水琴窟 26

   水琴窟 26 
 問 真実と方便
 答、世間では『嘘も方便』と言う俗諺があって、一時期、創価学界が浄土真宗の『方便法身の尊像』を批難する為に使用したことがありました。今では、流石にそんなことは非難に成らないことが証明されまして、誰も口にするのは居なくなりました。
 しかし、方便と言えば、いらぬものと言う思いが、いまだに強く意識されていますので、
方便の真の意味を考える為に、この問題を取り上げてみることに致します。
 念仏成仏これ眞宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ
 聖道権化の方便に 衆生ひさしくとどまりて
    諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ (11の19、大経和讃)
 『方便』とは、真実が生きて働くための、手や足に当たるものでありまして、若し真実が生きて働くことが出来なければ、真実と言っても、無内容なものに成ってしまいます。ですから、方便は、真実にとって、最も重要なものであります。
 しかし、真実と方便の区別がつかず、方便を真実と間違えて固執すれば、『諸有に流転の身』となるのであります。
 法然上人は、『三経一論』と言い、浄土の教えを説く経典を『大無量寿経』『観無量寿教』『阿弥陀経』の『浄土三部経』とし、『浄土論』一論とされました。所が、この浄土三部経は、法然上人までは、それぞれ独立していて、横に並んでいて、共に浄土の教えを説くものとされていました。 
 親鸞聖人に至って、初めて、真実の経は『大無量寿経』であり、『観無量寿経』と『阿弥陀経』は、方便の経であるとされたのであります。親鸞は何故そんなことをしたのでしょうか。此処に、親鸞独自の教相判釈があります。
 法然上人は、『第十八願を王本願』と名付けて、四十八願中最重要の本願とされましたが、第十九願と第二十願については、余り特別な注意をはらっては居られません
 就中、第二十願に就いては、特別に注目したのは、康僧鎧と言われる翻訳者と親鸞聖人だけではなかったかと思われます。勿論、如来会の翻訳者も注目して居ますが、それは大無量寿経の康僧鎧に刺激されての事でありましょう。兎も角、この三者だけが、特に第二十願の存在の意味に注目しているのです。 
 これはとても重要な問題であります。と言うのは、第二十願は、人間の疑惑の最後の課題でありました。此れに気づかない限り、人間の疑惑は晴らしようが無いのであります。
 親鸞が、『仏智疑惑和讃』に特に注意を注いでいるのも、人間の最後の課題に取り組む事を、宗教の最重要課題としたからであります。
仏智うたごう罪ふかし この心おもいしるならば
    くゆる心をむねとして 仏智の不思議をたのむべし (11の38、疑惑和讃) 方便の願が、第十九願と第二十願と二つあるのは、人間の疑いに二つあるからです。先ず、第一が、第十九の願の衆生です。是は人間にとって最も一般的な疑惑であります。
我々は、普通に誰でも善いことが出来ると思っています。自己肯定です。だから、その善根を仏に回向して成仏の果を得ようと試みるわけです。それは誰でも、簡単に可能な事だと考えるのです。所が、仏様の前に出せる善根は一つもないのです。
 我々の善根は、全て『有漏の善根』であります。有漏の善根を幾ら積み重ねても、全て煩悩の所産でありますから。仏様の前に出しても、善とは認められないのです。煩悩の一つとしか認められません。いくら頑張って善根を勤めても駄目なのです。
 これは中々我々には認められない問題です。其の為に、自分は結構善根を積んだ心算に成って得意に成って居るのです。それが第一の『仏智を疑う罪』であります。此の罪を犯すものは、多く、殆どこの世の全部の衆生が、此の罪を犯しています。
 その多くの衆生の中で、極一部の者が、其の罪に気付いて、仏様の前に頭を下げて念仏するのであります。其処に、第二の罪が待っているのであります。これが人間最後の罪であると云うわけです。
 第二の罪と言うのは、『仏の善根を、己の善根とする』と言うものです。すでに人間の善根は役に立たないことを知って居ますが、仏の善根を取り込んで己の善根としようとするのです。
 即ち、『私は念仏を称えているから良いが、お前は念仏を称えないから駄目だ』と言うのです。是は念仏を称えているから、佛を尊敬しているようですが、実は、自己を主張しているのです。自己肯定で自力の計らいに過ぎません。
 此処に、人間最後の『仏智疑惑』が潜んでいます。しかし、此れに気づくことは容易ではありません。第二十願の願意を見出したことは、余程の事であります。
 二十四願経と四十八願経との相違は、幾つかありますが、この二十願の発見は、その最たるものでありましょう。即ち、これが発見されなければ、念仏の救いは、遂に、恩寵の宗教からの脱却が出来なかったのです。
 他力の信仰が、恩寵の宗教に留まれば、結局『他因外道』に転落します。多くの宗教がその轍を踏んでいる中に、浄土真宗のみが、『独立者の道』を歩み続ける事が出来たのは、偏に、第二十願の存在に気付いたからであります。是は親鸞独自の世界であります。
 浄土宗の祖師達が、こぞって法然上人を祖師と仰ぎつつも、この問題に気づかなかったので、天台宗に逆転したり、恩寵の宗教に留まってしまった原因が此れであります。親鸞聖人の御恩徳は、計り知れないものがあります。
 親鸞聖人が、若し居らっしゃらなければ、折角の法然上人の浄土宗独立の事業も空しく消えて行ったのです。鎮西の良忠上人も優れた学者でありますが、残念ながら天台の学問が邪魔をして、法然の思想を天台に逆戻りさしてしまいました。又、西山の証空上人は、念仏に励まれましたが、第二十願の意義が理解されず、恩寵の宗教に留まりました。
 私は、計らずして、浄土真宗の家に生れましたが、その恩徳を想うとき、宿縁の深さを感謝せずにはいられません。誠に有り難い事でありました。人間に生まれてこれ以上の幸運はありません。若し他宗の家に生まれていたら、恐らく念仏に遇う事はなかったであろうと思います。其れほど、今日は念仏のご縁は遇い難い時代であります。
 今、偶々のご縁で念仏に遇っている人は、よくよくの幸運であることを銘記すべきであります。『人身受け難し今既に受く、仏法聞き難し今既に聞く』と何の感銘もなく口ずさんでいますが、この事実に、驚嘆すべきであります。
 真実の教に遇う事は、『難きが中に猶難し』と言われていますが『耳慣れ雀』に成って、平気で居られるように成って終って居ます。此処で一度、根性を据え変えて、この事実に感謝申し上げねばなりません。

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