水琴窟 42

  水琴窟 42  
 問 不回向の行
 答 親鸞聖人は『誠に是れ、大小・凡聖・定散・自力の回向に非ず。故に『不回向』と名くるなり。然るに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心無し、清浄の回向心無し、』と言い、更に、『三業の所修乃至一念一刹那も、回向心を首と為、大悲心を成就することを得たまえり』と言われます。(信巻、欲生釈,12の75)
 又、法然上人は、選択集、二行章に、五番の相対を説いて『第四に不回向回向對とは、正助二行を修する者は、縦令、別に回向を用いざれども自然に往生の業と成る』と言い、『雑行を修する者は、必ず回向を用いるの時、往生の因と成る、若し回向を用いざるの
時は、往生の因と成らず』と言われて居ます。          
 『回向』と言う言葉を『広辞苑』で調べてみると『自らの修めた功徳を自らの悟りのために、または他者の利益のためにめぐらすこと』とあります。 
 又、岩波仏教辞典には、『自己の善行の結果である功徳を他に巡らし向けると言う意味に使われ、回向と漢訳された。(中略)善行を単に自己の功徳としただけでは真の功徳とはならず、それを他の一切の者に振り向ける事によって完全な功徳に成るという大乗仏教の思想がここにある』と言います。 
『雑行を修する者は、必ず回向を用いるの時、往生の因と成る』と言うのは、一応、聖道門の言い分を認めて、往生の因と成ることを認めるわけですが、善導は、『決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、肱劫より以来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し』と言い切って居るのです。法然がこの善導の言葉を知らぬ筈は有りませんから、回向と言うことは、成り立たない事を熟知した上で、敢えて、聖道門に配慮して、言葉を和らげて言っているのです。  
 親鸞聖人は、聖道門に遠慮すること無く、堂々とはっきり主張していられます。これは、教行信証と言う著作の性格に依るのでありまして、此の書は、聖道門に対して、浄土真宗の立場を鮮明にする役割を持っているからです。
 親鸞は、『真実の回向心なし』とはっきり言い切って居られます。従って、回向すべき善根の無い、罪悪生死の凡夫には、回向を必要としない『不回向の行』に依らざる限り、救いはあり得ないのです。
『我には、回向すべき善根があると自負している者』には、回向の教えは有効でありますが、『我には、回向すべき善根が無い』という自覚に覚めた者には、回向の教えは無意味であります。                       
仏教が日本に伝来して以来、永く信仰されてきた。『念仏を回向して衆生利益の爲に務める』と言う、浄土教独自の習俗に、徹底した批判を加えたのが、親鸞の『念仏は、不回向の行である』との主張でした。それは、『いずれの行も及びがたき身』と言う、親鸞聖人の徹底した自覚によるものでした。
 親鸞聖人には、人間誰しもが懐く、『人間には、回向すべき善根があるのではないか』と言う、淡い希望や、夢に決して陥入らない、確固たる信念が有りました。それは、正法に忠実な姿勢であります。 
『唯、大法の如く、難関にぶち当たれば更に大法の如く』如何なる時にも大法の命ずる儘に、大法に忠実に歩み切られた、親鸞聖人の、生きる姿勢で有りました。
 人間は、『其れでも、少し位、何か善いことが出来るのではないか』と言う夢を持ちたい存在で有ります。所が、仏教は、人間の夢を一切許さない教えです。僅かでも、この夢に取り付かれた者は、疑城胎宮に落ちるのです。この事を徹底して教えたのが第二十願で有ります。第二十願は、人間の最後の執われを問題にした願で有ります。
 大無量寿経では、最後に成って胎生の問題が取りあげられて居ます。大無量寿経の最後の重要な課題であります。人間が生きている限り離れられない問題であります。
 大無量寿経が、二十四願経から四十八願経に展開するに当たって、色々改良すべき問題が見付かったのですが、その中で第二十願の意義を見付けた事は、重大でありました。其の第二十願の意義は、中国では余り問題に成らなかったようです、是れを見付けてのは親鸞聖人でありました。  
 歎異抄には、『信心一異の論争』が述べられて居ます。其れは、法然上人の信心と、弟子達の信心は一つであるか、異なるかと言う論争であります。法然門下の弟子達は、一斉に異なると思って居たのですが、親鸞だけが、信心は同一であると主張したのです。
 其れは、信心は如来より賜ったものであるからであります。法然の前で釈明する親鸞の一部始終を聞いていた法然が、初めて第二十願の意義に気付いたのでしょう。念仏は如来回向の法で有ります。人間の回向は成り立たないのです。其れは既に『不回向回向對』という問題で法然が言っていた事なのです。
 しかし、人間には、やはり夢見る癖があります。最後の最後まで,ひょっとすれば出来るかも知れないと言う夢が捨てられないのです。『いずれの行も及びがたき身』と、我が身を思い知ることは人間には不可能なのです。其処に,第二十願の問題があるのです。
 『いずれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』と言いきった親鸞聖人の一言は、実に凄い言葉であります。とても人間の口から出る言葉ではありません。
 ニーチエは、全らゆる偶像を否定して『神々は死んだ』と宣言しました。その為に、ニヒリズムだと言われました。確かに、ニヒリズムで有ります。しかし、ニヒリズム の深淵から人生を見つめ直してみる必要があるのです
 人間には、どんな苦境の底にあっても、生死出べき道を求める心があります。この心は何処から出てくるのでしょう。それは、人間に本来内在する無漏の種子で有ります。此の無漏の種子が『君はそれで善いのかね』と時々私に呼び掛けるのです。
 此の呼び掛けに応えて、善き人の勧める声が耳に入ってくるのです。偶像に祈る心を見出して如来の前にお詫びして、念仏申すより道のない私で有ります。
 回向すべき善根の欠けらも無い私に,如来より回向された念仏は、まさに不回向の行であります。
 『果遂の誓い誠に由えあるかな』と親鸞は嘆じました. 第二十願の意義を見出した大無量寿経の作者の広大な恩徳を、幾重にも幾重にも深謝することであります。此の願に依りてこそ、初めて、私達は『生死出べき道』に立たしめられるのであります。
 
 
 
  

目次