水琴窟 39

   水琴窟 39
 問、三願転入に就いて (続き)
 答、 親鸞聖人は『転入』と言う体験を必ずしも『驚天動地』の体験としては、表現して居ないと申しました。
 入信の動機を、能く、『見性体験』と言われますが、その様な特殊な経験をした人もあるでしょうが、 親鸞聖人は、その様な体験を特に強調して居ません。その様な体験は、往々にして、特別な体験として誇らしげに語られるものですが、多分に、日常の体験の一種に過ぎず、『転入』とは異なるものなのです。
 転入は確かに特別な経験ではありますが、人間の体験とは次元を異にする、人間の経験を超えたものであります。従って、必ずしも、強烈な思い出として記憶されるものでは無いのでしょう。 
 また、『我は、信心を得たり』と公言されるようなものでもありません。むしろ、『疑心自力の念仏者』として、懺悔述懐されるような自覚体験であります。 
 先に述べた『見性体験』が、全て間違いだと言うのではありません。空海は、明けの明星が腹に飛び込んで、悟りを開いたと言われていますし、親鸞は、『建仁辛の酉の年、雑行を捨てて本願に帰す』と述懐して居ます。それは、忘れ難い思い出としての出来事であります。しかし、それをすぐさま信心決定と言っていいかと言う問題であります。
 親鸞においては、師、法然との出会いは、一生忘れることの出来ない体験でありますが、信心決定ではありません。更に百日間通い詰めて、やっと弟子となったと言われています。
 信心決定は、『信心一異の争論』のエピソードに語られるように、『法然上人の御信心も、親鸞の信心も、ただ一つなり』と言い切れるほどの、強烈な自覚でありますが、何年、何月何日と記される様な体験ではありますまい。それが『転入』という事実です。
 しかもその事実は、常に『今』と言う体験であります。生きている限り、常に、今、転入するのです。こんな体験は、信心以外には有り得ません。
 『今、転入する』と言えば、それまでは何処にいるのでしょうか。我々は、十九願と二十願の世界を行きつ戻りつして、ぐるぐると経めぐっているのです。其れが『回入』と言われる世界でしょう。
 その回入の状態から、今、十八願の世界に転入するのです。しかし、また回入の世界に戻るのでありましょう。だから、我々は、疑心自力の存在であることから離れられないのです。
 この世のサンガには、胎生の者と化生の者が混在して居るのだと申しました。それは、大無量寿経の最後の説法でありました。
 大無量寿経の翻訳者は、この経の最後に当たって、是非明らかにして置かなければならない問題として、この胎生と化生の問題を取り上げたのであります。それは、大無量寿経の帰結であるからです。
 大無量寿経は、胎生と化生の者が混在して居る事を承知の上で、サンガに帰入する事を勧めているのです。其れを『果遂の誓い』と申します。第二十願であります。
至心廻向欲生と 十方衆生を方便し
 名号の眞門ひらきてぞ 不果遂者と願じける
果遂の願によりてこそ 釈迦は善本徳本を
 弥陀経にあらわして 一乗の機をすすめける
定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ
 おしえざれども自然に 真如の門に転入する
親鸞聖人は、大経和讃の内に三首まで、果遂の願に依る和讃を作って居られます。それ程関心を持たれて居たのでしょう。実は、この果遂の誓いこそ,大無量寿経の重要課題でありました。大無量寿経の最後になって、胎生の問題を是非明らかにして置かねば成らなかったのです。
観無量寿経と、阿弥陀経には、釈尊は、はっきり『念仏を称えよ』と称名念仏を勧て居られるのですが、大無量寿経では、何故か、顕わに称名念仏を勧めて居られません。『阿弥陀仏を念ぜよ』と言われるのです。所が、異訳の二十四願経では、明らかに、『南無阿弥陀三耶三佛檀と言え』と言われています。明らかに『称名念仏』を勧めて居ます。同じお経でも翻訳によってこれほど違うのです。これは何故であろうかと、以前から不審に思って居ました。
これは、只『称名念仏』だけを勧めては、疑心自力の念仏と他力廻向の念仏とが、区別出来ないからではないかと思います。大無量寿経には、経の最後になって、胎生と化生の問題が、大切に取り上げられて居ました。これは、この経の帰結であると申しました。
大無量寿経には、二十四願経に無かった『第二十願』が、はっきり意識されて明示されています。第二十願が意識されていると言う事は、一斉に念仏して居る人々の中に、胎生の者と化生の者が居る事を意識したのです。
親鸞聖人は,大無量寿経の下巻のこの文章によって、此の事に気付いたのでありましょう。確かに、皆が一斉に念仏している姿を見る限り、同一に念仏して居るのです。その中に、胎生の者と化生の者が混ざっていると言う事実は、誰にも分りません。唯、世尊の指摘によってのみ気が付く事であります。
それ故に、世尊は態々注意を促したのです。此処に、第二十願の、深い思し召しがありました。
人間の最後の迷いの現実を知らしめる為であります。 親鸞聖人が、『果遂の願に依りてこそ』と和讃し、『果遂の誓い誠に故あるかな』と嘆じた心が、さぞかしと窺えられます。
 若し、第二十願が無かったら、人間の最後の迷いである『佛智疑惑』に気付くことが出来なかったでしょう。それは、何時までも『佛智疑惑の罪』の為に、生死流転を続けて行くしかない結果に終わるのです。
 『果遂の誓い』を起こされた『法蔵菩薩の御恩徳』と、これを指摘して下さった『世尊の大慈悲』を、深く深く感謝申し上げる次第あります。

            

 

 

 

    

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