水琴窟 59

問 一神教のみでは
答 世界の宗教は、一神教優位になって居ます。このまま、一神教のみが優位になって、一神教のみの世界に成れば、人類は、滅亡する恐れがあると説き続けて来ました。
此処に、二尊教と言う宗教があることを、是非、世界に訴えねばならない理由があるのです。
一神教は、真か偽かと言う二者択一の選択しか出来ない世界観であると云いました。其れに対して、仏教は、真、仮、偽と言う三つの選択肢を持つ世界観を堅持して居るのです。
仏教の、真、仮、偽の選択肢の世界観は、釈迦、弥陀、諸仏が共存する世界であります。是れを、二尊教と言うのは、釈迦は、諸仏の一員であるからです。諸仏とは、真実が、虚偽に働き懸ける具体的課程を表して居るのです。具体的働きは、夫々が、夫々の形を取って働くので、色々の姿を取って居ても好い訳です。全体を一つに統一する必要は無いのです。
釈迦は、特別に娑婆世界という、五濁悪世に働き懸ける使命を持って、この世に出現した仏でありました。五濁悪世は、殊の外、仏法が聞き難い所でありますので、極難信の法を説くと言われて居ます。従って、この娑婆世界に生まれた衆生は、特別に、釈迦の御苦労を身に染みて感謝申し上ねば成らないのです。
何故一神教のみの世界になれば人類が滅びる事になるのかと言うと、真か偽かと言う選択肢しかない世界では、『我は真なり』と云えば、我と異なる考えの者は、皆、偽ということに成ります。その為、『我こそ、真なり』と言う主張を互いに言いはる所に、争いが生まれ、やがて戦争になるのであります。
所が、今日の戦争は、兵器が物凄く発達して、勝負が着かなくなるのです。此れからの戦争は、勝利者が居ない敗者ばかりの戦争になるだろうと言われています。敗者どころか、人類滅亡の戦争に成るに相違ありません。
仮と言う選択肢があれば、『貴方も真を表す爲に努力して居るのですね』と言うゆとりが生まれてくるのです。仮と言う世界は、真を表す爲の課程です。真は、必ず仮を通して表現されるものですから、其処に、和やかに、相手の意見を聞いて行ける世界が展開するのです。
此れが、二尊教が持つ素晴らしい世界であります。日本は、この二尊教の『浄土真宗』を元にして世界に訴えるべきでありましたが、残念ながら、明治以来の戦争に勝利を得たために、のぼせ上がって、戦争ばかりに力を入れて、浄土真宗を無視してきました。
今こそ、浄土真宗に帰らねばならない時であります。しかし、戦争ばかりに走り続けたために、すっかり、宗教の重要性を忘れて仕舞いました。折角、二尊教と言う宗教を与えられながら、宗教無視の生活に明け暮れして居ることは、誠に、勿体ない事であります。
外道とは、真実が何か解らない世界で有ります。皆がよってたかって此れが真実だと叫んで居ますが、全く決め手が無いのです。その外道の世界から、仏教の世界に入って、初めて、此れが真実だと言えるものが見付かったのです。
所が、真実は明らかに示されたのですが、真と偽とが対立するだけでは、真実と真実との主張の争いになります。其処に、もう一つの転回が必要なのです。その転回が浄土教への転回であります。
浄土の教えは、真と仮と偽の三つの選択肢を持つ教えです。その教えは、本願念仏の教えでありますが、本願を信じて念仏申す、この道に於いて、初めて、皆の人々が穏やかに、暮らせる世界が成就されるのであります。
所が、私達が、 真に救われる爲には、もう一つの転回が成されなければ成らないのです。其れは、我執を超えるという問題で有りました。
我々は、心の奥底に、末那識という心の働きを持っています。其れは、自他区別識と言われて、自他を瞬時に区別して身の安全を図る機能でありまして、そのお陰で今日まで生き延びて来られたのであります。しかし、この働きの故に、自我の固執という問題が起こるのです。
この自我の固執(我執)によって、弥陀の回向の念仏の功徳を、自の善根とするのです、『私は念仏しているから良いが、あの人は念仏為ないから駄目だ』という心が抜けないのです。この我執は、根深いものでありまして、死ぬまで無く成らないもので有ります。
如来の智慧光の前に引き出されて、頭を大地に下げきって、謝るより外に、施し用の無い代物で有ります。此れを、『如来無視』、『佛智疑惑の罪』と申します。
この三つの転回を潜って、初めて私達の救いが、見事に成就されるのでありますから、私達は、この三つの関門を必ず潜る必要があります。
これが、『往生三度になりぬるに、この度特に遂げ易し』という法然和讃の意味であろうと思われるので有ります。
法然上人は、『源空みずからのたまわく、霊山会上にありしとき、声聞僧にまじわりて、頭陀を行じて化度せしむ』と言われていたと言います。此れは、先ず、外道を捨てて、仏道を求めたと言う意味であります。そうして、聖道門の修行をされたのが、第一の転回でありました。
更に,日本の国に生まれて、選択本願念仏集を著わし、第二の転回をなさったのです。その専修念仏の一道には、更に、第三の関門があることを見出し、念仏道に一生を捧げきって、目出度く、往生の素懐を遂げられたのであります。
『この度特に遂げやすし』との御述懐は、其れを語って居られたのでありましょう。
法然上人の此の御述懐を、態々和讃に作って述べられる親鸞聖人の御深意は、聖人の御自身の心境でも有りましょう。師弟共に同一の心境に住していられる風光が見られるのであります。
この世に生まれて、此の三つの転回を遂げて、往生浄土の素懐を遂げる事が出来ろ事は、何物にも代えることが出来ない幸せであります。仏法を聞き得たという事は、此の三つの関門を、必ず潜り抜けて、真報仏土に往生する事であります。若し途中で足踏みして前に進めなくなれば、往生の大利益を失う事になります。
往生は歩みであります。留まれば,其れがどんなにこころよい世界であっても、往生ではなく、仮城になるのであります。心して歩み続けねばなりません。
私も、法然、親鸞両聖人の顰み倣い、せめて真似だけでも、『往生三度になりぬるに、この度特にとげやすし』と、高らかに歌いながら、この世を去って行きたいものと思って居ます。

目次