水琴窟 48

水琴窟 48
問 虚無の身,無極の体
答 顔容端政たぐいなし 精微妙軀非人天
虚無之身無極体 平等力を帰命せよ(11の15)
『虚無の身,無極の体』と言う言葉が、大無量寿経に有るのです。其れが、讃阿弥陀仏偈に引かれていまして、和讃にも詠われて居るのです。
これは、浄土の徳を顕すもので、唯それだけの事であるとばかり思っていました。所が、その意味には大変な問題がある事を知らされたのです。
一神教では、神の絶対性を説くために、強権主義から離れられません。即ち、神の被造物としての衆生の上に、神は、絶対的権威を持って君臨します。その為に,衆生は絶対的服従を強いられるのです。其れは、奴隷制度を生み出す思想です。其処には被支配者の嘆きがありました。
『神の奴隷』と言う言葉も有るように、一神教には、徹底した『神に対する恐れ』と言うものが付きまとう訳です。之が信仰の純粋性を保つのですが、同時に宗教による残虐性を生み出す原因になるのです。一神教のこの問題は、越えがたい問題として今日も残されていて、一神教の負の一面になるのであります。
二尊教の場合は、『平等力』と言う言葉が有りますが、一切の者が平等に救われて行くというのです。『神の奴隷になる』という救いでは無く、あらゆる者が、皆、仏となると言う救いです。
唯識学では、『末那識』を『自他区別識』と言います。自分と他人とを瞬時に区別して、自己の保全を謀る働きであります。この働きのお陰で,今日まで生きられたのでありますから、生存のために必要不可欠の働きであります。
所が、この『末那識』こそが、一切の罪悪の根源であると言うのです。『我痴,我見、我慢、我愛』の四つの煩悩を持つというのが、末那識の特徴です。我痴は,本当の自己が判らないと言うことです。その為に,本当の自己で無いものを自己とする『我見』を起こし、その『我見』のために、『我慢』と『我愛』を起こすのです。『我慢』は自分と他人を比べて優劣賢愚邪正の判断をするのです,その結果、『我愛』と言う、自分が可愛いと言う、自分を贔屓する心を離れる事が出来ません。
佛教は、『末那識』を転じて,『平等性智』とすることを目標とする教です。『虚無の身、無極の体』と言う言葉の奥に、一神教では如何しても超えられない、『平等の救い』という問題を確立したのです。
勿論、『転識得智』と言いましても、そんなに簡単には行きません。聖道門は、この問題の爲に悪戦苦闘為たのです。その結果、遂に念仏の道が見出されたのであります。
聖道門は、聖賢の爲の道であります。その教えは、転識得智の爲に、色々の方法を編み出しましたが、聖賢のための道であります為に、凡夫は漏れて落ちるのです。どんな愚かな凡夫も必ず救われる道ではありません。
聖道門が間違った教えであると言うのではありません、只、漏れて落ちる者には、何んな立派な教えも、役に立ちません。其処に、聖道門の泣き所があります。
浄土門は、どんな愚かな者も決して漏らさない教えであります。其れは、本願力の回向の故であります。しかし、只,本願力の回向と言うだけでは、他因論の、恩寵の宗教に為ります。他因論は、甘えの宗教で、『ひたすら、阿弥陀如来のお慈悲に縋って
生きる』と言う生き方で、決して正しい宗教とは言えない生き方であります。
『本願を信じて,念仏申す』爲には、聞法に徹する事が必要条件です。聞法のみが、私に賜っている『無漏の種子』を現行させる唯一の縁だからであります。
この『無漏の種子の現行』こそが、『無漏の信心』なのです。『本願を信じて』と言う『信心』は、普通に世間で言われる信心では有りません。『他力回向の信心』で有ります。
『他力回向の信心』は、『無漏の種子の現行』でありますから。『無漏の経験』で有ります。『無漏の経験』と言うのは、普通の我々の経験は、すべて、『有漏の経験』でありまして、煩悩に汚染されています。この有漏の経験を幾ら熱心に積み重ねても、浄土の縁には成りません。三悪道の縁であります。之は、善導大師が、観経の三心釈で、はっきり言い切って居られるのです。無漏の経験だけが、浄土に往生する因になるのであります。
一神教の構造を持つ宗教は、神の絶対権威を主張する爲に、神という絶対支配者と、神に救われる者と言う、被支配者の関係を免れません。其処には、被支配者の奴隷的存在としての嘆きがあります。その嘆きは、誰にも聞き入れられない嘆きであります。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり (11の35)
『苦悩の有情を捨てずして』とは、如何して言えるのでしょうか。一神教の構造からは、決して言えない事です。即ち、支配者と被支配者の関係には、常に、被支配者の嘆きがつきまとうのです。せいぜい、同情して救いの手を差し伸べるしか有りません。
しかし、同情ほど残酷な屈辱を与える行為は無いのです。結局、苦悩の有情を前にして、見て見ぬ振りを為ることに成ります。之は、一神教の決定的欠陥であります。
『苦悩の有情を捨てずして』と言うのは、人間の同情ではありません。如来の大慈悲心です。其れを、『無縁の大悲』と申します。
人間の同情は最も残酷な屈辱を与える行為であります。無縁の大悲のみが、苦悩の有情を救う力であります。無縁の大悲は、純粋贈与で有ります。決して見返りの報酬を要求しない行為で有ります。
大自然は、純粋贈与の天地であります。その中に住んでいる人間だけが、行為の報酬を要求するのです。此れによって、人間社会の矛盾が生まれます。
一神教は,国王と臣民を生み出す国家を創り出す原理を提供しました。その為に、一度国家が創られと、臣民という被支配者の立場が生まれ、その為に、被支配者の嘆きは、何時までも絶えることが無いのであります。
この嘆きは、神への恐れという事ですり替えられて、信仰の純粋性と言うことになって居ますが、根源的には未解決の儘放置されています。
この様に、一神教では、『苦悩の有情を捨てず』と言う課題は、見失なわれるのです。『国を棄て、王を捨て、行じて沙門となる』と言う釈迦牟尼佛の願いは、一神教では果たせない、この負の面を払拭するための念願でありました。
『平等力を帰命せよ』と言う『平等性智』の働きを待ってこそ、『苦悩の有情を捨てずして』と言う問題の解決が可能になるのです。『虚無の身,無極の体』と言う浄土の徳は、『苦悩の有情を捨てず』との念願の表現であります。
この佛陀の念願が、この後も、永く人類を救うための指標になるよう 努力しなければならないのです。

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