釈迦弥陀は慈悲の父母(10)

 釈迦弥陀は慈悲の父母 
            二尊教について 10  
 従来、二尊教の重要性について述べて来ましたが、二尊教は、一神教と多神教の両極端の宗教構造の中で、どうゆう位置が与えられるのかと言う事を考えてみたいと思います。
 簡単に結論から申しますと。一神教と多神教の両者の善い点を合わせたものと言うことが出来ます。
 一神教には、唯一神と主張するあまり、真理は唯一つなりと言う信念が、わが理解した神のみを唯一のものと言う固執による争いが絶えないと云う問題がありました。一方、多神教には、神々がそれぞれ、ばらばらで統制が取れないと云う欠点があります。
 二尊教は、神々の頂点としての阿弥陀仏が存在して、揺るぎない権威を誇って居ますが、阿弥陀仏は決して神々を支配しないのです。『我が善き親友なり』として遇するのです。是を『眷属功徳』と言うのです。弥陀の浄土は、『眷属功徳成就』の世界です。
 多神教の世界観は、人間も大自然の一員であり、謙虚に大自然と共存する美点を持っていて、大自然を利用するだけのものとする、現代理性中心の生き方に対して、厳しく非を称えています。現代人は、自然を物質とだけ見て、大自然に包まれて、大自然の一員としての人間の姿を見失い、傲慢に振る舞う事ばかりにあくせくして来ました。その結果、自然からしっぺ返しを受けて慌てて居るこの頃です。
 自然に悪意があってしっぺ返しをしているのではありません。自然の法則に背く事によって、人間が勝手に苦しんでいるのです。
 大自然の全てのものに神が宿っていると云う考えは、中々味わいのある考えであります。現代人の理性中心の思考方法は、大いに見直されなければなりません。此処に多神教の優れた思考がありました。
 阿弥陀如来が、一切の存在を眷属として尊敬する態度は、正しく、多神教の思想であります、また、十方の諸仏が、等しく阿弥陀仏を讃嘆する事は、一神教と同じ発想であります。
 この様に、二尊教には、一神教と多神教の優れた点を受け継いでいる節が見られます。日本の神道も、阿弥陀信仰から派生しているのかも知れません。アジアの南海上を伝来した『旧モンゴロイド』の神話に、其のルーツが有るようです。
 アフリカ東海岸から、ユーラシア大陸に進出した人類は、西に進んではヨーロッパ゚に向かい、東に進んだ連中がモンゴリアンに成りました。そのモンゴリアンがまたインドで、ヒマラヤ山脈を南と北に分かれて東に進むのです。阿弥陀如来の神話は、この南海上のルートを通った『旧モンゴロイド』が日本へ、更にアメリカ大陸にまで伝えた神話による伝承であります。インドから北側を通って東進したモンゴリアンは『新モンゴロイド』と名付けられていますが、此のモンゴリアンも、阿弥陀信仰を伝えました。日本には、その伝承が『仏教伝来』として伝えられたのです。所が、その佛教には、一神教の影響が強く、阿弥陀仏の信仰は仏教の主題とはならず、やがて、迷信の中に埋没して行きました。それは、異民族が競り合って覇権を競う、激しい競争社会では、一神教でなくては生き残れないと言う事情が有ったのでありましょう。
 それに対して、日本は。気候も穏やかであり、異民族とのせめぎ合いもない、平和な生き方が許された時代が縄文時代ではなかったかと思われます。其の為に、平和的な阿弥陀仏信仰が、熟して行ったものと思われます。
 日本には、南海上のルートから、旧モンゴリアンの文化が、仏教伝来より一万年も前から伝えられて、縄文文化として熟成されていました。其の為に、日本独自の阿弥陀仏信仰を育むことが出来たのであろうと考えられます。
 親鸞聖人は、越後流罪と言う経験を通して、縄文文化の余韻を色濃く残している越後の土徳に接して、縄文文化に影響されて行ったものと想像されます。また、親鸞の母は、源氏の生まれであると伝えられています。源氏は東国に本拠を持つ人々で、縄文人の血を多く引く人々であります。其の為に、親鸞による浄土真宗には、法然と異なる独自性が認められるのです。
 法然は、善導を忠実に継承しました。それは『新モンゴリアン』の伝承であります。しかし、それを受け継いだ親鸞には、法然に無いものが窺えるのです。是は、日本に仏教伝来以前から伝えられていた、縄文の信仰があったからではないかと考えられるのです。
 今日では、縄文時代の宗教は、全く影を潜めて覗う由も無いのですが、神話などの研究が進んで、神道の元の姿が復活すれば、あるいは可能になるかもしれません。それは今後の問題としておきます。
 この親鸞の阿弥陀仏信仰、浄土真宗は、今後、次第に浸透して、人類の心ある人々によって末永く伝えられていくものと思います。しかし、今の所阿弥陀仏の信仰は、日本語圏内でしか語られていません、日本語を超えて世界中に広まるには、言葉の壁があります。其の為には、もっと長い時間が懸ります。この辺の問題を解決する必要があります。ただ最近では翻訳技術が進みましたから、コンピューターによって、もっと簡単に翻訳が出来るようになれば、言語の問題は解決すると思います。是非そんな時代が来て、阿弥陀如来の信仰が、多くの人に理解してもらえるように成ろことを期待したいと思います。
 所で、二尊教と言う宗教の構造は、元々、唐の善導に始まる思想ですので、当時は中国でも大切にされていた筈であります。
  世々に善導いでたまい
   法照・小康と示しつつ・・・ (善導和讃)
と親鸞も詠っていますが、その後、百年余りで善導の教えは、失われて行ったようです。是を復活したのは、偏に、日本の法然上人でありました。その結果、今日では浄土教は、世界の中で日本以外には見られないのであります。
 本来、仏教はインドに発生し、中国を経由して日本に伝達されたものでありますから、かっては、インドでも、中国でも、浄土教は栄えていたのです。
 しかし、中国は現在共産主義の国に成りまして、宗教否定の思想が国是となりました為に、宗教は全く顧みられなくなっております。しかし、民間にはまだ余韻が残って居る筈ですので、復活する可能性はあるのです。何とか仏教復活の時代を迎えたえたいものです。 
 日本近代化の過程で、日中戦争を長く続けた為に、日中文化交流が困難になって居る事は誠に残念な事であります。何とか歴史を昔に取り戻して文化交流が出来るようになりたいものです。
 我々日本人が、中国から受けた文化の恩恵は、計り知れぬものがあります。今こそ、その恩恵を感謝して、日中交流をしなければならない時であります。それが仏教精神でもあります。中国にも心ある人は沢山いらっしゃるわけですから、もっと胸襟を開いて話し合いをすべきであります。それが仏教の復興にも繋がる訳であります。憎しみを超えて話し合える間柄を、仏教徒が始めるべきであります。
 先般、曇鸞大師の御遠忌が営なわれました時に、東本願寺から代表で行った方が、『同一念仏無別同故、四海之内皆兄弟也』とい追う言葉を引用して、『私達は、此の言葉を曇鸞大師から頂いて居る』とお話してきたと云って居ました。それが中国人にどう響いたかは判りませんが、今後も根気よくその精神を語り続けるべきであります。
 今日では、中国よりアメリカの方が文化交流が容易であります。コンピユーターの発達によって、外国語との変換が簡単になりましたので、欧米との交流が出来るようになれば、日本語と言う壁を越えて、浄土真宗が広まって行く事も可能になる事でしょう。そんな時代が来ることを念じながら、この世を去っていく次第であります。
 どうか世界中の人々が、念仏して平和に暮らして行ける時代が来ることを切念してこの稿を終わります。
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