水基金 9

   水琴窟 九
 問、『群生海に回施したまへり』とはどう言うこと
答、
信巻には、三一問答と言われて『如来の至心を以て、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり』とあります。 (12の68、71、75)   
 三一問答には、それぞれ『如来の至心を以て』『無碍広大の浄心を以て』『利他真実の欲生心を以て』、『群生海』『諸有海』に回施したまへりと言われています。
回施というのは、回向とも言われ、相手に何かを与えることです。信巻では、真実心のない我々に真実を与えて下さると言うことであります。
 そこで、真実心のない我々に真実心を与えると言うことについて考えてみることにします。
 観無量寿経では、阿弥陀仏の国に生まれたいと願う者は、まず『至誠心』を起こせと教えています。至誠心は中国で最も尊敬されていた言葉であります。善導大師は、註釈して、 『経にのたまわく、一者至誠心、至は真なり、誠は實なり、一切衆生の身口意業の所修の解行、必ず須く真実心の中に作すべきことを明さんと欲す』と言います。【須は、すべからくと読み、必須という意味です】
 これは常識として誰でも納得することです。観無量寿経はここから出発するのです。『私も至誠心を起こして頑張って見よう』と。これが宗教の出発点です。
 人生は何事も至誠心が大切です。『至誠天に通ず』と言われて、天の神も認めてくれる訳です。至誠の心で、努力を尽くして頑張れば、何事もからず成就する筈だというのです。所が、理想はそうでも現実はそれ程うまくはありませんから、何度も失敗するのですが、それでも又立ち上がって努力を続けるのです。努力を続けることが至誠心そのものであります。
 人生はまさにこの悪戦苦闘の連続でありますが、然し、何度やっても失敗ばかりが続くと、遂に疲れて努力精進を止めてしまいます。悪戦苦闘を何処まで頑張って続けるかと言うことが、その人の人格の評価になります。
 また、頑張ればある程度の効果が現れてきますから、他人と比べてこれで良しとするか、自分は駄目だとなるか、評価は人それぞれでしょう。
 人の一生は、この至誠の心で頑張れば何とか立派にやれるはずだと言う信念から出発すべきであります。初めから真実など無いものだと言うのは、ニヒリズムでありまして、自己も人生も破壊する思想です。
 ですから、仏教も至誠心を起こせと言う教えから出発するのです。仏教はニヒリズムではありません。所が仏教の叡智は、人間には真実など無いことを先刻看破していました。然し、いきなり其れを告げることは致しません。先ず、真実心で努力して見よと勧めるのです。これこそ、仏教独特の親切であります。
 聖道門の仏教は、至誠心で初めよと言うのです。観無量寿経は聖道門の基礎から出発するので、先ず至誠心を起こせと説きます。そうして次に『深心』です。三番目が『回向発願心』で有ります。『回向発願心』は、阿弥陀仏の浄土に往生を願うのですが、この場合の浄土は人間が考えた理想郷であります。金銀財宝で飾られた理想の世界です。
 至誠の心で、深く念じて、理想の世界を目指して昇って行く、其れが人間の考える『幸福への道』であります。
 法然上人は専修念仏を勧められます。専修念仏とは、聖道門の修行を止めて、念仏一行に改めよと言うのです。其れまで聖道門を本来の仏教と心得ていた人々に、念仏一行を勧めるのですから、反論が起こるのは当然です。
 『幸福への道』はこれしか無いと信じてきた人々は、とても捨てることは出来ないのです。然し、幾ら信じていても、幸福が達せられないのです。親鸞が、意を決して法然門下に身を投じたのは、聖道門では仏道は成就し得ないとはっきり決断したからです。
 親鸞聖人が法然門下に入る決断をした時、既に、聖道門からの法然批判は一触即発の状態でありました。だから二百日もの時間を懸けての決断を要したのです。果たせるかな、親鸞聖人が法然の門下に入って間もなく、聖道門からの法然批判は厳しさを増し、法然上人は天台宗に七ケ条の誓文を提出して、門下に自戒を求めます。親鸞聖人もその一員として名を連ねて居ます。
 然し時代の流れは止めることが出来ません。法然門下を糾弾して、法然門下の数名を、死罪・流罪にしましたが、念仏の教えは次第に力をつけ、度々の禁止令にも関わらず、遂に日本全国に弘まりました。 
 此は、念仏の教えが、如来真実の回向の法であるからであります。そこで、『如来真実の回向の法』について考えてみましょう。
 仏教の智慧は、人間に真実の無いことを見抜いていましたが、それを直ちには語らないと言いました。其れが仏教の親切であるとも言いました。
 然し、真実の無い衆生に真実を与えることが如来の願いでありますから、どうすれば其れが可能か、如来は考えたのです。此は容易なことではありません。なぜかと言えば、衆生は『真実は我にあり』と固く信じているから、今更真実を与えてもらわなくても結構だと言うのです。
 この人間の心は、『今はなくても、努力さえすれば、きっと理想が達成出来るはずだ』と言う固い信念です。此が人間が生まれる前から持っている理想主義です。この理想主義が崩れたらニヒリズムですから、崩されないように堅く守っている訳です。
 地獄に落ちるという怖れは、理想主義が崩されてニヒリズムに落ちる事を言うのです。昔、三人の方が集まって寄せ書きをした時に、一番最初の方が『地獄に落ちる』書きました。次に方が『儂が落ちる』と書きました。最後の人は宮城顗先生の父上ですが、暫く考えていられたが、『仏も落ちる』と書かれたと言うことを聞いた事があります。     側で見ていた人は、姫路の藤元正樹さんですが、驚いたと語って聞かせてくれました。『地獄に堕ちる』などと言うことは容易の語られる言葉ではありません。親鸞聖人は『地獄は一定、住み家ぞかし』と言いました。其れを読んで驚いてフランスから遙々日本まで尋ねてきた人まで居ました。 
 私達は、馴れてしまって『地獄一定』聞いても驚きませんが、実は此は大変なことなのです。理想主義が崩れることなのです。其処には、ニヒリズムしか残って居ないのです。
而も『仏も落ちる』とまで言われて、驚いたと言うことです。 (続く)

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