釈迦 弥陀は慈悲の父母 二尊教について 岡本義夫

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釈迦弥陀は慈悲の父母

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釈迦弥陀は慈悲の父母 (1)
【二尊教に就いて】
     釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
      われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり
     釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる
      信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ

 昔『一神教と二尊教』と題して光明誌に連載した事がありますが、何しろ、
三十年も昔の事でありますので、もう一度この問題を取り上げてみたいと思い
ます。二尊教に就いて、爾来、私の関心はずっと続けられて居ましたが、歳を
取りましてこの問題に是非とも決着をつけて死なねばならないと思うようにな
りました。         
 今日、世の中の有力な宗教は、全て一神教の形式でありまして、二尊教とい
う形式を大切に護っているのは浄土真宗だけであります。勿論、二尊教と言う
事を初めて明らかにされたのは、中国の唐の時代の善導大師でありますから、
それ以来浄土系の祖師方は、皆、釈迦弥陀二尊の教えを受けて居られるのです
が、二尊教の意義を最も重視ししたのは、偏依善導と言われた法然上人であり
まして、その法然上人の教えを忠実に継承したのが浄土真宗になると言う事で
す。
二尊教というのは、表題のように『釈迦弥陀二尊』の教えと言う事でありま
す。一神教は『唯一神教』と言われて、神は唯一人でありますが、二尊教は釈
迦と弥陀と二人の神格がそれぞれの役割を果たして衆生救済を完成していくと
いう仕組みです。
 宗教の形式としては、二尊教が最も健康なものであると言われますが、其れ
は二尊教の立場からの言い分で、一神教では、最も優れた形式は一神教である
と主張する訳です。
 確かに一神教の方が、強い力を持って居まして、一神教優位の時代が永く続
きました。所が、近年に為って、一神教優位の考えが揺らいできているので
す。その理由は一神教同志の争いが絶えないという事実です。
 過去には、ユダヤ教とキリスト教。キリスト教同志の間では、新教と旧教の
争いがありました。今日ではキリスト教とイスラム教、またイスラク教の内部
での宗派の争いが激しくなっています。その為、世界中の人が、宗教戦争の悲
惨に気づかずには居られない状況に追い込まれているのです。これを克服する
には何うすればよいのか。実に深刻な現代の課題であります。
 実は、仏教は先刻、この事実に気づいていたのです。其れは人類の遠い歴史
の中で、既に、何度も繰り返されていた事実なのでしょう。人類の歴史は、今
私達が認識しているよりもっと永いものであろうと思われます。その永い経験
の蓄積によって、人類の叡智は磨かれていたのでしょう。其の事実は、今日で
は忘れ去られていますが、人類の深層意識の中に残されていますし、僅かに神
話の形で残されているのです。
 仏教の経典が、釈迦よりもずっと以前からの神話を元にして作られているも
のであろうと思われるのです。これはキリスト教のバイブルも同じでありまし
て、今後、神話の研究が進めば、その辺の事情も次第に明らかになってくるか
と思われます。
 但し、神話は忘れられたり、変形されたりして終いますので、世界の片隅に
僅かに残って居る原住民の記憶を採集しておく必要があるのです。
 また、現人類の深層意識の中に残って居る記憶を取り出して記録しておく事
も重要ですが、色々の形で残って居る神話を検討する事によって、その原型を
復元する事も可能ではないかと思われます。
 さて、二尊教と言う事ですが、何故この様な形式の宗教が生み出されてきた
のかといいますと、元々、宗教はアニミズム(汎神論)から出発したと考えら
れます。
 大昔、人類はちっぽけな存在でありました。爬虫類という大きな生きものが
地球上を我が物顔に闊歩していた時代に、人類の祖先である哺乳動物は鼠くら
いの、小さい動物であったと言います。従って、自然現象を初め、あらゆるも
のから逃げ回る事に汲々としていた事でしょう。その結果、あらゆるものに神
が宿っているという発想が生まれました。それがアニミズムです。
 そのアニミズムに対して、唯一神を主張する思想が対立し、次第に唯一神教
がアニミズムを駆逐して優位に立ち始めました。その為、アニミズムは原始的
な未開人の思想とされ、迷信として排除されてきました
 所が、一神教が持った居る欠陥が露わになるに連れて、其れを克服する道が
模索されるようになりました。
 阿弥陀如来の信仰は、そのような事情のなから生まれたものではないかと思
われます。
 阿弥陀如来は、唯一神教の神(ゴッド)と同じような優れた属性を持ちなが
ら、決して唯一の神格を主張しないのです。此は明らかに唯一神教を批判して
生まれた思想と思われます。此の様な神をグレート・スピリットと申します。
無数のスピリット(精霊、神々)に取りかこまれていて、最も優れた属性を持ち
ながら、そのスピリット達を決して支配しようとしない神であります。
 一神教の神は、唯一神の主張の故に自己以外の神の存在を許さず、一切を神
の支配の元に統一します。その思想を政治に適用して政治権力を独占する国家
が建設されます。その国家を維持するためには、強力な軍事力を蓄える必要が
あります。その軍事力は益々強力になり、所謂、『覇権国家』となります。此
が一神教を元にした国家の構造であります。
 覇権国家は常に戦いの準備を怠らず、周囲の弱い国を併合して強大になる事
を望むのです。従って、この世から戦争のない世界は永遠に来ないのです。
 嘗て『大無量寿経は、讃嘆の経である』と申しました。最も原典に近いと考
えられる『大阿弥陀経』には、阿弥陀仏の光明が、他の諸仏に比べて特別に優
れている事を讃える部分が、長々と続けられています。此は、阿弥陀仏の徳が
諸仏に優れている事を説くためであります。
 光明の徳を讃える事は、その光明に照らされて我が身の愚悪を知らされる事
です。讃嘆は即ち懺悔であると言われます。懺悔無き讃嘆は綺語であり、讃嘆
無き懺悔は愚痴であります。讃嘆と懺悔は一対のものとして、健康な精神生活
が成り立つのです。
 カナダの西海岸に住む原住民の神話に、之に似たものが伝えられていると言
われます。恐らく、モンゴリアンに太古から伝えられていた神話でありましょ
う。大無量寿経も同じルーツを持つものと思われます。この阿弥陀仏の信仰が
『二尊教』と言われるものです。
 其れでは『二尊教』とは、どんな教えでしょうか。先ず『釈迦』『弥陀』二
尊の教えと言う事ですが、其れにはどういう意味があるのでしょう。
 二河白道の喩えには、『釈迦』は東岸に立って『仁者、此の道を尋ねて行
け』と勧め、』『弥陀』は西岸に立っていて『汝、来たれ、我能く護らん』と
召喚したもうと説かれています。二尊の役割が明確に示されているのです。 
 二尊の役割はこれで明確になりましたが、其れが『信仰の健康性を表す』と
いうのはどういう意味でしょうか。
 そもそも不健康な信仰とは、本来、誠実で純粋であるべき信仰に、功利的打
算、自我の主張、他者への依存、憎悪や妬みなど、人間の持つ迷妄心が信仰の
中に混ざる事です。
 観無量寿経には、信仰は『一者至誠心、二者深心、三者回向発願心』の三心
が必須であると説かれています。誠に、先ず第一に『至誠心』が要求されるよ
うに、信仰には誠実が大切な要素であります。其れが欠けては、不健康な信仰
と言わねばなりません。
 釈迦、弥陀、二尊による『二尊教』こそ、信仰の健康性を保つ為の唯一の形
式であると言われるのです。其れに就いて考えて行きたいと思います。   
                              (続く)

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