水琴窟 12

水琴窟 十二
問、阿弥陀如来は何処にいらっしゃるの (続き)
答、(続き)
他因説は、他の因によりて自分の上にその結果が表れるというのです、神の奇跡によって救いを求める信仰などです。無因説は、『どうせこの世は成るようにしか成らないのだ』と投げ出して、ニヒリズムに沈むことです。二者ともに、真面目な努力を放棄する態度ですので。正しい生活態度ではないと嫌われるのです。
親鸞は、他力回向の本願の救いが、他因説と誤解されることを警戒して、この曇鸞の言葉を度々引用したのでありますが、その誤解は容易には避けられず、今日も誤解された儘になっています。真宗の信者は心して注意すべき問題であります。
仏教は、徹底して『自因自果』の思想を堅持して来ました。浄土真宗も仏教である限り自因自果の法則を破ることはできません。他力本願の救いも、決して他因外道に転落してはならないのです。これは、しつこい程、強調しなければならない問題です。
『因浄なるが故に果また浄なり』と言われるように、浄土真宗は、如来清浄の願心に裏着けられた、他力回向の信心が正因となり往生浄土を果たし、衆生の救いが完成するのであります。この他力回向の信心は、『自の業識』と言われて、あくまでも自分の内に成就される因でありますから、自因自果の法則に叶ったものであります。決して、他因外道の説ではありません。
所で、阿弥陀如来は、空中に住立すると説かれていましたが、それを拝むためには、仏力に依らねばなりません。仏既に滅したもうた、末法の我々はどうすれば良いのでしょうか。釈迦は、阿難に向かって『汝、分別解説せよ』と言われます。釈尊の教説をよく分別解説する者が居るのです。  二河白道の譬えでは、『東岸に人の声の勧め遣すを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進むと言うは、即ち、釈迦既に滅したまいて後の人見たてまつらざれども、尚教法有りて尋ぬ可きに喩う、即ち之を声の如しと喩うるなり』
釈迦の発遣の声に応えて、弥陀の召還の声を聞いて、初めて念仏の行者が誕生するのです。その念仏の衆生の前に、阿弥陀仏在ますのです。念仏者は目前に阿弥陀仏ましますことを疑わないのであります。
阿弥陀仏は、人間の目に見える形で、衆生の前に現れるのではなく。衆生の信心の上に現れるのです。『聞其名号、信心歓喜』の心に応えて、その人の前に現れるのです。その時を、『摂取不捨の利益にあづけしめたもう』と申します。
親鸞聖人が、『臨終待つことなし、来迎頼むことなし』と言われたのは、『臨終』という非常の時でなく、平生の時信心決定する者は、其の時、直ちに来迎にあづかるというのです。如何なる所、如何なる時にも、聞信の一念に仏来迎したもうて、摂取不捨の救いにあづかるのです。これを『平生業成』と蓮如上人は仰せられました。
まことに、平生の時信心決定して、業事成辨し、阿弥陀仏の御前の生活を成就すべきであります。それを、現生正定聚と言います。
阿弥陀如来は、仏の座を捨てて、東域に影臨すると言いましたが、これは、どお云う事でしょうか。仏が、座を捨てて立ちあがるというよなことは、驚天動地のことであり、普通には考えられないことであります。
これに就いては、善導も問題にしています。
『問うていわく。仏徳尊高なり、ちょう然として軽挙すべからず。すでに能く本願を捨てずして来たって大悲に応うは、何がゆえぞ端座して機に赴かざるや。答えていわく、これ如来別に密意有ますことを明かす。ただ以みれば娑婆は苦界なり、雑悪同じく居して、八苦相焼く、ややもすれば違返を成じ、詐り親しみて笑みを含む、六賊常に随いて、三悪の火坑臨々として入りなんと欲す。もし足を挙げてもって迷いを救わずば、業繋の牢、何によってか免るることを得ん。この義のために、立ちながら撮ってすなわち行き、端座してもって機に赴くに及ばざるなり。』
この問答によって、理由は明らかであります。如来の大慈悲は、みすみす三悪の火坑に沈まんとする衆生を、見捨てる事が出来なかったのです。
如来の作願をたずぬれば 苦悩の衆生を捨てずして
回向を主としたまいて 大悲心をば成就せり
ここに、浄土真宗の本尊が、立像の姿で表わされていた意味がありました。これを、
『立撮即行』のお姿と申します。
阿弥陀如来は、私と云う存在を離れて何処かに在しますのではありません。『弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて、往生を遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こるとき』私の前に立ち給うのであります。それを『摂取不捨に利益にあづかる』と申します。
私の念仏と離れたところに阿弥陀仏がましますのではありません。このことを能々肝に銘じて、心得て置くべき事であります。
私の念仏を離れて、何処かにいらっしゃる阿弥陀仏を尋ねる心は、阿弥陀仏を対象化して、私一人の願いを祈る心であります。たとい世界の平和を祈る祈りでも、仏を対象化している限り。偶像崇拝であります。
偶像崇拝は、単に仏像を拝むことではありません。仏像を拝むことは、宗教儀式には欠かせない儀礼の一部であります。問題は拝む心にあります。神仏を対象化して高く掲げ理想の実現を神仏に祈る心が、偶像崇拝であります。対象化とは、理想に向かって自己を高めていこうとする心でありますが、その心は、自己は努力によってより高い世界に上りうるものと云う『夢』を捨てきれないのです。人間は能々この夢を捨てきれないのであります。
仏教は、人間のこの夢を徹底して打ち砕く教えであります。聖道門の仏教は、人間のこの夢を一応許す教えでありますが。一応許して後に徹底して打ち砕くのです。それが般若の教えであります。
浄土門の教えも、決して般若の精神を忘れてはならないのですが、浄土真宗以外の教えは、その点があいまいになりました。其の為に、浄土真宗まで引きずりこまれて、徳川時代の真宗は、極めてあいまいなものに成ってしまって居ました。
清沢満之によって、教学の刷新が図られ、それに触発されて色々の方が活躍され、曽我・金子先生などの教えが今日盛んになりました。
偶像崇拝は、仏を対象化するもので、『現世を祈る行者』として、嫌われています。教えを大切に聞き抜く事により、阿弥陀如来まします生活が実現されます。一日一日を念仏申して阿弥陀仏と共に生きさして頂きたいものです。

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