水琴窟 13

   水琴窟 十三
 問、仏像を拝む意味は
 答、
 此処に、浄土真宗の大切な意味があるのです。『仏像なんて、あれは、木や石に彫った人形みたいなものではないのか、あんなものを仏様だと思って大事にするのは、偶像崇拝で、現代の知性から見ると迷信のようなものではないか。』と言う声が聞こえるようです。
 また、イスラム教の人々のように『仏像を破壊する』方が、現代的なのではないか。と考える人も居るのでしょう。
 そこで仏像を拝む意味を考えることにいたします。『観無量壽経』はこの問題を問いただした経典であります。
 善導大師は、全精力を捧げてこの問題に取り組んだ人でした。観経には、阿弥陀仏に遇う為には、先ず、仏座を拝むことより始めよと説きます。続いて、仏の像を拝めと勧めるのです。然も、此のことは、必須の条件であるといいます。
 いかに、仏像を拝むことが大切であるかと言うことです。しかも、そのことを通して、偶像崇拝と宗教の観念化の問題を問うのです。この問題は、宗教の健康性に関わる重大な問題であることを仏教は先刻承知していたのです。
 イスラム教や、キリスト教は、この問題にどう取り組んで来たのか知りませんが、少なくとも、仏像を破壊することだけでは解決できない問題であります。  
 観経には、第七華座観に『応声即現』と云い、第八像観には、『応心即現』と言う言葉でこの問題が解説されています。
 『応声即現』とは、釈尊の『除苦悩法を説かん』との説法の声に応えて、阿弥陀仏が空中に姿を現したということですが、釈迦牟尼仏の一代説教。それを集約すれば、大無量寿経の説法でありますが、その声に応じて、阿弥陀仏が示現した事を表すのです。即ち、釈迦の教えを聞くことを離れて、阿弥陀仏はましまさないと云う事です。釈迦の教えを聞こうともしない人が、阿弥陀仏をいくら考えてもどうにも成らないのです
また、『応心即現』とは、阿弥陀仏の本願に遇わなければ、我々の救いは絶対に成就しないと目覚めて、阿弥陀仏に遇う事を願い求めると言う、衆生の心奥に隠れている深い願いに応えて、阿弥陀仏はその人の前に姿を現してくださると云う事です。
 衆生の『心奥の要求』に応じて阿弥陀仏は示現するのです。従って、そのような心奥の切実な要求を起こすことなく、阿弥陀仏を論じても無意味な論争になります。
 この応声即現と応心即現の二つによって、偶像崇拝と宗教の観念化が避けられるというのです。確かに現代人は、釈尊の教えを聞こうとも思わず、熾烈な求道の心も持たずに、理屈だけを並べて仏像を眺めているだけですから、仏像と言っても単なる美術品か、木偶の棒にしか考えられないのです。  
 美術品であれば、何十万円と言う貨幣価値だけになりますし、木偶の棒であれば何の価値もないものになります。昔、仏像を『美男におわす』と詠んだ女流詩人が居ましたが、現代人の知性中心の思想から見れば、仏像もそんな物にしか見えないのです。
 仏像は、『応声即現』と『応心即現』と云う事実によって、初めて礼拝の対象になるのです。礼拝の心に応えて、仏像は初めて佛を顕す対象となるのです。仏像はあくまでも、佛自身を顕す仮の形なのです。しかし、仏像を拝む以外に佛を礼拝する事は出来ないのです。  
 偶像崇拝とは、神や仏を祭壇に高く掲げて、その前に向かって現世の幸福を祈る事です。わが身一人の幸福を祈るだけではなく、世界の平和や万人の幸せを祈ることも、人間の祈りであります。人間の祈りの対象は全て偶像崇拝であります。
 人間の祈りが、なせ悪いのかと、云う問いに対して、人間の祈りが悪いとは言いません。しかし、祈っても祈ってもその願いは果たされることもあり、果たされないこともあるのです。
 なせかと言えば、人間の祈りに関係なく、この世のことは因縁次第で動いているのです。その道理がわからないのは、愚かなことであるというのです。
 この世の出来事は、因縁によって成立しています。因は私の内にあります。その一つの出来事によって、私が苦しむか、喜ぶかはすべて私の内の問題です。
 誰かの精でこんな目に合うのではありません、それは縁です。それに依って苦しむか苦しまないかは、私の責任です。その証拠には、同じことに出会っても苦しも人と苦しまない人が居るのです。
 この佛教の道理に耳を貸すことなくては、仏像を拝んで居ても単なる偶像崇拝に終わるのです。偶像崇拝は迷信です。いくら熱心に拝んでも迷信にすぎません。迷信とは、人間の心を迷わすだけで、正しい自覚の人には成れません。
 キリスト教やイスラム教の信仰は、正しい信仰であると主張するのですが、果たしてそうなのか検討してみる必要があるのです。人間がいくら真剣に神に祈っても、その祈りが人間の心より発せられている限り、その祈りは人間の要請であります。人間の要請である限り、有漏の要請であります。
 有漏の要請とは、それがいかに純粋のようでも、必ず、自我の思いが混入しています。自我の思いが混入していれば、『私が』『俺が』と言うことを免れません。ここに落とし穴があるのです。即ち、他人に比べて善とか悪とか、優れているか劣っているか、損か得か、必ず比較するのです。
 比較すれば、優越感か劣等感のどちらかです。我々は、何時もこの優越感と劣等感の間を彷徨い続けているのです。そうして何時までも安定することが出来ないのです。それを『迷い』と言います。        
 阿弥陀仏から我々は、『汝、一心正念にして直ちに来たれ、我能く汝を護らん』と呼びかけられています。信仰の世界は、マルチン・ヴーバーが言うように、 『我と汝』の関係でありますが、我々衆生の方から言えば、『願生彼国』であり、『彼岸』であります。『彼の国』と『我と汝』の関係とは、人間の側から言えば、阿弥陀如来は『彼』、阿弥陀仏の国は『彼の国』と言わねばならないのです。『彼の国』は、我々の世界とは、次元が違い、超次元の、遥かにかけ離れた世界だからです。我々の世界の物は、一切『彼の国』には通用しないのです。
 我々は、我々の誠の心は、彼の国にも通ずるのではないかと言う夢を抱いています。至誠天に通ずと云います。その人間の夢を、全く認めないのが彼の国の鉄則であります。しかし、その人間の夢を捨て切れないのが、人間の未練であります。この未練をあくまでも捨てきれないのが人間で、其処に、偶像崇拝の信仰がが生まれるのです。  (続く)

  

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