水琴窟 宗教は迷信では?

問、 宗教と言えば、迷信ばかりではないの? (水琴窟2,3より)  

 確かに、世の中には、いかがわしい迷信が満ち溢れています。その中から正しい信仰心を選び出すことは至難の業であります。そこで、正しい信仰とはどういうものなのか考えてみたいと思います。
 広辞苑を開いて迷信を調べてみると、『迷妄と考えられる信仰。又道理に合わない言い伝えなどを頑固に信ずる事。その判定の基準は常に相対的で、通常、現代人の理性的判断から見て不合理であると考えられるものについて言う。』とあります。
 又、『俗信』と題して、民衆の間で行われる宗教的な慣行・風習・呪術・占い・まじない・幽霊・妖怪の観念など。このうち、実際に社会に対して害毒を及ぼすものを迷信といって区別する場合がある。』と書いてありました。
 要するに、現代人の理性的判断から見て不合理であると判断されるもので、特に社会に対して害毒を及ぼすものを迷信というと規定されているようです。
 然し、『現代人の理性的判断から見て』と言うことが極めて曖昧であります。現代人の理性的判断が基準となる訳ですが、現代人は常に流転しているものです。その理性的判断も常に変わるものですから、迷信の規定はあやふやなものに成ります。
 また、理性的判断が基準となる訳ですが、人間は理性だけで生きて居るものではなく、理性を超えた何ものかに動かされているものであります。理性的判断だけで信仰を語る事は出来ないのです。
 神話という問題があります。キリスト教で、聖書の非神話化という問題が一時喧しく叫ばれました。聖書の神話的表現を、理性で解釈出来るように改めるというのでしょうか。
然し、ここには多くの問題がありました。則ち、理性だけで宗教の問題は解けないのです。 非神話化と言うのが、唯、理性的判断に委ねると言うことであれば、大いに問題があるのです。神話には、神話独特の論理がありまして、必ずしも理性的範疇に入らないものがあります。そこに、人間の理性の限界があるのです。
 人間の理性の限界を教えるために、あえて理性では計れない世界を、神話の世界は語るのです。神話では、動物たちも人間と語りますし。木や草も人間と同じように行動したり考えたりします。其れを子供達は素直に受け入れています。理性だけでは律しきれない何物かを子供達は感じているのです。其処には、神話の世界の素晴らしい一面が躍動して居ます。
 仏教では、神話的表現の経典と、論理的表現の仏教学が両立しています。これはキリスト教の神学にも言えることだと思いますが。要するに神話と学問に両立が大切でしょう。
 宗教と一口に言いましても、色々あって何もかも一緒には出来ません。明らかに個人や社会に害毒を流すものもあれば、個人的に信じ込んでいるだけのものもあります。その中で、どれを迷信だというのか、中々難しいと言わねばなりません。
 正しい信仰心というのは何かと言われても、ちょっと返答に困ります。そこで、仏教の信仰心とはどういうものかと考えることに致します。
 蓮如上人は、『諸々の雑行雑修、自力の心をふり捨てて、一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御助け候へ』とたのめ。言われています。        
 『諸々の雑行雑修』をふり捨てて、『一心に阿弥陀如来』に、『われらが今度の一大事の後生御助け候へ』と頼むことだというのです。然し、この言葉も随分誤解されてきていますので、充分分析する必要があります。
 先ず、『雑行雑修』と言う言葉ですが、最も難解な言葉でありましょう。そもそも、信心と言うことに最も注意をしたのは、善導大師でありまして、『雑行雑修』と言う言葉を最初に使われたのも善導大師であります。
 私達は、善因善果、悪因悪果、善い事をすれば幸せになり、悪いことをすれば不幸になると信じています。然し世の中には、悪るい事をしても不幸にならないものも居ます。その時人生は理不尽だと言います。確かにこの世には理不尽なことがまかり通っています。
それでも、善良な人間は善因善果、悪因悪果の法則を信じて生きようとしています。
 然し、度重なる理不尽に遇うとこの信念が揺らいできます。正直者が馬鹿を見ると言うことになります。矢張り人生は少々誤魔化ても、うまく渡らねば損をすると言うことになるのです。『小人閑居して不善を為す』と言うことになるのでしょう。これはみんながやっていることだからしようがないと言って済ましています。聖人君子ならいざ知らず、我々凡夫にはとても出来ないことだというのです。これが生死流転の姿であります。仏教は生死出ずべき道です。この生死流転の世界を離れて安穏な世界に出る道であります。   然し、生死を超えると言いましても、そう簡単に超えることは出来ないことで、仏教のは難しいと言うことになってしまいます。確かに、これはいい加減な取り組みでは出来る事ではありません。過去の聖者達が命懸けで取り組んできた問題であります。
 親鸞聖人は、十九歳の時磯長の聖徳太子の御廟に詣でて『日域大乗相応の地』と言う夢のお告げを受けられたと伝えられて居ます。この『日域大乗相応の地』と言う言葉は、当時比叡山では 頻りに叫ばれていた言葉であったと言います。然し、親鸞聖人は果たしてその言葉通りの事実があるのか疑っていられたものと思われます。
 当時の仏教は、善根を積んで其れを回向して仏に成ると言うことが常識でありました。善根を積むことが出来るものはすれで成仏出来るのですが、善根を積むことなど思いもよらない貧しい一般庶民に取っては成仏の望みは諦めるより外ありません。『普く諸々の衆生と共に』という大乗仏教の理想は、比叡山では果たせないのではないかという疑問が、ぬぐえない問題として親鸞を苦しめておりました。
 迷信は、単に理性的判断で決められるものではありません。正しい信仰心とは何かと言うことを徹底して深く吟味する必要があるのです。  
 信仰心と言っても、教えによって色々の信仰が説かれて居るのです。その中で、どれでも良いという訳には行かないのです。人間を正しく導いて、必ず真実の自覚を促すものでなければなりません。      
 金が儲かるとか、病気が治るとか、家内安全、商売繁盛、都合良く楽な暮らしが出来るようにとかは、人間が誰でも望むことではありますが、人間の真の救いではありません。其れは因縁次第で、今は都合よくても、すぐ都合の悪い時が来るものです。又幾ら都合良い日が続いても、其れを失う心配や、馴れて飽きて了うと言う問題もあります。  
 我々は、四苦という生老病死に悩み、更に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五縕盛苦(以上で八苦)に悩まされています。これが生死の苦海の現状です。その苦しみを少しでも軽くしたいと願うのは無理からぬ事であります。所が、この四苦八苦は逃げても逃げても追いかけて来て逃れることが出来ません。   
 神や仏にお願いして禍が来ないように祈るのですが、矢張り来る時には来るので、一向に祈りが効かないものです。そこで更に霊験あらたかな神や仏を探して、右往左往するのです。これを現世を祈る行者と言います。   

  仏号むねと修すれども 現世を祈る行者をば    
   これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらわるる  

 是は、善導大師の和讃であります。現世を祈る行者は、生死海の不安を逃れようとして神仏に祈る訳ですが、祈っても祈っても不安は次ぎから次へと出てきて、一向に解消出来ません。此の様な信仰は間違っているからです。  
 今の日本では、信仰と言えば大半がこの種のものであります。是は人間の迷いを益々深めていくもので、人間に真の自覚をもたらすものではありませんから、迷信と言うべきものであります。だから質問者が言うように『宗教と言えば迷信ばかりではないか』と言うことも当たっていない訳ではありますまい。  
 然し、日本には、そんな迷信ばかりではない正しい信仰もあるのです。その事を理解すべきでありましょう。 正しい信仰とは、人間に正しい自覚をもたらすものです。我々の理性は、我々に自覚を促すものですが、理性の自覚は不十分で、徹底した深い自覚ではありません。或る程度の自覚は可能ですが、まだまだ自覚されない部分が残って居るのです。  
 唯識学では、自覚の無限後退性と言うことを言います。則ち、自覚とは自分で自分を反省するのですから、反省された自己(これを相分と言います)と、反省している自己(是を見分と言います)と、自己が二つに分かれるのです。
 是を自覚の二分性といいます。その時、反省されている自己は確かに自覚の対象になって、見えているのですが、反省している自己は見えないのです。そこでもっと徹底して自己反省をしなければならないとなって、更に自己を深く見つめることを行う訳です。是を自証分と言い、更に後退して、証自証分といいます。自証分と証自証分は、更に幾たびも繰り返して自覚が深められて無限に後退するのです。世間ではそのように深く自覚を繰り返している人を人格者と言うのです。   
 是は人間にとって大切なことですが、実は幾ら徹底して無限に後退しても、自覚の構造は変わりませんから。依然として見ている自分(見分)は見えないままに残るのです。実はこの部分に自己肯定の正体が隠れているのです。この自己肯定の正体は、常に見分の側に立って、反省の対象になりません。  
 唯識学ではこの自覚の構造のからくりを見破って対策を練り直したのです。則ち、この証自証分を根本から反省するためには、最後の証自証分にまで自覚のメスが届かねばなりません。然し是は人間の力では不可能なのです。  
 護法はこの問題解決のため『本有の無漏の種子』と言うことを見つけたのです。是は、『如来蔵経』その他多くの経に説かれて居る『如来蔵思想』と言われるものです。大乗仏教の二大思想、竜樹の般若思想と天親の唯識思想の間に隠れて余り目立ちませんが、この如来蔵思想は大乗仏教の重要な教えであります。護法はこの如来蔵思想によって、無漏の種子本有説を見出したのです。  
 人間には、生まれる前から『無漏の種子』が宿っているというのです。是は随分飛躍した考えですが、言われてみると成る程と納得出来るのです。この本有の無漏の種子が現行して、無漏の経験が成り立つのです。他力の信心とは、無漏の現行(経験)です。  
 この無漏の種子を激発して現行せしめる縁が有漏の聞法なのです。聞法は有漏の経験ですが、無漏の種子を現行せしむる唯一の縁であります。  
 『聞いても聞いても解らない』と言う嘆きを能く聞きます。大丈夫です。聞いて聞いて聞き抜くのです。既に私に宿っていて下さる無漏の種子が現行して下さるまで聞き抜く事です。一度無漏の種子が動き出したらもう占めたもので、今度は無漏の法が私を動かして止めようとしても止められなくなるのです。  
 護法による、無漏の種子の本有説は、真如は十方世界に充ち満ちているという、大いなるものの本質を顕しています。  
 真如は十方微塵世界に充ち満ちていますから、衆生の心中にも満ちているのです。真如は法性法身です、『色もなく形もましまさず』と言われます。『この一如より形を表して方便法身と申す』(唯心鈔文意、20の8)と言われる様に、色も形も無いものが、形を取って現れたのが方便法身であります。  
 方便法身が阿弥陀如来でありますから、『法蔵菩薩と名乗りたまいて、不可思議の大誓願を起こしてあらわれたもう御形』をば、尽十方無碍光如来と申すと言われます。(同前)  
 法蔵菩薩は、無漏の種子として、我々の内に宿っていて下さるのです。その無漏の種子が聞法の縁を待って現行して下さるところに信心開発という事実が起こるのです。  この無漏の種子の現行が他力回向の信心であります。信心と言うのは、世間で言っている『神仏を信心する』と言うのは『自力の信心』であって、蓮如上人が言われる信心は、 『他力の信心』なのです。  
 『信心と言える二字をば「まことのこころ」と訓めるなり。「まことのこころ」というは行者のわろき自力のこころにては助からず、如来の他力のよきこころにてたすかるが故に「まことのこころ」とは申すなり』(御文章、一帖目第十五通、29の13)と言われています。  
 『行者のわろき自力のこころ』と言いますのは、人間の理性による分別のことで、是非善悪、愛憎好嫌などを分別する心を言います。『如来の他力のよきこころ』とは如来真実の智慧のことで、他力の信心です。理性的判断である善も悪も『行者のわろきこころ』で、世間で言う善悪共に『わるきこころ』と言われているのです。正しい信仰心ではないからであります。  
 此の様に、信心には『自力の信心』と『他力の信心』とがあります。自力の信心は、神や仏を対象化して、高いところに祭り上げて、私が信ずるのであります。あくまで、私が主人公であります。私が主人公である限り『我執』を免れません。我執による信仰には、打算がありまして、私がこれほどしてあげるのだから、きっと御利益があるはずだと計算しているのです。計算による取引ですから、純粋な信仰心とは言えないのです。  
 浄土真宗では、この自力の信仰心を、正しい信仰心ではないと批判して、雑行雑修と言い、徹底して嫌うのです。  
 迷信と言うのは、この正しくない信仰心のことです。理性的判断から見ると、必ずしも社会に害毒を流していなくても、人間に真実の自覚を開くことが出来ないで、人間の迷妄を助長する信仰は、正しい信仰とは言えません。  
 『雑行雑修自力の心』で神や仏を信ずる信仰は、たとい熱心に念仏を称えてもいても、現世を祈る行者で、結局、正しい信仰ではありません。迷信か否かの判断には、是ほど厳しい吟味が為されなくてはならないのです。

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