水琴窟 37

   水琴窟 37 
 問 定散の自心に迷う      
答、前号に続いて、もう一つの問題が『定散の自心に迷う』と言う問題であります。これは、浄土門の中の問題です。第二十の願が誓われている意義が此れであります。何度も申しましたが、中国では第二十願は注目されて居なかったように見受けられます。しかし、大無量寿経が翻訳せられた時点で、確かに第二十願として、別に一願を立てて、翻訳されていたのです、又、異訳の如来会(四十八願経)には『我が名を説くを聞きて、以て己が善根として、極楽に回向せん』とまで言って居ます。(12の179)
 この時点では、はっきり第二十願の意義が理解されて居たものと思われます。それが後に見失われたのでしょうか。ここに、二十四願経と四十八願経の大事な相違点が在ったのです。
   定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ
    をしえざれども自然に 真如の門に転入する (大経和讃)
 『果遂の誓い』と言うのが第二十願でありますが、この願の意義を再発見したのは、親鸞聖人であります。善導も法然も此れに就いては、何も言って居られません。法然も親鸞の指摘に依って初めて気づいたと言う一面があるようです。それに就いては、既に詳しく申しましたので今は省きます。(『この世のサンガ』参照)
 この二十願には、『設我得佛、十方衆生、聞我名号、係念我国、植諸徳本、至心廻向、欲生我国、不果遂者、不取正覚』と誓われて居まして、『係念我国、植諸読本』とは、念仏を申すのでありますが、至心廻向の念仏でありますから、其れに依って何かを期待しているのです。至心廻向は、自力の回向であります。定散自力の念仏でありますが、『定散自力の念仏でも良いから、念仏を称えよ』と勧めて居られるのです。
 この様に、仏の仰せを信じて、ひたすら、念佛を称える者は必ず救われると言うのです。
阿弥陀経には『舎利弗、若有善男子善女人、聞説阿弥陀仏、執持名号、若一日、若二日・・・若七日、一心不乱 』と説かれています。此処には、二十願の心が滲み出ています。阿弥陀経が、二十願の教えを説く経であると言われる所以であります この二十願は、『果遂の誓い』と言われるように、人間の心の最奥に潜む、最も厄介な執心を問題にする本願であります。人間が生きている限り、最後まで離れる事の出来ない執着であります。その執着に対して、果遂せずばとの誓いであります。
 この願に着目したのは、親鸞聖人の慧眼であります。其れは、恐らく、縄文時代以来の深い思想に根ざしているものと思うのですが、今は何とも云われません。とに角、親鸞聖人によって発見された、人間最後の執心に気付くことが出来ないのが、『定散の自心に迷うて、金剛の真信に昏し』と言う問題です。
 私達には、念仏は申して居ても周囲の人と比較して、常に、自己を正当化しようとする根性が根強くへばり付いて居ます。『私は、念仏して居るから善いが、あの人は念仏しないから困る。』と言う心です。これが『定散の自心に迷う』心です。これは念仏して居るから良い様でありますが、其処に、重大な問題があるのであります。
 それは、『凡そ、大小聖人一切の善人、本願の嘉号を以て己が善根と為るが故に、信を生ずること能はず、仏智を了らず、彼の因を建立せることを了知すること能はず、故に報土に入ること無し。』 (化身土巻、12の187) と、親鸞聖人が言われる問題です。
 此処に、不定聚の機と言われる者の抱えている問題があることを見出したのが、親鸞聖人でありました。『本願の嘉号を以て己が善根とする』と言うのは、人間に隠れている最後の執心であります。すでに第十九願の教えを潜って、私に、仏に向かって廻向すべき何物もない事は、自覚されているのですが、それでも仏に向かって廻向するものが欲しいわけです。その為に、仏より賜った本願の名号を、自の善根として、仏に回向しようとするのです。それは、何か自分を誇るものが無いと生きられない、根強い根性が私の中に生きているのです。自己肯定の執着です。
 如来は『無我』の教えを説かれました。しかし、人間は無我では生きられないのです。此処に、如来無視の態度があります。それを『仏智疑惑』と申します。
  不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり
仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり
   疑惑のつみのふかきゆえ 年歳劫数をふるととく
 親鸞聖人は、晩年になって、仏智疑惑の罪について多くの和讃をつくって居られます。仏智疑惑の罪は、人間の最奥に潜んでいる自己肯定の心でありますので、死ぬまで無くならないものであります。
  信心の人におとらじと 疑心自力の行者も
   如来大悲の恩を知り 称名念仏はげむべし
 疑心自力の行者に懸けられた本願が、第二十願であります。大悲の極まりでありました。この故に、如来大悲の恩を知り、称名念仏を励むべしと勧められるのです。
 『仏智うたがう罪ふかし この心おもいしるなれば、くゆる心をむねとして 仏智の不思議をたのむべし已上二十二首 仏智疑惑の罪とがのふかきことをあらわす これを辺地・懈慢・胎生 なんどというなり』と述懐して居られます。(草稿本)
 親鸞聖人は、自身の仏智疑惑の罪に目覚めて、仏智疑惑を戒めて下さっているのです。誠に、『定散の自信に迷うて、金剛の眞心に昏し』とは、他人の事ではなく、私自身の事であります。此処に、信巻を顕して下さる真意がありました。
 第二十願の意義を正しく発見して下さった、聖人の恩徳を今更に知らされる事であります。この第二十願がましまさずば、我々の心中に深く潜んでいる仏智疑惑の罪を 知り得ないままに、不定聚の機に留まって、正定聚の機に目覚めることが出来なかったのであります。
 大無量寿経の終わりに当たり、胎生と化生の問題が取り上げられています。これは大無量寿経の帰結でありますが、この第二十願の胎生の問題こそ、大無量寿経が最後に解決しなければならない重要な課題でありました。胎生の者は多く、化生の者は少ないと言われています。我々は、仏智疑惑の罪の深さに目覚めて、念仏申すべきであります。
 この問題こそ、衆生の最後の迷いの根元であります。此れを解決しなければ、我々の救いは完成されません。『薄紙一枚が超えられぬ』と言う嘆きを残して、地上を去らねばなりません。若しこの問題が、大無量寿経の最後に提起されなかったなら、我々は永遠に流転を免れ得なかったのであります。誠に仏恩の深重を、幾重にも、幾重にも、深謝して念仏申させて頂く、次第であります。 
 

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