水琴窟 26

   水琴窟 26
 問、今と言う時間 
 答、昔,学生の頃、 哲学の先生から『永遠の今』と云う講義を受けました。不思議にその言葉は、耳の底に残りましたが、如何いう意味かはその時は解りませんでした。しかし、其の事がすっと私の心に残って居て九十四歳に成って、やっと解るような気がするのです。
 私達は、過去、現在、未来と言う時間区分によって生きているのです、これを日常的時間と言う事にします。その日常的時間の現在は、瞬時に過去に流れ去って行きますから、時間と言うものは、一向に掴み所がない現在を生きている事になります。また、未来は何が起こってくるか、一寸先は闇でありますから、結局、闇の中を手探りで歩いている事になるのです。 現代と言う時代は、愈々その闇が深くなって、暗中模索の不安が深くなり、誰も彼も不安の中に、疑心暗鬼の儘に生活を続けているのです。この頃の世界情勢は、特に、疑心暗鬼の渦巻きの真っ只中に居るのです。明日の情勢がどうなるのか、誰も予測が出来ないのです。若し核戦争が勃発すれば、世界中が火の海になると言われていますが、其れもいまだ一度も経験したことのない出来事でありますから、誰も想像すら出来ない事であります。
 たった二発の原子爆弾が落とされてだけで、広島と長崎であんな悲惨な状況が起こりました。もし今、第三次世界戦争が起こって、世界中が原爆や水素爆弾の標的になれば、それは人類滅亡しかありますまい。北朝鮮もアメリカ大統領もそれを言い放っています。
 其れでも後ろから『時間』と言うものに押されるので、否応なしに歩き続けなけばならないのが人間であります。その様な人間の生きる現実を、どう対処したらいいのでしょうか。切実な問題であります。
 世界情勢の動きに対して、私共にはどうする事も出来ませんが、何が起こても其れを受けて行かなくてはなりません。仕方無くなく、嫌々乍ら、受けていくのか、念仏して受け入れて行くのか、道は二つしか在りません。そこで、念仏して受け入れて行くとはど言う事かを、考えてみたいと思います。
 先に、永遠の今とは、日常的時間と永遠なる時間が交差する事だと云いました。しかし、そんな生ぬるい表現では言い尽くされません。我々の日常的時間の殻を破って、永遠なるものが入って来て、充満する事であります。
『謹んで真実証を顕さば、則ち是れ利他円満の妙位、無上涅槃之極果なり』(証巻、12の118)と、親鸞は言いました。無限なるものが、我々の中に入って来て充満するのです。
 『今』と言う時間は瞬間ですが、その『今』が継続するのです。それを『利他円満の妙位』と言います。原爆が頭上で爆発したら一瞬に全て無くなります、それは止むを得ません。しかし『無上涅槃の極果』は原爆の前にもびくともしないのです。念仏申して、彼の国に往生すればよいのです。
私はもう九四歳ですので、そんな呑気なことを言って居られますが、若い人はそんな訳にはいきません。極力頑張って戦争にならないように為なければなりませんが、如何なる事かわかりません。誠に厄介な時代になったものです。戦争にならない様に祈るしか道はないのでしょうか。

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