです。この様な関係は、一神教には絶対に許されないことであります。 この様な神と人間の関係を持つ神を、神話学者は、『グレート・スピリット』と言っています。アメリカインディアンの神話から名づけられました。
 アメリカに派遣された宣教師たちが、インディアンの神話を調べて、『君たちが云う神は、キリスト教のゴッドだよ』と言うのですけれども、彼達は、絶対に頷かないのです。そこで、その神を『グレートスピリット』と名付けることにしたと言います。確かに、ゴッドとグレートスピリットとは違うのです。その違いは、彼らは説明出来なかったかもしれませんが、両者は、一見極めて似ているように見えるのですが、実は、決定的に異なる神格を持っているのです。その違いを、アメリカイディアン達は、ちゃんと見抜いていたのです。
 恐らく、アリューシャン列島を伝ってアメリカ大陸に渡ったモンゴリアンが伝えた神話でしょう。我々日本民族と同一のルーツを持つ民族ですから、同一の神話を持っていたのでありましょう。大無量寿経も同じルーツから生まれたものではないかと考えられます。それは異訳の『大阿弥陀経』の語り方が彼等の神話と似ているのです。
 とにかく、スピリット達は、一斉にグレートスピリトを讃嘆するのですが、グレートスピリットは、スピリット達を決して支配しようとはしないで、友として遇するのです。これが阿弥陀と衆生の関係なのです。
 『衆生、仏に成らずば、我も正覚を取らじ』との誓いは、まさに此のことを語っていたわけです。是は仏の『無縁の大慈悲』であります。      
  
  十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
   摂取して捨てざれば 阿弥陀と名ずけたてまつる (弥陀経の意)
 
 阿弥陀仏の名は、偏に、念仏の衆生を摂取不捨して下さるが故の名であります。衆生を摂取して仏に成らしめずには、阿弥陀とは成らないと言う誓いに報いた如来です。 
 弥陀と釈迦(諸仏)の関係は、仏々相念の関係ですから、其処には、主従の関係は見られません。経典の中には、仏と菩薩の関係を主従の関係として現したものも見られますが、阿弥陀と衆生の関係では稀に説かれて居るだけです。是は法華経の影響ではないかと思われます。
 親鸞の和讃にも、 

  智度論にのたまわく 如来は無上法王なり   
   菩薩は法臣としたまいて 尊重すべきは世尊なり (竜樹和讃) 
と言うのがあります。これは、如来と菩薩の関係です。弥陀と衆生の関係ではありません。阿弥陀仏は、何処までも、衆生を『我が善き親友なり』と言い、如来の眷属として下さるのです。『眷属功徳』は浄土の功徳であります。

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