水琴窟 38

   水琴窟 38
 問、三願転入に就いて
 答、 三願転入とは、化身土巻本の終わりに説かれる御自釈で、重要な問題を指摘される一節です。
 三願とは、十八願、十九願、二十願の三願ですが。この願を、十九願から、二十願へ、更に十八願へと転入すると言うのであれば間違いであります。そもそも『三願転入』と言うのが変な言い方であります。
 親鸞聖人は、『然るに、今、特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり』と仰せられて居ますので、転入と言う言葉は、選択の願海に転入する事です。
 その前に、『善本。徳本の真門に回入して」と言われて居ますので、回入と転入と二つの言葉が、区別して用いられています。注意して読むべきであります。
 そこで、普通に『三願転入論』と言われている問題を考えてみたいと思います。この第十九願と第二十願と第十八願の三願には、どんな関係が有るのかと言う事です。
 転入と言えば、十九から二十へ、更に、二十願から十八願へと言う風に、順を追って転じて行く事かと思われますが、実はそうではありません。そこで、三つの願の関係を、改めて考え直して見る必要があるのであります。
 第十九願は、求道の出発点であります。ですから、道を求める者は、『至誠の心を起こして、深い信心の心で、浄土を求めよ』と勧められるのです。
 これを『観経の三心』と申します。観経に『若有衆生、願生彼国者、発三種心、即便往生、何等為三、一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心、具三心者、必生彼国』と説かれます。(2の21)これを解釈して善導大師は、
 『経に云わく、一者至誠心。至は眞なり、誠は実なり、一切衆生の身口意業の所修の解行、必ず真実心の中に作す可き事を明かさんと発す。外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ』と戒められます。
 しかし、この読み方は親鸞の読み方と違います。善導の原文に忠実の読めば、上の通りになります。するとこの文は第十九願の心になりますので、化身土巻に引用すべき文であります。
 所が、親鸞は、わざわざ文章を読み替えて、『一切衆生の身口意業の所修の解行、必ず真実心中に作したまえるを須いることを明かさんと欲う』と読んで、『信巻』に引用されているのです。このことは、大いに注意を要する問題であります。
 『二者深心』とは、浅い心でなく、深い心で眞心を尽くせと言うのですが、此処にも、二種深信と言う、大切な釈をつけてあって、親鸞は、此れも信巻に引用してあります。
 更に、『三者回向発願心』とは、名聞や勝他や利養の為でなく、専ら往生浄土の為に心を注ぐと言うのですが、此処にも、善導は、有名な『二河白道』の譬えを出してあって、親鸞はこれを、信巻の名所とされています。
 従って、この部分は、観無量寿経の重要な部分であることが判ります。本来ならば、化身土巻に引用すべき文章を、態々読み替えて、真実信心を表わす信巻に引用している訳です。此処に、親鸞の並々ならぬ聖典読破力が窺えるのです。
  我々は、誰でも、『教えてさえ下されば、実行して見せます。』と申します。やれば、出来ると考えているのです。其れでは『やって見なさい』と言うのが十九願の本来の心です。
 そこで、早速、取組んでみるのですが、やって見ると、中々容易ではない事が分かります。 幾たびも、幾たびも取り組んで、挫折を繰り返すことによって、やっと、私には、出来ない道である事が頷けてくるのです。そこで初めて、第二十願が在ることに気が付くのです。二十願は、往生の為には『ただ念仏申せ』と云う本願であります。
 しかし、私達は直ぐこの本願に飛びつくことは出来ません。私には、『やれば出来る筈だ』と言う根強い自負心がありますから、容易に『出来ない』と認められないのです。
 それ故に、『久しく、万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の眞門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。』(12の187)と親鸞聖人は言われています。
 『久しく』と言い、『永く』と言うのです。
所が、『転入』に就いては、『然るに、今、特に方便の眞門を出でて、選択の願海に転入せり』と言われますように、
 『転入』は『今』です。然も、『特』という文字に『まことに』と仮名をつけて、注意を促してあります。
 この『今』が大事なのです。この『今』は普通私達が使っている『今』ではありません。
普通の今は、今と言った途端に、過去の流れて、思い出になります。思い出はどんなに激しいものでも、思い出に過ぎません。時と共に薄れて行きます。  
 幾らおいしい御馳走でも、食べて居るのは今ですが、食べ終わったら、過去になります。そうして、『ああおいしかった』という過去の思い出に過ぎませんから、腹は膨れたかもしれませんが、おいしいと言う味の感覚は思い出に過ぎません。
 私達の経験は、全て思い出にすぎないのです。所が、『信心』と言う経験は、いつでも『今』なのです。決して、思い出ではありません。
 『今、特に、・・・選択の願海に転入する』と言われる『今』は、普通の、『人間の経験』ではありません。其れで『永遠の今』と言われるものです。
 『永遠の今』とは、永遠なるものが、日常の時間の中に闖入して充満するのです。
仏教では、永遠なるものを『真如』、『如』、『如来』と申します。正に『如来』です。如なるものが来たって、私に充満するのです。
親鸞聖人は、哲学の先生が言う『永遠の今』を、八百年も昔に使っていたのです。全く、是は驚きです。『永遠の今』と言う事が、我々の日常の中に、厳然として存在して居るのです。
 勿論、人間の『日常の体験』としてではありません。それ故に、此れを『如来回向の信心』と言い、又、『他力廻向の信心』と申します。この『他力廻向の信心』は『日常の時間』を破って、私の中に充満する体験であります。 
 この様な体験は、必ずしも、驚天動地の体験ではなく、静かに何時の間にか心中に充満し来ることもありまして、人によって、それぞれ異なる体験でありましょう。
 兎に角、この様な体験を、 親鸞聖人は、『転入』と表現されています。

  

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