碇草~ikarisou~ 1~8

    いかり草 1
   日本の深層 (一)
 梅原 猛に、『日本の深層』という著作があります。(小学館、梅原猛著作集、6)
 彼は、母が仙台の生まれであり、母の死によって、父の生家である愛知県知多郡の田舎で育てられたのであるが、自分の血の中には、東北の血が混ざっていると述懐しています。此の『日本の深層』は、『梅原猛が、日本の本土に残る縄文文化の跡を訪ねた紀行文』であります。
 芭蕉の『奥の細道』は、江戸時代の日本人の常識である東北文化に対する偏見、『東北は文化の遅れた辺境の地』というイメージによって『奥の細道』と名付けられましたが、この『奥の細道』は、『江戸時代の小氷河期の過酷な風土を生き抜いた東北の人々に永遠の命が与えられ、日本人の全てが供有する心の原点となった。(安田貴憲、解説)』と解説されて居る様に、日本人の心に深い印象を残した書であります。
 又、『遠野物語』について、『柳田国男の『遠野物語』によって、明治末期の東北の片田舎の伝統的生活と民話に永遠の命が与えられた。』といわれています。(同上、解説)
『しかし、梅原先生のこの『日本の深層』によって、二十世紀後半の東北の人々と風土そして縄文文化の伝統に永遠の命が与えられたのである。(同上、解説)』と解説され、東北に対する偏見が拭いさられる切っ掛けを生み出した書であると、評せられています。 この三つの名著は、何れも、日本民族の心の深層に懐かれている、深層意識を揺り動かすものでありまして、私達の長く忘れていた故郷を思い出させる機縁になる著作でありましょう。
 蓋し、大和朝廷によって東北に追いやられ、文化に見放される結果になったのは、基づくところは、弥生人の縄文人蔑視の悪癖の結果であると言わねばならないのであります。
 今、改めて縄文時代を見直そうという時代を迎えて、彼(梅原猛)の此の書は、新しい脚光を浴びることになったのであります。
 彼は、度々、自分の推理は正しいものであると主張していますが、確かに、今日この書を一読すべき時が訪れていると思われます。 
 この書で梅原猛は、『縄魂弥才』という言葉を作っています。これは、佐久間象山の『和魂洋才』という言葉を捩って作られたものでありますが、『縄文の精神文化』の基礎の上に、大陸伝来の『弥生の才能』を積み上げて『日本人の原型』が作り上げられた姿を如実に物語って居て絶妙であります。
 紀元前三世紀頃に大陸から日本にやって来た、弥生人に依って齎された、文字文化と稲作技術、並びに青銅と鉄の鋳造技術は素晴らしいものでありましたが、その技術を巧みに取り入れて、『日本人の基礎』を作り上げた『縄文人の根性』には、したたかなものがあったと言わざるを得ません。其のエネルギーは何処から来たのか、其処に、縄文時代という文化的基礎が存在して居たのであると思われます。
 何しろ、一万年以上と言われる縄文時代の歴史は、唯、無内容に過ごされていたのでは無いのでありますが。私達はすっかりその事実を忘れていたのであります。それは、日本に後から進出してきた弥生人の策略に、まんまと、嵌まって仕舞ったのであります。
 弥生人の故郷は、恐らく、中国大陸の『殷の時代の後継者』では無いかと思われます。秦の統一によって大陸から追い出された、春秋戦国時代の国の指導者達が、朝鮮半島を経て、日本にまで亡命して来たのでは無いかと思われます。従って、優れた統治能力と技能を持っていたものと思われるのです。
 その為に、文字を持たない縄文人には、大陸伝来の技術の威力には、とても歯が立たないのです。その結果、縄文人の其れまでの歴史は、抹殺され、新しい歴史に書き換えられました。
 然し、精神は書き変えられませんから。深層意識に残された縄文魂は、その後の日本人に受け継がれて今日に到っているのです。従って、『縄魂弥才』は今も生きているのです。私は、この縄文魂を掘り起こして、聖徳太子の名と共に、今の日本人に受け継がれて行くことを願う者です。
 偖、その縄文魂ですが、其れは、十七条憲法の第一條『和を以て貴となす』という言葉と、第二條『篤く三宝を敬え』の二つの言葉に尽きると思います。
 聖徳太子の名を、日本の歴史に登場させたのは、日本書紀ですが、日本書紀の作者は、架空の人物である聖徳太子を登場させて、密かに、縄文の精神を日本の歴史に忍び込ませたのです。天皇家の一員であると言う触れ込みで、誰からも非難されることの無い人物として聖徳太子は、日本歴史に堂々と登場しました。然も、悲劇の一族という日本人好みの設定は見事に功を奏して、日本人にうってつけの人物になりました。
 親鸞は、薄々このからくりに気付いて居たようですが、太子の名で日本仏教が大きく力を発揮することが出来た功績を高く評価して、『和国の教主聖徳王』と崇めたのです。
 親鸞に依って,見出された、浄土真宗と言う精神は、聖徳太子の名と共に、永く日本民族の精神生活を支え、日本民族の心に定着する事が出来ました。
 従って、日本民族の深層には、浄土真宗の精神が生きて居るのであります。此れは、旧モンゴリアンと言われる民族に受け継がれてきた伝統であろうと思われます。その証拠としては、アメリカ・インディアンに受け継がれて居る神話に大無量寿経の神話に共通するものがあるからです。アメリカ・インディアンは旧モンゴリアンの末裔であります。
 今日、日本民族の深層と言われているものは、梅原猛氏は其処までは言わなかったのですが、親鸞の浄土真宗の精神が蓄えられていると言わねばなりません。
 親鸞に依って、聖徳太子の名と共に、浄土真宗として提唱された、この縄文時代以来の精神は、大切に日本民族の心の中に受け継がれて行くべきものと思います。
 梅原猛氏によって提唱された、『日本の深層』には、以上のような問題があったのです。この事実を踏まえて、我々は、此れからの日本の行くべき道を見つめて行かなければならいと思います。
 私が、度々申しあげています様に、日本人の使命として、浄土真宗の精神によって世界の平和を訴え続けて行かねばなりません。その為に、この梅原猛氏の『日本の深層』は、大きな力を私達に与えて呉れました。謹んで、御礼申し上げます。
 日本書記によって、架空の人物として創り出された聖徳太子の名によって、旧モンゴリアンの思想が、巧みに新モンゴリアンの歴史に忍び込んで、生き永らえたのです。此処に日本書記作者のしたたかさがあると言えるのですが、其れを見抜いて、『浄土真宗』として、立派に、歴史の上に浮かび上がらせた親鸞にも、類い稀な、したたかさが感じられるのであります。
 こうして、歴史から消え去ったかに見えた 縄文の精神が、日本人の心の中に今も堂々と生き残って居るのです。此れが、『日本の深層』の事実であります。

    碇草 2 日本の深層 (二)
 日本人は、旧モンゴリアンと新モンゴリアンと言う二つの種族が混合して今日に到っています。旧モンゴリアンの血を多く受け継いでいるのは、東北の人々で、東北美人がその典型でしょう。西日本は、新モンゴロイド型の血が多く受け継がれて居るように見えます。
 旧モンゴリアンは、氷河期に暖かい地方に住んでいましたので、寒さの影響が少なく、
顔の起伏も深く、髭も濃いのです。此れが一見すると、現代の日本人と異なるところから、アイヌは日本人とは異なる民族であると主張されてきた理由でありました。
此処には、新モンゴリアンこそ日本人の原型であるとの偏見が支配していたのです。此れは、日本の歴史と同様に、弥生人による戦略に嵌まってしまった結果であります。
 アイヌ人こそ、日本民族の原型であります。アイヌ人は、旧モンゴリアンの形質を保ち続けて来た人々なのです。従って、縄文の文化を知ろうとすれば、アイヌ人の文化を研究する必要があるのです。
 例えば、古代日本語とアイヌ語とは、『宗教的』な『霊』に関係する言葉が、同一の語源から出て居ると言われて居ます。この旧モゴロイドの宗教的意識が、日本人の深層意識となって伝承されて、法然・親鸞によって、初めて意識の表面に顕れたのであろうと思われます。其れが、『浄土真宗』なのです。
 そもそも、モンゴリアンの故郷は、今は太平洋の海底に沈んでいる、スンダーランドと呼ばれて居る場所では無いかと考えられるのです。其処には、人類史上初めての土器の遺跡が眠って居るのでは無いかと思われます。
 永い氷河期が終わり、氷河が溶けて海水が増加して来て、今日では、二三百メートルの海底に沈んでしまった、スンダーランドと名ずけられた海底の何処かに、モンゴリアンの旧遺跡があるのでは無いかと思われます。
 これは、今日では想像以上の領域を出ませんから、其れまでにして置きますが、兎に角、旧モンゴリアンの文化と言われるものがあったものに相異無いと考えられるのであります。その北辺に位置していた日本の地形を考えると、縄文土器の起源も、その辺に在るかと想像されるのです。
 この、旧モンゴリアンの、思想が、縄文文化の源泉になっていたのであろうと思われます。其処には、先祖崇拝という思想が根強く生きて居たと思われます。
 今日、日本の仏教が、葬式仏教だと蔑まれていますが、其れは、理性中心の思想からの批判で在りまして、日本人には、日本独自の思想が在るのです。本来インドでは無かった、死者儀礼が色濃く日本仏教には根着いて居るのです。
 この度の戦争でも、日本人は異常なほど、遺骨収集に熱意を示しました。此れは戦争で、非業の死を迎えた同胞に対する、篤い想いを表現して居るのです。
其処には、生前の善悪の行動は、宿業に支配されたもので、死を通して人間の本来の姿に帰るという思想です。戦争は、人間の思惑による理不尽な行為です。その宿業によって、戦いという現実に振り回された人間ですが、死を通して、本来の平和の世界に帰るのです。
 其処には、敵味方としての愛憎も憎しみも在りません。ただ、宿業の儘に押し流された人間の哀れさが在るのみであります。この人間の哀れさに目覚めるとき、人間の哀れさに同感するのです。其処に、敵か味方かを離れた哀れみが生まれます。
 日露戦争の時、敵味方を超えて、島根県の沿岸では、流れ着いた死者を葬った、と言うことを聞いて居ります。此れが、縄文人の思想でしょう。
其処には、死霊を恐れるという問題もありましたでしょう。流れ着いた死体を、その儘にするわけにはいきませんから、仕方なく葬ったのだという意味もあるのでしょうが、それは、現代人の理性的解釈でしよう。
 明治の人には、もっと素朴な心が在ったのではないかと思われます。敵も味方も、死
んで仕舞えば、愛憎を超えた同じ人間であります。
 明治時代に靖国神社が創建されましたが、戦争で戦死した人達を神として祀るという事です。其処には、明治の近代化的思想が反映していました。神仏分離令と言うものが発布されて、国家神道なるものが生み出され、国粋思想から戦争が美化されたのです。その為、戦後になって、首相が参拝する事に、外国から異議が出たわけです。
所が、日本人には、別の意味があるのでしょう。其れをもっとはっきり説明し得なかったところに、問題があるわけです。それは、死と言うものに対する、日本人独特の思想なのです。
 今日、日本人には、西洋の『近代的合理主義』なるものに毒された爲に、このような『縄文人の精神』は失われて仕舞いました。しかし、『近代的合理主義』なるものは、甚だ怪しいものでありまして、今日、大いに反省すべき代物であります。その反省は、別の機会に譲りますが、反省すべき代物であることを申しあげておきます。
 兎に角、日本人の心の底に、深層意識として残って居る、縄文時代以来の、日本固有の精神を取り出して、明るみに出してみる必要ががあるはずです。そうして、この心を大切に受け継いで行くべきものと思うのです。 
 敵か味方か、正か偽か、真実か然らずんば邪であると言う、激しい『二極対立の世界観』で無く、真と仮と偽と言う、緩るやかな、『三極世界観』に立つ所に、浄土真宗の精神があります。これは、縄文時代以来の日本人の深層意識に培われていた、日本人固有の『精神的世界観』であろうと思われるのであります。
この度の戦争の時、私は、マニラに居りました。アメリカの戦闘機乗りの飛行士が、一人撃ちおとされて居るというので皆見に行きました。私は行きませんでしたが、帰ってきて、敵の兵隊であると言って、死体を蹴飛ばして居たと言うのです。そうして、
『あんなことを為なくてもよいのに』と言っていました。
 『だから、俺は行かなかったのだ。敵地に墜とされたら、俺達も、同じ運命になるのだ。』と言った覚えがあります。
 戦争ですから、こちらが打たなければやられます。そこで、必死になって機関銃を撃ち続けるわけですが、後になって考えると、何の憎しみも無く『只、殺し合っているのです』、国と国との戦争です。個人と個人の間には何の憎しみも在りません。其れが、戦争に参加した者の正直な感想でした。
 こんな事は、西洋人には通用しない考えでしょうか。兎に角、日本人には、その様な心がある事は事実でしょう。『鬼畜・米英』と言う言葉が盛んに新聞などに見受けられましたが、個人的には、余りピンと来ない言葉でありました。
  第二次世界戦争の敗戦の後、日本人は、容易にアメリカの民主主義を受け入れました。これは、西洋人には理解されない現象であったかも知れません。此処にも、縄文人の精神が無意識のうちに動いて居たのかも知れません。
 戦争による憎しみは、この世の妄念であります。念仏によって浄土に流すべき、この世の妄念妄想でありました。浄土の心に帰るとき、この世の妄念妄想は、浄化されるべきものであります。日本人は、無意識の内に、浄土真宗の心を持っていたのではないでしょうか。
 明治維新によって、神仏分離令が施行せられ、廃仏棄釈令まで発行され、仏教など古くさいものは、日本人には、要らないものと言う教育が為されました。此れは日本の近代化の爲には、やむを得ぬ選択で有ったかも知れませんが、その結果は、日本人に取っては悲惨なものになりました。即ち、『覇権国家』という不幸な選択に追いこまれてしまいました。その上、『宗教無視』という荒らあらしい、精神生活に落ち込みました。この傾向は、今日も失われては居ません。
 親鸞聖人に依って開かれた、浄土真宗の思想は、遠く縄文時代の精神を、今日にまで伝えている、日本独自の精神でありましょう。この精神を日本人の宝として、大切に継承して行きたいものです。
 日本人の深層意識の中に伝えられて居る、この様な、縄文時代以来の精神を、更に、世界の人々にも語り得るものとして、大切に維持して行きたいと思います。  

   碇草 3 日本の深層 (三)
『真実』は常に、『仮』を通して表現せられるものであると言うのが、日本人の考えでありまして、決して、絶対的なものでは無いと言うのです。思想が絶対化されれば、勢い其処には、絶対化と絶対化の争いが起こります。
真実は、方便を通して表現されるものです。『嘘も方便』という言葉があるから、『方便』は『嘘』の事だと言って、真宗の『方便法身の尊像』と言う本尊を非難されたことがありました。『方便』という言葉の意味を知らない爲の非難で在りました。
 今日では、そんな非難は消えてしまいましたが、まだ、方便の本当の意味は理解されて居ない様です。実に、『方便』こそ『真実』を表す唯一の方法で有ります。
  日本人は、曖昧であると西洋からは批判されるのですが、其処には、日本人特有の思想があるのです。人間の思想は絶対化為べきものでは無いのです。
 真と偽が激しく対立する世界は。正邪・白黒がはっきりして、解りやすいのですが、其処には必ず、真実同志の争いがあります。
 真と仮と偽と言う三極的世界観は曖昧であると言われます。確かに、そう言う事もありますが、絶対化しないで、争いを避けると言う意味もあるわけです。これは、冷静に判断すべき問題でありましょう 
日本人の曖昧さは、非常に大切な面を持っていることに誇りを持つべきでは無いかと思われます。
 現代日本人の意識の深層にも、縄文以来の精神が生きていると言うことを申しました。
其れが、親鸞に依って提唱された、『浄土真宗』の精神であります。従って、我々は、この浄土真宗を、自信を持って世界に弘め、戦争を止めて、平和を取り戻すべき時であります。
 日本人の深層意識に培われて居る『縄文の精神』は、各々の主張を絶対化するので無く、飽くまでも相対的な意見として語り合っていく精神であります。従って、其処には、争いは無く、冷静に互いの主張を聞き取っていく、話し合いの精神が生きて居るのです。
 今日、日本人も、西洋の『近代的精神文化』に毒されて、この様な縄文の精神が、忘れられて来ているのですが、もう一度、其れを取り戻す努力をしなければならないと思います。
 確かに、西洋文化は、自我の主張には好都合でありますが、東洋の仏教には、『自我』を否定するという、『無我』の教えと言うものが有るのです。この仏教の『無我』の教えに依らねば、世界の平和は実現されないことを、世界の人々に訴え続けて行かねば成らないのです。其処に、日本人の使命があるのです。
 我々日本民族は、この度の戦争に敗れたお陰で、民族の使命に気づかされたのです。今こそ、心して、民族の使命に帰らねば成りません。またぞろ、覇権国家の仲間に入って、覇権を争う事に終始してはならないのです。
 此れは、政治家が気付かなければ、国民の一人一人が、この事の重大性を心得て、政治家を糾して行かねば成りません。今こそ、浄土真宗が、活躍すべき時であります。親鸞聖人に依って、見出された、仏教の『無我の精神』が、国民の指標となり、国家を救うものとならねばならないと思われます。
親鸞に依って見出された『浄土真宗』は、親鸞個人の自覚に基づくものと許り思って居ましたが、そうではありません。此れは『人類全体に通用すべき思想』でありました。この『人類全体に通用すべき思想』即ち、『無我の思想』を、世界に弘めなければならないのです。その貴重な使命が日本人に託されて有ったのです。
『浄土真宗』の『念仏』の精神は、世界の人々に依って承認せられ、弘められて、世界人類の平和に貢献すべき精神であります。
 人類の歴史が、このまま、一神教のみによって支えられて行けば、戦争を止める事が出来ません。真理の主張同志が集まって、互いに自己の主張を繰り返して、戦争になり、人類は軈て滅亡するしか有りません。
 浄土真宗は二尊教で有ります。この二尊教の精神は、『真』と『仮』と『偽』と、三つの極に分かれる世界観であります。三つの世界観というのは、この世のものは、絶対化すべきものは無いと言う世界観であります。
 『絶対化すべきものはない』と言う事は、この世のものは全て『相対有限のもの』で、真理を求める途上、真理に到る過程にあるのです。人間には真理を判定する力は無いのです。真理は、真理によってのみ判定されるものです。
 その原理を、親鸞は、『煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、みなもって、そらごと、たわごと、まことある事なきに、唯、念仏のみぞ、まことにておわします。』と、述懐されました。
 この世に住んでいるものには、『我は、絶対に正義である』と宣言することは許されないのです。この世のものは、全て、相対有限の存在であるのです。其処に、互いに、相対有限の存在を認めて、相手の言い分を聞き抜くゆとりが生まれるのです。
 その様な方式は、大昔には守られていたようです。首長同志が集まって話合って、紛争を解決していたと言います。この、首長の合議制が壊れて行った結果、覇権国家の戦争が生まれたのであります。
 浄土真宗の精神は、『この世の者は、全て、相対有限の存在である』と言う世界観に立って、物事を考えて行こうとします。其処に、必ず、世界の平和を齎すものとしての働きが有る筈です。
暁烏敏師が、戦前に提唱した、『日本人には、世界に誇るべきものがある。』と言う主張には、確かに、明治以来の『日本人は戦争に勝て来た』と言う、誇りと独りよがりが滲んでいました。
 しかし、戦争に敗れて七十数年経った、今日の日本人には其れは有りません。今こそ、もう一度、あの提唱を為すべき時で有ります。其れは、親鸞聖人の浄土真宗の教えからの提言ですが、実は、縄文以来の、旧モンゴリアンの思想からの提言でありました。
 いま、この大昔の、縄文時代の精神に目覚めて、暁烏師の提言に、耳を傾ける必要があると思われるのであります。
しかし、この様な思想は、現代では通用しない思想かも知れません。人類はこの儘、核戦争の結果、滅んでいくべき運命の下に、今日を生きて居るのかも知れません。
 その様な運命であれば致し方ないのです。其れは誰にも、如何することも出来ない問題であります。
 『日本の深層』と題された、梅原猛氏の書物を読んで、この様な感想を懐いた次第であります。

碇草 4 仏法は無我にて候 (一)
 人類は核戦争の結果、滅亡するであろうと申しました。早晩、人類は滅亡するでしょう。其れは、人口が増え続けているからです。地球上では、過去にも、度々生物が滅亡してきました。人類にも例外は認められません。其れは生き物の運命かも知れません。その時は、運命に任せて死んで行くより道は有りません。
 其れで、生きるという事は、虚しいものですね。軈て死すべきものとして、今を生きて居るのです。然し、仏法を聞くという事には、どんな意味があるのでしょうか。軈て、必ず死すべきものとして今を生きて居るのですが、今、生きて居ることに意味があるのです。
 『私は今確かに生きて居る。何をすれば良いのか。』其れが、今、生きている『私』の問題であります。何億年か先の『人類滅亡』を問題にするのではありません。
 今、生きて居ることは、虚しいことでありますが、その虚しさを抱えて、『今』を、生きるのです。何億年か先に人類は必ず滅んでいくでしょう。然し、其れより前に、私自身が、必ず、死んでいくのです。その必ず死んでいく『今』を生きて居るのです。
『そんな虚しい生き方に何の意味があるのか。』と言いたいのですが、其れを問うしか今の私には、道は有りません。そこで、この『問い』を問い続けていくのです。
 仏法には無我にて候う上は・・・。 (一)
『仏法には無我にて候う上は、人に負けて信をとるべきなり、理を見て情を折るこそ、仏の御慈悲よ、と仰せられ候。』 (30の23、御一代記聞書)
 『往生、三度になりぬるに、この度、殊に遂げやすし。』と言う和讃があります。此れは、法然上人の述懐であるとされて居ますが、法然上人だけで無く、多くの過去の聖者達が皆、同じく問い続けた課題で有りました。
 此処に、仏道の共通の課題が有るのです。仏道を成就するためには、三つの関門を潜らねばならないと言いました。
 一つは、外道の教えを離れて、仏道を学ぶという事です。曇鸞大師が『仙経ながく焼き捨てて・・・』と和讃に言われて居るように、此れは、曇鸞大師のみの問題ではなく、仏道を求めた人々は、必ず、この第一の関門を潜ったのです。其処に開かれている世界が、聖道門の教えであります。此れは、仏道を求める者が、必ず通過しなければならない要門であります。 
 所で、第一の関門を潜った者は、先ず、聖道門の教えを学ぶのですが、その第一の関門を潜って仏道(聖道門)を歩んで行くものは、軈て、必ず、第二の関門に打ち当たるのです。勿論この第二の関門に気付かない者も居るのですが、忠実に仏道を歩む者は、其れに気付く筈です。
 第二の関門とは、『聖道門を投げ捨てて、選んで浄土門に帰すべし』と言う教えであります。此れは、法然上人の『選択本願念仏集』の言葉でありますが、浄土の祖師達は、竜樹以来、皆等しく、此の関門を発見して、其れを克服した人々で有りました。
 その証拠は、既に、『大無量寿経』に説かれていたのです。大無量寿経は、お釈迦様よりももっと以前から神話の形で伝えられていたものでしょう。
 聖道門の教えは、仏道とは如何なる教えかと言う事を明らかにするものですから
仏道を求める者は必ず学ぶべき教えであります。然し、此れは人間の発想に基づく理想追求の歩みであります。理想追求は、人間の求めるべき課題でありますが、愚悪の凡夫には実行不可能な道でありました。此れは、浄土門の人ばかりでなく、聖道門を学んでいる人々にも薄々気づかれていたのです。
 然し、誰もその事をはっきり明言する事は出来なかったのです。何故かと言いますと、実は、仏道成就の爲には、もう一つ、第三の関門がありまして、此れを超える方法が見付からない限り、聖道門に見切りを付けることが出来ないのです。
 聖道門は凡夫には不可能な道であるとは、とても言えないのです。矢張り、儚い望みを懸け続けて、夢を懐いて生きる以外に生きる道が無かったのです。
 此の、第三の関門を超える道が見付からない限り、仏道は成就しないのですが。第三の関門とは、『佛智疑惑の罪』で有ります。此れをはっきり自覚して、言葉で言いあらわしたのは親鸞でありました。しかし、浄土の祖師達は、既に其れをはっきり自覚していたのです。其れが、『大無量寿経』の最後に説かれる『胎生と化生の者』と言う教説でした。
 所が、此処に、登場してくるのが『無我』の教えであります、此れも既に善く知られて居る教えでありまして、所謂、仏道とは『無我を説く教えである』と言う事です。 『無我』は、仏教独自の教えでありまして。此の『無我』を証明するために、『唯識』という学門が生まれたのでありますから、『大乗仏教』の基本を成すものでありました。
 『仏法は無我にて候上は、人に負けて信を取るべきなり』と蓮如上人は、易しい言葉で言われましたが、此の聞き慣れた易しい言葉には、実は、重大な問題が孕まれてあったのです。世間には、『負けて勝つ』と言う言葉まではありますが、仏法は、『負けて、負けよ』と言う教えです。『負けて、負けよ』と言うような教えは、到底人間の発想では有りません。そんな生き方は、人間には不可能なのです。所が、仏法は、その不可能を要求するのです。其処に、仏教の独自の思想が在りました。
 先にに言いました第三の関門は、仏道成就の爲の最後の問題でありますが、『無我』の教えは、仏教最初の教えであります。其処に、最初と最後が重なっているのです。此れは随分奇妙な事ですが、仏教は最初から、仏道成就の方法を熟知していたのです。
 従って、阿弥陀仏の本願を説かなければ、仏道は完結しないのです。親鸞にいたって初めて、弥陀の本願が見出された様に思いますが、そうではありません。仏道は、初めから、弥陀の本願が説かれなければ完結しなかったのです。
 如来興世の本意は、唯、弥陀の本願を説く爲でありました。『如来所以興出世、唯説弥陀本願海』の正信偈の文の通りであります。
 話が少し先走り過ぎましたので、元の、『第三の関門』の問題に戻ります。
第三の関門というのは、仏智疑惑の事であると申しました。即ち、如来ましますことを忘れて、人間の思いを中心にして生きるのです。其れを自力と言い、自己肯定と言い。我執と言います。此の仏智疑惑の問題こそ、仏道成就の爲の最後の難関であります。
 此の我執は、人間に最後まで食いついて離れない煩悩であります。此の難関を如何にして超えていくかが、仏道最後の課題でありました。

 碇草 5 『仏法には、無我にて候上は』 (二)
 仏道成就の爲の第三の関門が、『我執』の克服であります。然し、此の『我執』は、人間に最後まで食いついて離れない煩悩であると申しました。其れ故に、此れは仏道最後の難関であります。
 私は求道の最初に、『頭を下げよ』と、厳しく叱られましたが、其の時は何故頭を下げねばならないのか、さっぱり解からず、形だけ頭を下げてその場は通り過ぎました。其の後は戦争に行きましたので、仏法には逢えないままでした。敗戦になって、不思議に命を頂いて帰りましたので、再び仏法の御縁を頂いたのでした。
 東本願寺の伝道研習会が、十日間の日程で開かれてありまして、其れに参加すると、徹底して『自己を掘り下げよ』と迫られました。此れも驚きでしたが、何度も責められて居る内に、漸く其の意味が判るようになりました。あの『頭を下げよ』とのみ教えもこの事であったのです。
 東本願寺の講習会は、凄まじいものでした。徹底して叩きあげるもので、『伝導研修会と懸けて、何と解く、寺の釣り鐘と解く、答は、吊し上げて、叩きあげる』と言われたものであります。
 何故あんなことを為るのかと、疑問に思うくらいで有りましたが、あれくらい荒療治をしなければ根性に入らないのです。其の爲に、ノイローゼになるも者も出た位でした。戦後間もなくの頃ですから、軍隊の気風が生きており。あんな荒療治が出来たのです。誠に有難いことでありました。今はあんなことは出来ません。然し、其の結果はどうであったか。目出度く第三の関門を突破できたかと言えば、答は『ノ-』であります。
 叩いても、叩いても、ビクともしないものが居るのであります。此れが私の心の底に巣くっている我執でありました。其れを徹底して見せられたのが此の講習会でありました。その講習会を幾度も受けたのであります。此れも戦後ならではの貴重な体験でありました。
 其れでは、この『我執』は如何すれば好いのでしょうか。答は唯一つ、『如来の御前に頭を下げて、謝り入るより道はありません。』
 最初に言われた、『頭を下げよ』とは、誠に、この事でありました。しかし、其れが我がこととして肯ける様になるまでには、実に、長い年月が掛かりました。『仏法聞きがたし』と、滲みじみ思い知らされる事です。
 此の三つの関門を克服して、初めて仏道が完成するのであります。この事は、教えて下さる方も、教えられる者も、とても御苦労の事でありますが、其れが、連々として絶えること無く続けられてきたのが、仏法の歴史でありました
 今日、仏道に逢い得たものは、此の御苦労の歴史に、深甚の感謝を捧げなければなりません。謹んで、深く深く御礼申しあげる次第であります。 
              
  
  
 

   碇草 6  『実相身』と『爲物身』 (1) 
 曇鸞大師は論注に『彼の如来の御名を称すること、彼の如来の光明智相如く、彼の名義の如く実の如く修行し相応せんと欲するが故にと言えり・・・』(12の57)と、天親菩薩の言葉を述べられ、次いで『然るに、称名憶念すること有れども、無明由お存して、所願を満てざるはいかんとなれば、実の如く修行せざると、名義と相応せざるに由るが故なり。云何が実の如く修行せず、名義と相応せざると為すや、言く、如来は此れ実相身なり、爲物身なりと知らざればなり・・・』と、疑問を提起して居ます。
                               (12の58)
仲野良俊先生は、『此れが『信巻』開設の起点である』言われて居ました。此れについて、宮城顗先生の言葉がありました。(宮城顗選集17、p80)
 『つまりそこに、人格への帰依という、欣慕の情としての在り方と言うものが、あくまでもそれは、実相身としてのみ仏を見て、爲物身たることを知らぬと言うことになる。 そして、其の実相身たることのみを知って、爲物身たることを知らぬと言う事について、全くその事とは離れているけれども、曽我量深先生が、『四字名号主義』と言う言葉を出しておられます。
 これは、『親鸞の仏教史観』の中に、(中略)四字名号主義と言うものに対して、『六字名号の仏意』に生きると言う事をおっしゃっています。四字名号と六字名号の違いですね。そこに真宗における『主』と言う問題、『主』と言う事がどこまでも対象的な、外なる存在ではなく、私の最も内なる力として帰命されるところのはたらきですね。
 爲物身とは、私のための身と言う事です。仏とは私のための仏、更に言えば、私の事実としてはたらいているものの他に仏なる存在はないということです。』 (同上)
 此れは、歎異抄の後序に説かれている『信心一異の争論』における問題であります。浄土真宗、高田派の伝承によると、あれは、念仏房の法話に由来すると言われて居ます。即ち、念仏房は、長く上人の弟子として師に事えてきた最も古い長老であります。其の念仏房が 『私は永年、法然様の御育てを受けてきた身であります。法然様の御信心に少しでも、近づきたいものと思って励んで参りましたが、上人の御信心には、到底及びもつかぬ者であります。』と述懐されました。其れを聞いていた並み居る弟子達が、一斉に念仏房を褒め讃えたのです。所が、親鸞が一人これに反対したので、争いが起こったというのです。
 此れは、誰が見ても親鸞に歩が悪い争いであります。法然上人は、『智慧第一の法然房』とうたわれた、誰一人疑う者の居ない方であります。その法然上人の御信心と、名も無き一介の親鸞の信心が一つであると言うのです。此れは誰が見ても、親鸞の不遜な考えであると思われます。所が、親鸞は譲らなかったのです。そこで事の是非を決すべく、法然上人に申しあげたというのです。
 法然上人が、親鸞の申し立てをじっと聞いていて、初めてこの事に気付いたのでしょう。それは、既にその事が自覚されて居たならば、法然の口から既に、説かれていた筈です。そうすれば、法然の弟子達は其れを聞き逃すはずはありません。所が、此れは初めて聞いた問題なのです。
 法然上人も、親鸞の釈明を聞いて、初めて、これに,気付いたのでしょう。それ程、重要な問題でありましたが、之に就いて、法然の伝記を書いた法然門下の誰もこの事を語って居ません。其処で、『大事な証文として此の書に添えまいらせた』と言うのです。
 先に、『親鸞の危険思想』で申した様に、親鸞の存在は、流罪以後法然門下ではすっかり忘れ去られて居たものと思われます。其の故に、親鸞だけがこの問題を語り残したのです。
 勿論、法然上人の人徳を慕う人々は、皆等しく上人の徳を慕って疑う者は一人も居ませんでした。親鸞も其の一人でありります。所が、信心については、親鸞は、厳しく其の意味を追求していたのです。
 第十九願の信心は、『欣慕の情』で有ります。  (宮城顗選集、17、p65)
最も人間らしい宗教心であります。然し、これに安住することが出来ない者が、進んで第二十願を求めます。然し、其処には、仏智疑惑という壁があるのです。此の壁に打ち当たって、跳ね返されると、又、元の十九願に帰るより道はありません。
 この様に、十九願の世界と、二十願の世界を行きつ戻りつしているのが、私達の事実で有ります。
 三願転入と言う事は、『私は確かに、十八願に入っている』と言って自慢することではありません。それならば、此の三願転入の文は信巻にあるべきだと言うのです。(宮城顗説、同上p77)誠にもっともな説です。
 所が、『真門決釈の文』として、化身土巻の最後に有るわけです。此の三願転入は、二十願の問題であります。即ち、二十願の『仏智疑惑の罪』の自覚で有ります。
 曇鸞が、『然るに、称名憶念すことあれども、無明尚存して、所願を見てざるものは、如何となれば』と重大な問題として提起していたのは、正に、文字通り、念仏申す者にとって重大な問題が其処にあるからです。折角念仏しながら、その結果を全く台無しに為るようなことが、其処にあったわけです。
 師の教えを受けて、ひたすら念仏申している。其れが、法然門下の人々の現状でありました。其処には、何ら非難すべきものは見当たりません。所が、其処に重大な問題があったのです。
 即ち、『如来は、実相身・爲物身で有ることを知らぬ』と言う事です。この為に、折角、『称名憶念する事あれども、無明尚存して、所願を満たさず』と言う結果に成るのです。  
先に、『如来は実相身で有ることのみを知って、爲物身で有ることを知らぬ者』と言いました。これが最も人間らしい宗教心であるとも申しました。
 『師の人徳を慕って、師の言葉を聞き、其の教えを忠実に守って生きて居る弟子達でありました。』言葉を換えて言うと、『師の言葉であるから信じられると言う事です。』そこに、最も人間らしい宗教心が有るのです。其れが『恋慕の情』と言われる第十九願の宗教心であります。
 実は、其処に問題があったのです。人間の宗教心は、人間の心です。迷妄であることを免れられません。其の、迷妄であることを知って、これを超えようと為るのが、二十願でありました。しかし、二十願の佛智疑惑の罪の壁に打ち当たって、跳ね返されて前進することが出来ないのです、それで其処に居座るのです。『自分は念仏して居るから大丈夫だ』と言うのです。

   碇草 7 実相身と爲物身 (2)
 如来が実相身で有ることは、誰も疑う者は居ません。其の如来が、その儘『爲物身』であるという事です。爲物身とは、私のための身で有ると言うことです。其れは、如来によって悲しまれている私であるというのです。所が、爲物身にのみ留まれば、恩寵の信仰になり、ひたすら、弥陀のお慈悲に縋って助けて頂くと言う信仰に成るのです。
 実相身と言う厳しい批判が無く、爲物身のみに偏れば、恩寵の宗教になり、爲物身を忘れて、実相身のみに偏れば、観念に終わります。誠に厄介な問題であります。 
 『そこに、真宗における「主」という問題、「主」ということは、どこまでも対象的な、外なる存在ではなくて、私の最も内なる力として帰命されるところのはたらきです。事実として働いてい居るものの他に仏なる存在はないと言うことです。』(同上、p80)
 爲物身とは、私のための身と言うことです。仏とは私のための仏、更に言えば私一人の爲の仏ということになるわけです。
 イスラム教は、厳しい神の権威の前に立って、恐れの信仰に成り、神の権威による殺戮を許す宗教に成りました。神の厳しい批判精神は是とするも、その厳しさを、自己以外の者に向けて、他を責める事のみにエネルギーを使うことに成りました。自己を顧みる事を忘れた結果であります。是れは、無我の教えが無い為の、『我執(自己主張)』の結果であります。
 一方、キリスト教は、『愛』の宗教でありまして、『神の愛』を説く訳であります。その点は好いのですが、其の結果、『恩寵の宗教』か、『奇跡信仰』に成りやすく、恩寵の宗教は他因外道であり、奇跡信仰は無因外道であります。其れを如何に克服して行くかが、この教の問題でありましょう。
無我という事に徹しないならば、如何なる主張も自己主張に成り、イスラムでは他を攻撃するばかりに終わり、キリスト教では恩寵の宗教に成るのです。
 それは、『自分』という者がこちらに居り(我見)、あちらに『他人』という者が居ると思うのです、其の爲、自他を比較し優劣を決める『我慢』、さらに其の結果自分が可愛いという『我愛』の心を起こして、如何しても、此の自分を守らねばならないと考える『我執』を起こすのです。是れが,唯識学で言う『末那識』の働きです。
 此の末那識の自他区別の意識こそ、『我痴』『我見』『我慢』『我愛』という四つの煩悩による、愛憎善悪の心を起こす原因であります。是れが、自己肯定の実態で有ります。
 仏法は、この末那識を転識得智して、平等性智にするのです。その結果、愛憎善悪が転じられて平等性智に成り、今、自分がここに居るのは、偶々の因縁に依って、此の様な自分が居るが、因縁が尽きれば跡形もなく消えてしまうものに過ぎないことを知らされ、自他の争いは消えて、一切平等の世界が開けて来るのです。
 仏法の無我の教えは、此の様に素晴らしい教えで有りました。『如来は、実相身・爲物身で有ることを知らぬ』と言う事は、仏法の無我の教えに依らねば、他人を責める事か、恩寵に甘えることに成るのです。
 キリスト教や、イスラム教の社会には、無我の教えが無いものですから、所詮、全てが自己主張に成るのです。然も、此の自我の主張は強烈なもので、容易に解決出来ない問題でありました。
 仏教の無我の教えを世界に弘めて行かねば、この問題は、解決出来ないでしょう。大変な課題が、我々日本人に託されてあることを、痛感するものです。
 『そんな無我の教えなど、今時、本気で信ずる者なんて居るものか』と言う声が聞こえてくるようです。確かにそうかも知れません。だが、心ある人は必ず居るものです。そんな人を探して、仏法を静かに語り合い納得してもらうより道はありません。
其の爲に、仏道の歴史は悪戦苦闘をしてきたのです。前に申しました様に、『唯識』という学問は、『無我』を証明するために生まれたのです。其れまでの仏道では、無我を証明するために、『五蘊』(色・受・想・行・識)という言葉を使用していました。人間の所作動作は全て、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識によって行われます。
 この六識で一切の人間の行動は説明されます、其の心と肉体の集まりを五蘊と言うのです。其れは心と身との集まりに過ぎませんから、『五縕仮和合』と申しまして、心と肉体とが仮に集まって色々のことをしでかすのですが、元々、『仮和合』に過ぎませんから、『我』と
して執着すべきものは無いと言うのです。
 所が、自殺というような行動は、五蘊では説明出来ないのです。人間は、この五蘊を否定してまで,主張しなけばならないものがあるのです。其れは一体何なのでしょうか。
 其処に、主体というものが考えられて来るのです。其の主体を主張しているものが無意識の内に働いているのです。其れを、『末那識』と名付け、更に其の末那識の拠り所になる主体として『阿頼耶識』と言うものを見付けて説明したのです。六識構造から、八識構造に成り、識が転じられて、仏の智慧に成る事に依って、諸法無我が完全に証明されたのです。
仏法によって、『無我』が証明されて、『我』として固執すべきものは無いことが明らかに為らなければ、戦争は無くならないのです。若し戦争が無くならなければ、人類は滅んで行くより道は無いでしょう。それが人類の運命であれば、其れも又、致し方はありません。
 その時は、広い宇宙の何処かに住んでいる生きものに、仏教の教えが伝えられて居る事でしょう。真実の道理というものはその様なものなのです。   
  

  碇草 8 自己反省の構造 (1)
 自己を省みると言うことは、人間の美徳とされていますが、其処に問題は無いのでしょうか。考えてみたいと思います。
 自己を省みるというとき、省みられている自己〔相分〕と、省みている自己〔見分〕とが有るわけで、これを、自己反省の見分と相分の二分性と申します。
 更に、見分をもう一つ後ろから反省する作用がありますから、これを『自証分』と申します。更に、自覚は深くなって、もう一つ後ろに後退して自己を反省する事が出来ます、それを『証自証分』と言うのです。この様にして、自証分と証自証分が交互に繰り返されて、自覚は何処までも深められて行きます。此を『自覚の無限後退性』と申すのです。
 この様に、人間の自覚は無限に深められて行きますので、深い自覚の人ほど、優れた人格者とされるのです。しかし、この自覚の構造には、問題点があるのです。即ち、無限に後退して、自覚は深くなって行くのですが、相分と見分という、自覚の二分性と言う自覚の構造は変わりませんので、無限後退の最後の見分である自証分か証自証分は、見分の別名ですから、見分の性質上、決して反省の対象にならないのです。実は、そこに『自己肯定』の親玉が隠れて居るのです。
 従って、この自覚の構造のままでは、『自己肯定』は決して否定されないのです。其処に、人間の自己反省と云うものの、決定的な欠陥があるのです。即ち、自己肯定の『我執』から、永遠に離れられないと言う問題であります。
 この我執は、生きている限り、人間に付き纏って離れない煩悩であります。さて、この煩悩は、どうすれば良いのでしょうか。ここに、仏道の基本的課題があったのです。 此を克服する為には、我執の根本である『末那識』が問題になるのであります。末那識は『我痴、我見、我慢、我愛』の四煩悩を具して居て、恒審思量と言われています。つまり、恒に審らかに思量しているのです。『恒に』と言うのは、寝ている間も休むことなくと言う意味で、しかも、『審らかに』と言うのは、実に細やかに思量するのです。どんな些細なことも決して見逃さないのです。
 『我痴』は、本当の自己が分からないと言うことで、仮の物を見つけて其れを自己とするわけです。其れが『我見』です。この我見に依って、『我慢』と『我愛』を起こすのです。
 『我慢』は自分と他人を比較して、喜怒哀楽、善悪邪正の心を起こし、優越感と劣等感の間を右往左往するのです。また『我愛』は、自分が何処までも可愛いと言うことから、自己に愛着して、何事にも、我執を離れることが出来ないのです。
 この末那識こそが、人間の一切の悪業を創り出す源に成って居る中心で、その為に、生死流転を果てしなく繰り返して居るのが私達の生き様であります。
 この末那識を転じて、平等性智にすることが、仏道の目的でありました。どうすれば末那識を転じて、平等性智にすることが出来るのか、その為に、仏道の先輩達は悪銭苦闘したわけです。
 そうして遂に弥陀の本願にまでたどり着いたのです。転識得智は、人間の努力では不可能なのです。阿弥陀仏の本願に目覚めるより他には方法が無いのであります。
 阿弥陀仏の本願は、人間の生死流転の原因を、仏の智慧に依って、熟知して居られて、其れを克服する方法も心得て居られるのです。この阿弥陀仏の本願の御働きに依らねば、『転識得智』と言う難問題は解決しないのです。
 其の事は、仏教は、初めから知っていたのです。然し、其れが人間の意識に登り、自覚される迄には、長い時間が掛かりました。仏教の三千年の歴史はその為に費やされたのであります。
 今、阿弥陀如来と申しました。然し、阿弥陀如来と言う様な方が何処かに存在するのでは有りません。存在するのは、真如そのものの働きであります。その働きを『如来』と言うのです。『阿弥陀如来』とは、無限なる真如の働きであります。其れを、神話的表現を用いて、『阿弥陀如来の御働き』と言うのです。
 阿弥陀如来というよな存在が、何処かにいらっしゃると思うならば、其れは人間の妄念妄想であります。其れを、偶像崇拝と云うのです。偶像崇拝は、人間の根深い迷いの心であります。此れを本当に克服したのは、仏教の深い智慧のみでありましょう。
 そもそも、偶像崇拝を否定すべきものとして教えたのは、『モーセの十戒』で有りましたが、西洋では果たして偶像の意味が正しく理解されて來たのか甚だ怪しいものです。しかし、此れは現在の日本人にも云わねばならない事でありますので、洋の東西を問わず、偶像崇拝の問題は永遠に問い続けなければ成らない課題で有ります。
 ニーチエが『神々は死んだ』と宣言して、偶像崇拝を否定しましたが、反って、彼は『ニヒリズム』だと云われて、彼の意見は斥けられました。この様に、西洋では、偶像崇拝の意味が正しく理解されて居ないのです。
 確かに、ニヒリズムの深淵から人生を問い直してみる必要が在るのです。其れが、『無我』の教えで在ります。
 然し、先にも申しましたように、日本でも、偶像崇拝が誤解されて居まして、此を糺して行くことが急務であります。
 神や仏を自己の外に見て、此に向かって、人間の願いを祈願するのは、全て、偶像崇拝であります。
 阿弥陀仏は、私の内に仰がれるものでありまして、決して、私の外に在る何かでは有りません。其れを、仏像として礼拝するのは、宗教の儀式として礼拝しているのであります。決して偶像として、『祈願』しているのでは在りません。
 その事を、しっかり理解して仏像を拝む必要があるのです。だから、真宗では、『仏像よりは絵像、絵像よりは名号』と言うわけです。『名号』こそ最も正確に本尊の意味を表しているのです。
 『南無阿弥陀仏』は『帰命尽十方無碍光如来』と言う意味であります。此が、真宗の本尊で在りまして、私達が礼拝すべき『仏様』であります。
 此れを親鸞は、『光如来』と申しました。飽くまでも、『光』の働きで在りまして、闇を照らす光の働きであります。この光の働きは、先に云いました、見分の更に背後から、衆生の自己反省の『相分と見分』の全体を照らす光であります。
 此れが、真如の働きで在りまして、この真如の働きに照らされない限り、本当の自己は照らし出されません。その真如の前で、衆生は、唯ひれ伏して、自己のあくなき罪業を懺悔するより他に道は無いのでありす。
 此処に、仏像を礼拝する真の意味があるのです。仏教は、仏像を拝む事によって、反って、『偶像崇拝』を否定したのです。我々は、自信を持って、堂々と仏像を礼拝すべきであります。此れは、浄土真宗の信仰を表す厳粛な儀式であります。此れによって、自己反省の欠点を完全に克服する事が出来たのであります。

                   

  
 

  
 
 
 
 
  

    
 
   

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