水琴窟 5

  水琴窟 『五』
問、浄土と言うけれど、そんな世界があると本当に思っているの 。天国とど
う違うの。 ? 
答、
 阿弥陀仏の浄土と言うのは、神話的表現です。所がこの神話には耳を傾け
る必要があるのです。其れに就いて考えてみましょう。
 神話によれば、元、国王であった方が、世自在王仏の教えを聞き感動して、
王位を捨て一切のものを投げ捨てて修行者になり、苦しみに喘いでいる人々を
救いたいと言う願を起こし、遂に阿弥陀如来となられたと語られています。そ
の阿弥陀如来の国を阿弥陀の浄土と言い、苦しみ悩んでいるものに『我が国に
生まれてこい』と呼びかけていると言うのです。
 その為に、この浄土には種々の宝が完備していて、ここに生まれた者は、永
遠の幸せを得ることが約束されているのです。是を聞く限り『天国』と変わり
ないと思われます。所が、天国と全く違った事が説かれて居るのです。
 天国は、人間の欲望が全て満たされる世界で、仏教では『天上界』と言いま
す。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの境界を全て迷いの世界と
なづけて、六道輪廻と言います。従って、天上界も迷いの世界です。天上界に
は、『今受けている幸せを失う』という苦しみがあるのです。其れを『天人五
衰の苦しみ』と言います。その苦しみは地獄の苦しみより酷く、地獄の苦しみ
の十六倍であるとされています。
 阿弥陀の浄土は、六道を超えていますので苦しみのない世界です。苦しみが
ないと言うことは、楽しみもないことです。人間の考える苦楽を超えた世界で
す。そんなところではさぞ退屈するだろうと考えるのは人間の考えで、浄土に
は『退屈』もないのです。
 さて、如来は何故浄土を建立するのでしょうか
 其れは、生活の場を成就するためです。人間は生きるために生活の場が必要
なのです。丁度生きて働くためには、大地が必要なように、生活には生活の場
が必要です。私達は、生死の苦海を場として生きて居ます。その為に、生きる
ことは苦しみであります。この衆生を哀れんで、新しい苦しみのない場を提供
しようというのです。
 如来は先ず、地獄餓鬼畜生のない国を作りたいと願います、地獄餓鬼畜生は
我々の現実人生の事実です。是は薬師如来の十二の本願と同じものです。阿弥
陀如来はここから出発して更に次々と浄土建立の願いを展開していくのです。
こうして四十八の誓願を立て、願成就して建立されたのが阿弥陀仏の浄土であ
ります。
 阿弥陀仏は、『我が国に生まれて来い』と私達に呼びかけているのです。こ
の阿弥陀仏の浄土に往生することが、生死の苦海を離れて、仏と等しい悟りを
得る最上の方法であります。浄土に往生したものはどうなるのかと言いまと、
天親菩薩は、『直ちに大悲の心を興して、衆生を助けるために娑婆世界に帰っ
てくるのだ』と、言われています。
 浄土に往生することを『願作仏心』と申します。願作仏心を興せば直ちに
『度衆生心』を興すと言われます。度衆生心とは、大悲の心を以て衆生を救う
働きです。
 折角浄土の往生しても、すぐ又娑婆に帰ってくるのでは何にもならないでは
ないかと考えるのは、人間の浅はかさであります。一度浄土に往生したもの
は、二度と迷いに沈むことはありません。だから娑婆に帰っても迷いの衆生で
はありません。仏と同じく思う様に衆生済度が出来るのです。ここに、永遠の
命の躍動があります。
 『地上の生の終焉は、永遠の生の出発である』と言われています。地上の生
の終焉とは、肉体の死ではありません。浄土に往生するという意味です。する
と直ちに衆生済度の為の生が始まるのです。其れを永遠の生と言います。此の
様な生き方を往生浄土と言います。
 往生浄土と言っても、何処か別の世界に行くのではありません。生き方が、
『滅び行くだけの生き方』から、『永遠に滅ぶことのない生き方』に変わるこ
となのです。
 天親菩薩は、『願生偈』に、浄土の荘厳を『三厳二十九種』として説かれま
した。その一々は、滅ぶことのない生き方を語っています。其れを『願心荘
厳』と言います。如来の悲願が形として顕されたもので、『象徴』とも言われ
ています。
 浄土と言う世界が、何処かにあるのではありません。滅び行くだけの生き方
しか出来ない我々を悲しんで、滅ぶことのない生き方を、形を以て表したもの
です。ですから、浄土の荘厳の一々を学ぶ時、滅ぶことのない人生の深い意義
を知らされるのです。
 我々は、仏法を聞かない内は、ひたすら天国に生まれたいと願っています。
然し、たとい望み道理に天国に生まれる事が出来ても、其処には『五衰の苦し
み』が待っているのです。
 五衰の苦しみとは、五つの衰えに依る苦しみと言うことです。
1,頭上の華が萎む
  2,天衣垢汚
  3,脇下より汗流る
  4,目がくらむ
  5,本居を楽しまず
何れも衰えていく苦しみですが、五番目の『不楽本居』とは本来居るべき所に
安住出来ないのです。うろうろして、何処にも安住出来無くなるのです。これ
らは全て滅び行くものの悲哀です。天上界の楽しみも滅び行くものの悲哀を免
れないと言うのです。まして人間以下の境界は滅び行く悲哀を免れる事は出来
ません。
 六道を輪廻するというのは、いかなる境遇にも安住する事が出来ないと言う
ことです。其れを善導大師は、『無有安心之地』と言いました。安心之地ある
こと無しと言うのです。
 所が、親鸞聖人は、この同じ言葉を『心を安すんずるに、之より地(とこ
ろ)あることなし』と読みました。『何処へ行っても安心の地が無いのないの
なら、ここで安住する方法を見出すしか道はないのだ』と読みました。当に、
『眼光紙背に徹す』と言うべき読み方であります。善導大師の意図も其れに違
いはないというのです。
 何処かに安心出来る所はないかと右往左往するのではない。何処にも安心の
地がないのなら、ここに腹を据えて生きる道を見つけるのだという訳です。其
れは人間の力では駄目です。阿弥陀如来の智慧を賜って信心の智慧によれば可
能な道であるというのです。
 『念仏者は無碍の一道なり』との歎異抄の宣言であります。阿弥陀仏の本願
に生きるものの、何ものにも畏れない堂々たる姿勢であります。      
 往生浄土の生き方とは、此の様に生きる方向を明確に見極めて、なにものに
も妨げられず、苦悩のこの人生を堂々と活き切って行く生き方を与えられるこ
とです。貴方も往生浄土の歩みを果たす一員になってみる気は起こりません
か。

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