水琴窟 4

  水琴窟 『四』
 問 阿弥陀様って何、そんな方が何処かに居るの ?、
   神さまとはちがうの ? 。
 答、
阿弥陀様とは、浄土真宗で御本尊として礼拝している仏さまです。
 キリスト教やイスラム教の神様とも違い、日本の神道の神々とも違う、独自の神格を持った存在であります。
 キリスト教やイスラム教の神様は、一神教と言って、唯一の神『ヤーウエー』だけが、神様として認められていて、他の一切の存在は神様によって作られた、『神の被造物』とされています。従って、神様の絶対威光の前に服従すべきものとされています。
日本の神様は、この世のあらゆるものの内に宿っている様々な神々で、八百万の神と言われ自由自在に活躍している神様です。
 これに対して、阿弥陀如来は、一神教の神様と同じような威光を持ちながら。決して、唯一神と主張せず、一切衆生を自らと同じ仏とすることを誓って仏に成りました。
 阿弥陀如来は、因位の修行をして、仏と成るという成仏の過程が説かれて居ます。元来、神様にはそんなことは説かれないものです。初めから神としてこの世に君臨するものです。
 所が阿弥陀仏には因位の修行が説かれるのです。是は我々衆生は深い迷いのために苦しんでいるのですが、その迷いの自覚がありませんので、唯いたずらに苦しみ藻掻いています。そこで、阿弥陀仏は態々仏の世界から迷いの我々の世界まで降りてきて、我々と共に迷いの中にあって迷いの自覚を促して、迷いから脱出せしめようとするのです。これを因位の修行というのです。
阿弥陀仏という人がいるのではありません。阿弥陀仏の働きがあるのです。其れを神話
的に表現して、阿弥陀如来というのです。神話の世界では、色々の働きを表すために、人に譬えて語るのです。阿弥陀如来も、法の働きを表現するために説かれたものであります。
 阿弥陀如来は、久遠実成の仏と言われ遠い昔から仏でありますが、衆生のために凡夫の世界へ降りてきて、法蔵菩薩となり、誓願を立て修行をして阿弥陀仏と成るのです。其れを十劫成仏の阿弥陀と申します。此は偏に我々衆生の為の御苦労です。
 阿弥陀とは、無量という意味で、光明無量と寿命無量を表します。光明無量は、限りなく衆生の無明の闇を照らして、闇深き衆生を呼び覚ます働きであり、寿命無量は衆生に、生きて居ることの意味を知らす働きであります。命を与えられて生きて居ることの尊厳に目覚めさせる働きを寿命無慮と言います。
 この阿弥陀仏の御働きによって、衆生は自らの存在意義を知らされ、生きる事の意味を知り、人生を全じて行けるのです。是を、『この世を空しく過ぎる事無く、功徳に満ちた人生』と言います。
 その為には、仏の教えを聞くことです。仏の光に会うとは、仏の教えを聞くことです。初めは中々解りませんが、それでも頑張って聞き続けると次第に解るようになり、教えを聞くことが楽しくなるのです。其れまで辛抱強く聞き抜いた人は、仏から『我が善き親友である』褒められます。是非其処まで聞いて下さい。
 キリスト教では、『神の奴隷になる』と言いますが、仏教では、『仏の善き親友になる』と言うのです。前者は、絶対服従を意味し、後者は、互いに尊敬し合う関係です。それを『仏と仏が相い念じたもう』(仏仏相念)世界であると言います。ここに一神教の神と阿弥陀如来との重要な違いがあります。
 キリスト教の一神教に対して、阿弥陀如来の教えを『二尊教』と申します。釈迦弥陀二尊の教えというのです。釈迦を離れて阿弥陀仏はなく、阿弥陀仏を離れて釈迦はありません。其れはいったい、何う言うことでしょうか。
 観無量寿経の第七華座観に『仏当に汝が為に除苦悩法を分別解説すべし。・・・』と説くと、『この語を説きたもう時、無量寿仏空中に住立したもう』と説かれて居ます。是を『応声即現』と申します。釈迦の説法の声に応じて直ちに阿弥陀仏が姿を現したと言うのです。
 釈迦は阿弥陀仏の徳を讃嘆するのです。その言葉に応じて阿弥陀は現れるのです。釈迦は諸仏の一人です。諸仏の讃嘆に依らなければ阿弥陀仏は現れようがないのです。
 阿弥陀仏は法の働きでありますから、法を信奉し、法を生きて居る者によって証明されるのです。何処かに阿弥陀仏という方が存在して居るのでなく、諸仏が讃嘆することによって、阿弥陀仏の存在が証明されるのです。諸仏の讃嘆とは念仏を称える事です、諸仏の念仏の中に阿弥陀仏は存在するのです。
 阿弥陀仏を、絵像や木像で表すのは、礼拝の対象として仮に姿を以て現しているので、木像の様な方が何処かにいらっしゃると思う者が居れば、其れは対象化と言って、偶像崇拝で、真実の信仰ではありません。 
 『当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号と言えり』と言って、礼拝の対象も名号を良しとします。これは、宗教的儀式には、必ず礼拝が必要ですが、浄土真宗では名号を大切にしている訳です。キリスト教や、イスラム教では、偶像崇拝を厳しく戒めていますが、儀式には礼拝の対象が必要ですので、十字架や、メッカの方角に向かって礼拝をすることになっています。其れも偶像崇拝の一種でありましょう。仏教徒が仏像を拝むことを偶像崇拝だと否定するだけでは無意味であります。偶像崇拝の真の意味に目覚めなければなりません。
 名号を礼拝するのは、偶像崇拝を否定するためです。本尊を対象化して高く掲げ、是に向かって祈り、人間の要求を果たそうとする事こそ、偶像崇拝であります。神と人間の欲望の取引であります。人間の欲望を超えさせるものではありません。
 名号を礼拝することは、如来の光明に遇うことです、如来の光明は、衆生我々の深い迷いを照らし出して、罪業深重の目覚めを促すことです。故に、如来に向かって合掌礼拝する者は、自己の罪悪深重を知り罪業を懺悔するのです。
 念仏は、仏徳讃嘆ですが、そのまま罪障懺悔になるのです。諸仏が念仏する時、諸仏は諸仏の座を捨てて罪業深重の衆生になるのです。念仏は、只、声を出して南無阿弥陀仏と唱えていればよいのではありません。本願のいわれを聞き開いて、自己の罪業にさめ、安楽国に往生を願うことであります。
 安楽国に往生を願うという問題については、稿を改めて考えることに致します。 

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