水琴窟 28

 水琴窟 28

 問 果遂の誓いに帰してこそ
 答 
 二十願の事を果遂の誓いと言います。『果たし遂げずんば、』と言う如来の
大悲の願いの故であります。この第二十の願に特別の意味があることを見出し
た人は、大無量寿経の作者と、親鸞聖人の二人だけであったのでは無いかと思
われます。
 この二十願の特別な意義については、中国では、永い間忘れられていた様で
す。七高僧も、法然上人も、第二十願については、特別に何も言っていられな
いからです。しかし、親鸞聖人は、第二十願の特別な意義に気付いたのです。
それはどういう事かを尋ねてみたいと思います。
 そもそも、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経を、浄土三部経と名付けたの
は法然上人であります。その時、此の『浄土三部経』は同一格に横に並べられ
ていました。所が、親鸞聖人は、真実の経は大無量寿経であり、観無量壽経と
阿弥陀経は、方便の経であるとされました、
 観無量寿経が第十九願の意を表していると云う事は容易に頷けますが、阿弥
陀経が第二十願の意を表しているというのは少し無理なこじつけかと思われま
す。たまたま、三つのお経があり、大無量寿経と観無量寿経が夫々の役割を演
じているので、第二十願の役割を阿弥陀経に押し付けたという感じも無きにし
も在らじと思われます。これは阿弥陀経にとっては、いささか迷惑なことであ
ったかも知れません。
 兎に角、第二十願の特別な意義は、中国では、長く忘れられていたのでしょ
う。親鸞聖人によって、その意義が、改めて明らかになったのです。    
 阿弥陀経に就いて、特に第二十願の意味が強調されている訳ではありませ
ん。ただ、第二十願を代表する経典として、阿弥陀経が当てられたのでありま
しょう。阿弥陀経にとっては不本意なことかもしれませんが、兎に角第二十願
を代表する経とされたのであります。
 そこで、第二十願の意義でありますが、その前に、第十九願について述べる
必要があるようです。観無量寿経は、第十九願の意を顕す経であると言われて
います。観無量寿経の中心課題は、『一者至誠心、二者深心、三者回向発願
心』と言う、三心の教説にあります。
 『至誠の心を持って、信心を起こして、真実の国に生まれようと願え』と言
うのです。これは、宗教の出発点であり、至心発願の教えであります。観無量
寿経が第十九願を代表する経であると言う事は、誰でも直に納得出来る事であ
ります。
 所が、第二十願は『至心回向の願』と言われていまして、この願の意味 
は、中々解かり難いのです。法然上人まで、七高僧の伝統でも、この願の意義
に言及した方はいらっしゃら無いようです。しかし、大無量寿経の作者が、わ
ざわざ第二十願として、一願を立てたのですから、その意義は、元々四十八願
経には見出されて居た筈です。
 この第二十願は、無量壽如来会でも重要に取り上げられていますので、経典
が漢訳される初期の時代には、確かに注目されていたものと思われます。所
が、翻訳後中国では、余り問題にならなかった様であります。
 親鸞は、第二十願の問題に気付き、これを大切に取り上げました。此処に親
鸞の特別な経典への視点が見出されるのであります。
 第二十願の存在に目覚めた者は、第十九願に誓われた『至心発願』の教えに
敗れた衆生です、善根を積んで往生を願う事は、とても自分には叶わないこと
と目覚めたのです。ですから『ひたすら弥陀の本願に縋って往生を願う』と言
う生き方を選んだのですが、其処に人間の最後の問題があります。即ち、本願
の嘉号を己の善根とすると言う問題です。
 『私は念仏を申して居るから善いが、お前はまだ念仏しないから駄目だ』と
他を貶めて、自分を正当化するのです。この心は、最後まで私達に食いつい
て、離れようとしない『仏智疑惑』の罪であります。
 印度から始まって、中国・日本に至る約1000年の仏教伝来の歴史の中
で、見失なわれ、気付かれる事無く伝えられたこの問題が、日本の親鸞によっ
て見出されたことは、不思議な事だと思いますが、仏教伝来の歴史の底に地下
水の様に伝えられていたものが、遂に地上に噴き出る時だ来たのでありましょ
う。
 此れは、モンゴリアンと言う民族の深層意識の中に蓄積されて居たものに相
違ありません。モンゴリアンの伝統には、中国、朝鮮半島経由のものとは異な
って、南方海上を伝わって来たものがあるのです。それは中国経由よりも、一
万年も早く日本に伝へられて居たのです。それを日本では、縄文文化と言いま
すが、此の縄文時代の文化に、その痕跡が残って居る筈です。しかし、今日で
はそれを知ることが出来ません。
 親鸞の思想には、中国伝来の思想とは異なる、特別な感性が認められます。
その思想には、多分に、縄文文化の片鱗が有る様に思われるのです。この親鸞
独特の感性によって、第二十願の意義が見出されたのです。
 これは私の想像でありまして、証明出来ませんが、本題から離れますが、少
し寄り道をして、書かせていただきます。
 我々の地球には永い氷河期がありました。この氷河期には、海の水が今より
300mも低かったと云います。その頃、ボルネオの東に大陸が顔を出してい
たと考えられます(スンダーランドと名ずけられています)。大きな河が流れ
ていた跡があると言われています。その大陸は赤道直下で、氷河期にも気候に
恵まれていて文明が栄えていたと考えられます。これがモンゴロイドの根拠地
でした。その文明の北端に位置していた日本は、中央よりは遅れていたかも知
れませんが、氷河が解けて、海の水が増えると、人々は周辺に逃て来て、文化
を拡散したのです。日本も、多分にその恩恵を受けて居た筈です。
 その水没した大陸に発達した宗教が、モンゴリアンの宗教でありました。そ
れは氷河期の終わりと共に、先ずインドに伝えられ、南北に分かれて東に進ん
だのです。従って、北方ルートより南方の方が一万年も早く日本に伝わったの
です。
 これはまだ確定した説ではありませんが、日本民族の特別な文化を考える
時、このような空想をしてみるのも一考かと思われます。兎に角、縄文文化の
源泉を考える時、『スンダーランド文化』と言う、今は失われた未知の文化が
あったことを想定するのが、妥当の様に思われるのです。暁烏敏師が戦前に唱
えた説には、一考を要すものが有った様です。余談は此れ位にして、本題に帰
ります。
 親鸞によって発見された。『第二十願の意義』は、人間の最奥部に潜む、
『仏智疑惑の罪』であります。如来を無視して、自己を肯定するのです。
 我々は、自己の存在を肯定して、何処までも自己の存在を主張しなければ
生きられないのです。その為には、自殺さえ厭わないのです。『死んでまでも
自己の正当性を主張する』のです。
 死んでしまえば、全て終わりではないかと思うのですが、『死霊の祟り』程
恐ろしいものはありません。『死んで、孫末代まで祟ってやる』と言うので
す。そんな脅しは、現代では通じ無いのかも知れませんが、やはり、自分の仕
打ちで相手が自殺したとなれば、気持ちの良いものではないでしょう。孫末代
まで祟ることが出来るのかも知れません。
 それ程に、我々の自己主張は、容易には拭い去れないものとして、私の一生
に付き纏っています。しかし、こんなことは誰でも当たり前のこととして、顧
みるものは居ませんでした。親鸞だけが此れに気付いたのです。其処には、鋭
い如来の智慧光が光って居ました。
 此の、仏智疑惑の罪の深さに気付いて、如来の前に『五体投地』した者の前
にのみ、如来は影現するのです。
 如来は、何処までも衆生の『仏智疑惑の罪』を否定します。しかし、衆生の
存在を見捨てる事なく、摂取するのです。それが如来の大悲心です。親鸞は、
此の大悲心を頂いて、我が身を『大いに悲嘆すべし』と自覚したのでありまし
た。
  信心の人におとらじと 疑心自力の行者も
   如来大悲の恩を知り 称名念仏はげむべし (疑惑和讃 11の37)
 疑心自力の行者である私でありますが、如来大悲の恩を厚く蒙っている身で
あります。それ故に、称名念仏を励むのであります。
 何処までも、衆生の在り方を否定し尽くさねば置かぬ、如来の智慧でありま
すが、決して、衆生を見捨てないのが如来の智慧であります。見捨てないと
は、何処までも、衆生と共に流転して下さる事であります。衆生と共に、地獄
の底まで付き添って下さるのです。
 『地獄に落ちる。(佐々木蓮麿師)。わしが落ちる。(大河内了悟師)。
  仏も落ちる。(宮城の老院⦆』これは宮城師の老院宅の寄せ書きの言葉で
あります。佐々木師と大河内師が書き終わって、宮城の老院の番が来ました。
さてどのような言葉を書かれるのかと、そばで見ていた藤元正樹氏が固唾を呑
んでいると、暫らく考えていた老院が、さらさらと『仏も落ちる』と書かれた
というのです。その時、藤元正樹氏は随分驚いたと語って居ました。『仏も落
ちる』と言い切れる時、『地獄は一定住み家ぞかし』と、自信をもって言える
のでありましよう。それは正しく『果遂の誓いによりてこそ』と云う本願が在
るが故であります。

 

  
  

  

   

  
  

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