水琴窟 53

水琴窟 53の5
問、三願・三機・三往生 (続き)
答 第二十願の続き、
第二十願を、難思往生と申します。之は、第十八願の難思議往生の『議』の一字を抜いて、第十八願の、難思議往生に一歩劣ると言う事を表す爲で有ります。
『一歩劣る』と言うのは、胎生往生と云う事で、弥陀の浄土に往生はしているのですが、『胎に処する』と云われて、三宝に離れ、仏を見ず、法を聞かず、僧に帰依する事なしと云うのです。
又、胎生の者は懈慢界と言いまして、七宝の宮殿に住して居るのですが、目が行くところに、床がついて回ると言われています、即ち、同じ所しか見えていないのです。自分に見えている世界だけを見ている訳で、見えていない世界がどんなに悲惨な状況であっても一向に気付かないのです。即ち、一人よがりの世界です。之が胎生の者の世界なのです。
本人は、立派に仏道を生きている積もりですが、実情は、一人よがりの哀れな存在なのです。しかし、如来は其れを承知で、胎生を勧めます。其れは、果遂の願が有るからです。   定散自力の称名は、果遂の誓いに帰してこそ
おしえざれども自然に、真如の門に転入する
(大無量寿経和讃、11の18)
定散自力の者も、念仏申している限り、仏智疑惑の罪に目覚めるならば、自然に、真如の門に転入すると云うのです。
親鸞聖人は、晩年になって、仏智疑惑の和讃を多く作り、仏智疑惑を誡めて居られます。又、大無量寿経には其の終わりに当たって、胎生の問題を説かれて居ました。之は、大無量寿経の最後の帰結で有るからで有ります。
即ち、大無量寿経は、最後に胎生の問題を説かねば成らないことを語っていたのです。胎生とは、まさしく、仏智疑惑の者であります。『仏』在す事を忘れて、自分の思いを中心に生きているのです。自分は念仏して居るから大丈夫だと安心して居るのです。
この安心が命取りの病根であります。自分はもう大丈夫だと安心した途端に、自己肯定の穴に落ち込むのです。人間は、よくよく自己肯定が好きな存在なのです。
『定散自力の称名は・・・』の御和讃は、元、善導大師の『般舟讃』の言葉でありましたが、大師の意図とは随分違った意味になって居ます。
善導は、『微塵故業隧智滅、不覚転入真如門』と云いましたので、恐らく、『微塵の故業、仏の智慧によって滅し、仏の智慧を信じない不覚の者も、必ず真如の門に転入する』と云う意味では無いかと思われます。
所が、親鸞は、『微塵の故業と隧智と滅す、おしえざれども自然に、真如の門に転入する』と読みました。
『隧智と』とは、『所知障』の事で有りまして、微塵の故業と、所知障とを、仏の智慧によって滅せられ、自然に真如の門に転入する事が出来るのは、偏に『果遂の誓い』の故なので有ると言うのであります。
この『果遂の誓い(二十願)』無かりせば、無始以来の三悪道の悪業も、所知障と言う仏智を信じようとしない『近代的知識人』も、救いが無い事に成るのであります。誠に、二十願こそは、、一人も漏れる者を逃さない大悲の誓願で有りました。
第十九願と第二十願は、共に、第十八願の、難思議往生を果たし遂げる爲の、必要不可欠の誓願で有ります。今さらに、本願の周到な用意が思われる次第で有ります。
若し、平安時代に生まれて居たら、臨終来迎に縋って、当ても無い未来往生を夢見て終わって居たで有ろう。若し、中国に生まれて居たら、共産主義者になって居たでしょう。江戸時代か、戦前に生きていたら、恩寵の信仰に留まって居たかも知れません。
第二次 世界戦争に負けて、不思議に生き残れた許りに、今この法に遇う事が出来て居ます。誠に、遇い難い御法で有ります。よくよく身の幸運を喜ぶ者で有ります。
思えば、戦後、住岡夜晃先生の薫陶を受け、先生亡き後には、曽我量深先生、安田理深先生、蓬茨租運先生、仲野良俊先生、其の他多くの先生方のお育てを頂いて、今日まで生きさして頂きました。誠に、有難い極みで有ります。もう歳を取りまして、お返しは何も出来ませんが、お念仏を申して、命の限り生きさして頂きます。
法然上人は、『往生、三度になりぬるに、この度殊に遂げやすし』と仰せられたと云われています。私も『この度殊に遂げ安し』と、声、高らかに言いたい思いで有ります。
どうか皆様も、しっかり聞法して、お念仏申せる様に成って下さい。人間には、皆、生まれる前から、賜っている『無漏の種子』が有るのです。之が現行して下さることが、信心を頂くことで有ります。人は誰でも必ず頂いて居るのが、無漏の種子で有ります。之を現行させる爲の唯一の縁が、聞法で有ります。
私達の聞法は、有漏の経験で有ります、有漏の経験であると言うことは、所知障を増強することであります。物知りに成り、高慢に成る恐れがあるのです。
所が、この聞法のみが、『無漏の経験』を引き出す唯一の縁でも在ると言うのです。これが、唯識学者『護法』の見出した『本有の無漏の種子説』であります。
其れで、注意深く聞法を続けて行く必要があるのですが、大丈夫です。真面目に聞法を続けさえすれば、必ず、信心は得られるのです。聞いても、聞いても分からないと言って、投げ出してはいけません。辛抱強く聞法を続けて居れば、必ず、明るい未来が開けます。
今、私に言えることは此処までです。真摯な聞法の人が一人でも増えることを念ずる許りであります。
第十九願と第二十願に支えられて、私達は必ず、第十八願の世界に迎え取られるのです。この三願は、一つでも欠けたら、救いは成就しないのであります。誠に、不思議な本願の構造で有ります。
大地に頭を、深く深く下げて、本願成就の偉神力に、感謝申し上げる次第であります。

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