水琴窟 40

    水琴窟 40  
 問 吉凶禍福に惑う  
答 般舟三昧経に言わく、『・・・自ら佛に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ、余道に事うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祀ることを得ざれ、吉良日を視る事を得ざれ』(12の198)
 佛教では、吉凶禍福に迷うことを誡めています。所が、現代は、科学の発展に伴い、迷信は愚かなことだと判っている居る筈ですが、結構、占いや、神頼みが繁盛しているようです。何故でしょうか。
 理由ははっきりしています。この世には、いくら科学が発達しても、理性が発達しても、科学や理性だけでは如何にもならないことが、幾らでも起こって来るからです。自分の命に関わることでさえ、自分にどうすることもできないのです。その為に、吉凶禍福に惑わざるを得ないのです。
 この世に起こる出来事を、神や佛に縋って助けてもらったり、開運を祈ったりすることは、馬鹿げたことだと知っているはずですが、いざ自分に災いが降りかかって来てみると、慌てふためいて、科学や理性を忘れ、右往左往するのです。
 幾ら科学が発達しても、我々は、明日の事さえ予測することが出来ません。従って、色々な疑心暗鬼に振り回されるのです。しかし、幾ら神や佛に祈ってみても、災害に会うときは、間違いなくやって来るのです。それが、この世の道理であります。それを、『因果の法則』といいます。世間では『運命』と云いますが、運命といえば愚痴であります。愚痴は、真実を照らす智慧が無いことから起ります。 佛教では、『縁起の法』を説きます。この世の出来ごとは、すべて縁によっておこると云うのです。これは、佛の教えを聞いて開かれた智慧によって、目覚めた自覚であります。
 『さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いをもすべし』と歎異抄に言われて居ます。. 因は、私の内にあります。 外にあるものは全て縁であります。ですから、起こって来るものは、たとい如何なる縁に依っても起こっても、悉く私の責任に於いて受けとって行かねばならないのです。そこに、縁起の法則に目覚めた者の自覚があります。    吉凶禍福に惑う者は、『現世を祈る者』と云います。善因善果、悪因悪果は、この世の因果です。これを信ずるが故に、善因に依って善果を得たいと願うのが、現世を祈るる者であります。世間では、当然の事と認めていますが、仏法では、雑修と云って嫌らわれます。佛智を信じないからです。    佛号むねと修すれども 現世をいのる行者をば    これも雑修と名付けてぞ 千中無一ときらわるる (善導和讃)
   本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり      
 或生辺地ときらいつつ 或堕宮胎とすてらるる (疑惑和讃)
歎異抄には、『辺地に往生するものは、遂に地獄に堕ちるべし』という異義を誡めてあります。これは、第二十願(果遂の誓い)の深い思し召しを知らぬ者を誡めたものでありまして、『果遂の誓い』に預るが故に、辺地に往生する者も、必ず摂取すると言うのが、大悲の願意であります。
 この果遂の願無かりせば、疑心自力の行者の救われる道は、開かれ無かったのであります。疑心自力の行者も、果遂の願に依りてこそ、自身の疑惑の罪に目覚めて、他力を信ずる身となるのです。     
 我々は、佛智の不思議を疑って居て、自己を頼み、自己の能力を自負して生きています。それが如何に傲慢であり、自己を知らない者である事かに、気付かないのであります。この自己の真相を知らない者の事を、佛智疑惑の者と言うのです。
  佛智疑う罪ふかし この心おもいしるならば
   くゆる心をむねとして 佛智の不思議をたのむべし(疑惑和讃)
と、親鸞聖人は和讃に述べられました。佛智不思議を疑惑する罪に目覚めることが、疑心自力の行者が、救われる唯一の道であります。
 『私は、信心を獲ているから大丈夫だ』と公言して憚らない者こそ、佛智疑惑の証拠であります。それは、自己の真実の姿が分かっていないのです。吉凶禍福に迷うのは、佛の教えを聞こうとせず、自分の勝手な思いだけで生きて居るのです。佛智不思議を信じないで、自分の思いを最高と考えているのです。
 佛智不思議を信ずれば、この世の事は、因縁に依って起こることに目覚めて、自己の責任に於いて、この世に起こる全ての事を引き受けて行けるようになるのです。それが、独立者の自覚です。 
 何故自己の責任として引き受けなければならないのかと言いますと、事の起こる因は私に在るからです。私の悲喜苦楽として起こっている限り、その因は私に在るのです。『そんな事はとても引き受けられません』と言いたいのですが、私の悲喜苦楽として感受されている限り、それは、私の悲喜苦楽であります。たれに代わって貰う事も出来ない私の事実です。大無量寿経に『無有代者』とありますが、誰も変わって呉れる者は居ないのです。その道理に目覚める事が、佛の教えに随う事なのです。 
 自分の思いだけを信じて、佛の教えを受け付けない心を持って居るのが、私達の日常の生活です。これを、如来無視と言います。『私は、如来無視などしていません』と言っても駄目です。吉凶禍福を恐れている心が内に隠れているのです。それが如来無視の生活です。
 曽我量深先生は、亡くなる時には、褥瘡が酷くて、さぞ痛かったであろうと察しられました。先生は一度も苦しいと言われなかったのです。そこで看病している人が。『先生、苦しいでしょう』と尋ねましたら、『私は、悪業の重い身であります」とだけ答えられたと言います。苦しい病の中に、悪業の身と受け取って念仏していられたのでありましょう。
 或る人が『曽我先生でさえ、楽には死ねなかったのだ』と言っていましたが、業縁の身であります。私の身の上に起こってくる程のものの因は、全て、私の内にあるのです。従って、私の責任として受けてゆかねばならないのです。どんな死に方をするかも判りません。『有るがままを受け取って念仏申す』のみであります。
 『そんなことは無茶だ』と言いたいのですが、私が喜怒哀楽を感じて居る限り、その因は私の内に有るのです。それが『縁起の法則』です。私が喜怒哀楽を感じないものは、全て話です。痛くも痒くもないものです。その因も私の責任であります。   喜怒哀楽を感ずる限り。生きているわが身の事実です。事実は事実として、受けて行かねばならないのが、法則というものです。 

 

 

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