釈迦弥陀は慈悲の父母(4)

 釈迦弥陀は慈悲の父母 4 (二尊教に就いて)

 釈迦と弥陀と別々の役割を果たすことによって、健康な宗教が保たれると言うことですが、其れはどう言うことでしょうか。
『娑婆の化主、物の爲の故に、想を西方に住せしめ。安楽の慈尊、情を知るが故に、東域に影臨す』と言われます。これは善導の第七華座観解説の言葉です。
 娑婆の苦悩の衆生を教化して下さる釈尊は、我々衆生の爲に、想を西方の阿弥陀如来の
上にとどめ、専ら阿弥陀仏の本願を臆念し、衆生にその本願を信楽する事を勧めるのです。
 一方、阿弥陀如来は、衆生の情願を知り給うが故に、姿をこの娑婆世界に現して下さると言うのです。これが観無量寿経に説かれる『空中に住立する阿弥陀』の意味であると言われています。
 この事を善導は、『応声即現』と言いました。声に応じて阿弥陀仏は衆生の前に身を顕す言うのです。『声』とは釈迦如来の説法の声です。『東岸に人の勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて、直ちに西に進むと言うは、即ち釈迦すでに滅したい後の人見たてまつらざれども、尚、教法有りて尋ぬ可きに譬う、即ち之を声の如しと喩うるなり』(二河白道、12の64)と善導は言います。

 善導は『声』という言葉に特別注意を払って大切に用いています。『声』はただ音声というので無く声の響きです。教えの声を、只、聞くのでなく、声の奥にある心を聞き取ると言う事です。教えは声となって衆生を呼び覚ますのです。声を聞き得る人にならねば、宗教は成立しません。
 釈迦はひたすら弥陀の本願を説いて、声となって、我々衆生に『願生彼国』の心を呼び起こすのです。
 弥陀は、その釈迦の説法の声に応えて、南無阿弥陀仏となって、衆生の前に現れるのです。従って釈迦の声を聞かない者の前には、阿弥陀仏は姿を現しようがありません。それで『応声即現』と言ったのです。
 釈迦は衆生の爲に、弥陀の本願を説くのです。その声を聞き得た衆生が、『聞其名号信心歓喜』して、彼の国に往生したいと願う時、阿弥陀如来はこの人の前に現れるのです それが南無阿弥陀仏です。『本願を信じて念仏申す』者の前に、阿弥陀仏は現れて下さるのです。しかし、人間の目で見るのではありません。;人間の目は如来を見ることは出来ない構造になっているのです。信心決定した心が、信心の智慧によって、如来のましますことに頷くのです。この頷きを『空中住立の佛』と表現したのです。
 次に善導は、第八像観には、『応心即現』と言いました。先に、『安楽の慈尊、情を知るが故に、東域に影臨す』と言われています。その『情』を『情願』と置き換えました。これは曇鸞大師の言葉であります。曇鸞が情願と言ったのを、善導は『情』と縮めて言ったのです。『情願』とは、我々人間の心の奥深くに隠されている『真実なるものに逢いたい』と言う『深い心の底の願い』であります。
 この情願は、人間である限り誰の心にも必ず宿っている心なのです。『私にはそんなものはありません』と言っても、必ず誰も持っている心なのです。しかし、殆どの人が、それを自覚していないのです。
 所が、如来は智慧によって其れを見抜いて居られるのです。それを『安楽の慈尊、情を知るが故に』と言ったのです。阿弥陀仏は、この情願に応えて姿を現すのです。情願に目覚めないもの前に現れることは出来ません。だから、『衆生の心中に入りたもう』と言い、『是心作佛、是心是佛』とまで言ったのです。この情願を離れては、阿弥陀仏と言うも、只、観念の遊びに過ぎない、無意義なものに成るのです。
 善導は、この『応声即現』と『応心即現』という二つの言葉で『二尊教』の意義を明確に示しました。此によって宗教の健康性を確保したのです。
 即ち、化主である釈迦は決して『我に従え』と言わないのです。『阿弥陀仏に従え』と言うのです。『友よ、行け、我も共に行かん』と言うのです。此が宗教の健康性を保つ法則であります。
 次に、宗教の健康性を保つ爲のもう一つの法則は、偶像崇拝の排除と観念化の超克であります。
 偶像崇拝は、宗教に執拗に付きまとう問題であります。佛教の仏像を偶像崇拝だと言って非難する人が居ますが、仏像を拝むことが直ちに偶像崇拝だとは言えません。佛教は仏像を拝むことによって逆に偶像崇拝を超克する道を開いたのです。
 偶像崇拝は、崇拝すべき対象を、前に掲げてその対象に向かって、人間の要求を祈ることです。その為に対象と自分と二者対立の形となり、自分の求める要求が主目的となります。世間の殆どの宗教はこの形であります。此は、健康な宗教では有りませんから、迷信と言わねばなりません。
 キリスト教やイスラム教は、厳しく偶像崇拝を禁じましたが、果たして本当に偶像崇拝を克服しているのでしょうか。
 そもそも、偶像崇拝という言葉は、遠くモーセの『十誡』に始まっているのです。その時、果たして偶像崇拝の意味が何処まで深められていたのでしょうか。後の時代になって、イスラム教が、佛像破壊を繰り返す過ちを引き起こす原因が既にこの言葉にあったことは否めません。
 今更、この言葉を改める事は難しいのですが、言葉の本当の意味を理解して欲しいものです。
 『偶像』とは、人間の思いで、勝手に神を作り上げて、その神に、人間の思いから礼拝をする事です。その礼拝は、人間の思いから出た要求なのです。問題は、人間の思いから出た要求には、必ず不純なものを孕んでいると言う事です。モーセもそれを言いたかったのでしょう。
 所が、それが誤解されて、ただ仏像破壊に繋がったのは、残念な結果でありました。しかし、其処には微妙な問題が隠れて居るようです。
 偶像崇拝には、根深い人間中心の思いが隠されて居て、巧みに神を利用し様とする人間の欲望が存在して居ます。この人間の欲望を徹底して見破って照らし出す事が、、宗教の健康性を保つ条件であります。
 もう一つ宗教の健康性を保つ条件は、観念化の克服です。私達は分別によって、全ゆるものを解釈して生きています。此は善い事、此は悪い事、あれは美、あれは醜、あれは好き、あれは嫌いと言う風に、善悪美醜を分けて身を処して居るのです。世間では此によって身の危険を避け、快適な環境を選んで今日まで生きられたのです。ですから、分別は生きるために大切な機能です。所が、この分別は、時に大切なものを見誤らせませる働きをするのです。
 佛教の言葉では、これを『所知障』と言います。所知を障えてしまうと言うのです。所知とは、人間が本当に人間らしく生きるために、知らねばならない必要なものと言う事で、それを邪魔して知らせない働きを『所知障』というのです。佛教の歴史を調べてみると、小乗佛教の時代には『煩悩障』だけが考えられていて、『所知障』は取り上げられていません。大乗佛教になって初めて『所知障』が問題になります。
 大乗では、煩悩障よりは所知障の方が重要な問題と見なされます。煩悩の方は佛の智慧によって処置出来ますが、所知障は、その佛の智慧を得させない働きを持っているのですから始末が悪いのです。
 所知障は、何も解らないのではなく、何でも解っていると思って自負して居るのです。何も解らないと言う人間は救いようがありますが、何も彼も解っていると言う人間は、救いようがありません。所謂、答えを知っている人間です。
 問いを持つ人間は救いようがありますが、答えを持っている人間は救いようが無いのです。

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