月別アーカイブ: 2018年11月

水琴窟 「二尊教」とは?

 問 「二尊教(にそんぎょう)」とはどういうこと?(水琴窟22より) 
 答 二尊教は、釈迦牟尼佛と阿弥陀如来が、別々の役割を果たしながら、一致して衆生救済を果たして行く宗教であります。
 宗教は本来多神教から進化して一神教に成ったと言われています。確かに現在では、一神教の構造が宗教の主流であります。  所が、日本では、浄土真宗と言う、二尊教の構造を維持していて、明らかに一神教と違う構造を保っている教団があり、先進国で唯一の『非一神教』の国であります。
 浄土真宗の源流は、無量壽経と言う経典に由来しています。この経典は、法蔵菩薩の物語から説き始められています。恐らく、この『法蔵菩薩の物語』は、古い神話を源泉にしていると思われます。これはモンゴリアンと言われる種族が伝承して来たものでありましょう。
 モンゴリアンはインドからは、ヒマラヤを挟んで、南北に分かれて東進しますが、日本で、もう一度合流するのです。所が、日本に到達する時間にずれが生じて来ますので、両者には、思想に若干の相違が生まれました。
 インドから南の海上を進んだ種族は、1万年も早く日本に到着して、所謂『縄文文化』を形成して居ました。其れから一万年も遅れて日本に到着したのが、北を進んだ種族で、『仏教伝来』と言われれている現象を日本に伝えたのです。
 この時初めて日本人は仏教に出会ったと言われているのですが、縄文時代にはどんな宗教が信仰されていたのか、現在では判らないと言われています。
 少なくとも、『神ながらの道』と言われる宗教が存在していた筈ですが、その全貌は、弥生時代に改竄されて仕舞って、今では原型は不明であると言わねばなりません。
 しかし、北アメリカに渡ったモンゴリアンの神話によると、阿弥陀佛の神話によく似た物語が見られる所を見ると、元々、モンゴリアンの神話には、阿弥陀仏の信仰があったのではないかと思われます。
 阿弥陀仏は、ゴッドと同様な優れた神格を持ちながら、決してゴッドの様に唯一神を主張しないで、他の多くの神々と仲良く同居する神として仰がれているのです。
 アメリカに進出したキリスト教の牧師が、アメリカインディアンの神話を研究して、『彼等の神は、我々の言う「ゴッド」だよ』といくら言っても、現住民は聞き入れなかったと言います。そこで、その神を、グレート・スピリットと呼ぶことにしたのだと言われています。
 確かに、『ゴッド』と『グレート・スピりット』には、重大な相違があるのです。それを見分けて、能くも頑張ったものと思われます。
 阿弥陀仏と、諸仏は、夫々異なった役割を果たしながら、一致して衆生を救う働きを果たすのです。それで、釈迦弥陀二尊教と言うのです。釈迦は諸仏の代表であります。二尊二教の儘が、二尊一教と言う衆生の救いを成就するのです。
 勿論、グレート・スピリットと阿弥陀仏が同じものかどうかは判りませんので、これは想像の域に過ぎませんが、よく似た構造を両者は持っているようです。 
 この構造を持つ宗教が、最も健康な宗教であると言われているのです。宗教の健康性と言うのは、観念論や、偶像崇拝に堕す事無く、又、無因論と、他因論を離れる事であります。
 観念論は、人間の理知によって、宗教を解釈することであります。人間が創った思想であり、理性中心の、理知の産物でありますから、宗教とは言えないものであります。
 偶像崇拝は、人間が勝手に創った神に、人間の要求を祈る事であります。どんなに真剣に祈っても、要求が叶えられるか叶えられないかは、その時の条件に依るので、偶々叶えられたら霊験あらたかな神だと喜んでいるだけの事です。
 また、他因論は、人間が勝手に創り出した神に、摩訶不思議な力があると信じて、人間の要求を叶えてもらおうとする信仰で、恩寵の信仰であり、神のお慈悲に、ひたすらすがる信仰でありまして、甘えの信仰であります。
 無因論は、神も仏も在るものかと言って、何も彼も投げ出してしまう事です。人生を真面目に努力しようとしなくなり。遂に破滅に至ります。   
 ニーチェは、『神々は死んだ』と云いました。その結果、ニヒリズムだと言って非難攻撃を受けましたが。しかし、ニヒリスムの深淵から世界を見据えてみる必要があるのでしょう。仏教も神の存在を認めませんから、西洋の思想から見ればはニヒリズムと言う謗りを受ける恐れがあります、しかし、其処には深い思索が有るのです。
 親鸞は、『地獄は一定、住み家ぞかし』と言いました。若し、『念仏のみぞ、誠にておわします』と言う言葉が無ければ、あれは、ニヒリズムの思想であります。しかし、其処には前人未到の深い思索が積み上げられていました。    
 キリスト教が、地獄へ堕ちたら、絶対救われないと云うのは、ニヒリズムに堕することを言ったのです。仏教の地獄は、人間の状態の一つですから、地獄の意味が違うのです。同じ『地獄』と言う言葉を用いたから混乱したのです。
 仏教でも、ニヒリズムに堕ちたら、真実も仏も、その存在を認めないのですから、救いの対象から外れるわけです。ただし、『回心懺悔して、本願に帰すれば』必ず救われるのが浄土真宗です。
 偶像崇拝は、人間の迷妄によって生み出されたされた神に、人間の幸福を祈るものでありますから。決して正しい信仰とは言えません。
 また宗教の観念化は、人間が理性で解釈して、創り出した思想です。神と言うも仏と言うも、人間を救う力はありません。人間が勝手に理屈を並べているだけで、自分で自分を持ち上げようと為るようなものです。
 今、宗教の健康性を失う条件を四つ並べました。今日、宗教と称している諸々の宗教団体が、果たして健康な信仰でありうるのか、不健康なものであるのか、能々、自分に問い質してみる必要があるようです。これは、宗教団体としての、浄土真宗教団にも言わねばならぬ問題であります。
 現在、二尊教と言う宗教構造を持つのは浄土真宗しかありません。それ故に。浄土真宗の存在は貴重であります。此の浄土真宗を大切に護り、世界に発信することは、人類の将来に対する大切な使命であります。
 上来、二尊教の優れた問題点を挙げてきました。今日。一神教が行き詰まっている時代に、一神教を否定して二尊教を弘めるのではありません。一神教にも優れた面があります。そこで、静かにお互いが話し合って、互いに相手を尊敬し合う関係を樹立したいのです。
 真理は一つでしょうが、それを理解する立場は、それぞれ違っていても良いのでしょう。相手の立場を認め合って話を進める事こそ、世界平和の基礎であります。
 中々相手の主張が認められないこともありますが、其処はお互いに辛抱強く話し合って納得するより外に道はありません。国連の使命は其処に有る筈ですが、今の様に第二次世界戦争に勝った国に優先権が与えられている制度は改める必要があります。   寛容の精神は、人間には随分頼りないものではありますが、此の寛容の精神を、お互いに大事に護って行くより外には平和を護る手立ては有りません。
 もう一度、覇権国家成立以前の、首長同士の話し合いの制度を取り戻して、平和の維持を図るべきであります。それが、仏教の願いでもあります。
 国を棄て、王をすて、沙門となった法蔵菩薩の精神に目覚めて、話し合いを続けるける事が、大無量寿経の教えであります。
 今日の争いは、全て、『真理は一つである』と云う信念の、その『真理』の解釈の相違が元になって居ます。しかし、人間の解釈は全て『所知障』です。
 所知障は、『真理』そのものを正しく知る障害に成って居るのです。所知障の弊害を離れて、『真理』そのものを正しく求めるべきであります。其の為には、『仏教の叡智』を学ぶべきでありましょう。

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水琴窟 仏像を拝む意味とは?(part2)

 問、仏像を拝む意味とは? (part2)   (水琴窟20より) 

 答、
 善導は観教疏に『応心即現』と言いました。『心』とは人間の心の底に隠れている。『真実に遇いたい』と言う『人間至奥の要求』であると云いました。如来は此の『心』に応えて『東域に影臨す』と言われます。
 『そんな心など私には有りません』といくら主張しても駄目なのです。如来は先刻見抜いて居られるのです。
 『貴方のも必ずこの心は有るのですよ』と、言い切られるのです。そうして、『確かに私にも、この心が有りました』と気づいた時、即座に『摂取不捨』の利益に預かるのであります。 
 『私にも、この心が有りました』と頷くことは容易ではありません。しかし、聞法を続けるならば、必ず頷けるのです。それは既に先輩たちによって証明されているからです。 『弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞がもうす旨またもって虚しかるべからず候か。詮ずる所、愚身が信心におきては此くの如し。この上は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも面々の御計らいなり。』これ程の証明を並べられて、それでも疑うと言うのは、よくよく疑い深いと言わねばなりません。
 さて、『仏像を拝む意味』と云う事ですが。阿弥陀仏は、我々の目で見る事は出来ません。それで、『影臨』と言いました。『影』と成って臨むのです。臨むとは、顕われること、働きかけて来ると云う事です。『影』と云う言葉は、日本語では随分ニュアンスの豊富な言葉です。『月影』は月が照らして居る様ですが、『島影』と言い、面影を偲ぶと 言います。遂に、『お蔭さま』と成れば、愈々意味深重 であります。
 阿弥陀如来が『影臨』すると云う事も、『お蔭様』と言うより外ないのでありましょうか。阿弥陀仏は確かに、我々の為に、やって来て働きかけて居て下さるのです。問題は、それを我々衆生が、我が身の上に頷けるか否かと言う事であります。
 『阿弥陀仏、此処に在します』と頷く事が出来るか否かと、自己に問うてみるのです。『確かに阿弥陀仏在します』と頷く事が出来れば、もう占めたものです。頷けるまで聞き抜くことです。頷けたらそれでお終いかと言うと、一度、頷いたら、もう逃げられないのです。其の儘人生が終わるまで、聞法を続けなくてはならなくなるのです。
 それは如来が離して下さらないのです。いくら私は逃げようとしても、如来が離して下さらないのです。自然法爾なのです。私の努力ではありません。
 西遊記の物語にあるように、孫悟空が幾ら逃げようとしても、仏陀の掌の中をぐるぐる回っていたよなものです。孫悟空の神通力と雖も所詮人間の計らいでありますから、仏法力の前には、手も足も出ないのです。
 一度、仏法力の前に引き出されたら、人間の計らいは全てお手上げになります。阿弥陀仏在しますと頷けないのは、人間の計らいであります。その計らいの儘が、仏の掌の中なのです。そのことに目覚めて、南無阿弥陀仏と念仏に帰る時、『阿弥陀仏在します』と、頭を下げ、手を着くのです。 仏像を拝む意味は、仏像は仮の形です、その仏像を通して、眞の佛を礼拝するのです。私達は何か対象が無ければ、礼拝する事が出来ません。其の為の仏像です。仏像こそ、真の佛の心を念ずるための形であります。
 仏像は、礼拝の為の形であります。礼拝すると云う事実を抜きにして仏像を見るだけなら、仏像はせいぜい美術品か人形にすぎません。従って、其れだけの値打ちしか無いものに成ります。仏像は、あくまでも礼拝の対象であることを忘れてはなりません。
 仏像を拝む事は、仏法の大事な儀式でありますが、今日、その儀式の意義が忘れられて、美術品に成って居る事は残念な事であります。その理由は、偏に、仏教自体が堕落している訳です。仏教が、宗教としての意義を失って、堕落しているのです。宗教の堕落には、二つの問題があります。一つは、宗教の観念化であり、今一つは、宗教の偶像化であります。まず、宗教の観念化に就いて考えて見たいと思います。
 観念化と言えば、言葉が解かり難いのですが、要するに、話に終わっていると云う事です。話はいくら聞いても話に過ぎません。救いの事実にはならないのです。   
    
    彼女の聞法、三十年
    しかし彼女には、何物もない
    聞くだけが賢いのなら
    浪花節道楽の男が、一生を寄席に通うて何ほど賢くなったか
    一生を聞法に使うて 然も、何物もない
    何処に、欠陥があったのか
    彼女は、ただ我を忘れて、話を聞いたのだ  
    我を知らずして、話を聞けば、話しは話に終わる 
    話を聞く者は多く、道を求める者は少ない
    道を求めて三十年を費やすか
    話を聞いて三十年を送るか
    往生極楽の話は甘く
     往生極楽の道は、易くして辛し (讃嘆の詩、上巻、p131)
 
 自己を見つめる事を忘れて、法を聞けば、仏法が話に終わるのです。自己を見つめるとは、機の深信です。機の深信を抜きにして、仏法を語れば、仏法の話になるのです。
 これは、仏法を語る側に責任がありました。仏法によって救いを成就しようとせず、御法礼を稼ぐ事だけを念頭にして、仏法を説くことを忘れた結果であります。ただ、面白おかしい話をして、大衆の歓心を買っていたからです。
 仏法の話は甘いので、聞く方もそれを喜び、説く方もそれに依ってお金が貰えるのですから、安易にその方に流れるのです。そのような堕落が続けられて、今日に至りました。 『お前は如何であったか』と問われると、私も、その一人であったことを深くお詫びしなければなりません。
 宗教が観念化して、宗教の生命が失われる時、世の中には、迷信ばかりがはびこるのです。現代は正にそのような時代であります。正しい宗教心が見失われて仕舞っています。誠に、浄土真宗の寺院が、真っ先に、目を覚まさなければならない時代であります。
 門徒制度に溺れて、寺に住めば、易々と飯が食えることになり、聞法に命を懸ける事を忘れています。是が、観念化の状態を創り出した元凶であります。
 住岡夜晃先生は、貧苦の中で、只管に自己を問い続け、『大法の如く』と叫び続けて下さいました。今こそ、夜晃先生の光明団創設の御精神に立ち戻って、『大法の如く、更に大法の如く』歩み切らせて頂かなければならない時であります。
 もう一つ、宗教堕落の姿が『偶像崇拝』でありますが、長くなりますので次回に譲りたいと思います。

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水琴窟 「摂取不捨」とはどういうこと?

問、「摂取不捨」とはどういうこと?   (水琴窟17より)
答、 
 歎異抄には『弥陀に誓願不思議に助けられまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の発る時、すなわち、摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり』(23の1)とあり。また、観無量壽経には、『光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨』(2の15)とあります。
 本願に救われることを『摂取不捨』と言うのです。しかし、本願に救われると云う事は如何なる事かが判りません。それを考えることに致します。
 先の歎異抄には、『念仏申さんと思い立つ心の発る時』とありました。その『時』が大事な意味を持っているのです。
 『時、が熟す』と云う言葉があります。 永い間、待たれていたものがやっと日の目を見るようになることを『時が熟した』と言います。我々が本願の救いに遇う事も時が熟したのです。即ち、永い間念じられてやっとその時が来たのです。宿善開発とも申します。
 今、『念仏申さんと思い立つ時』と言う時も、『時が熟した』のです。この『時』は、普通の時計で測る時ではありません。普通の時計で測る時を突き破って『永遠の時』が顔を出した時であります。それを、『永遠の今』と申します。
 時計で測る時は、何年何月何日何時と言う時間ですが、『永遠の今』と言う時は、何時でも『今』でありますので、今、今、今と今が連続している今であります。『念仏申さんと思い立つ時』は、何時でも今であります。その今を『摂取不捨』と言います。
 私共が、日頃聞法していて、仏様の事を思い出して、『確かに、仏様は在します』と佛を念ずる時、『摂取不捨の利益に預けしめ給うなり』と言うのです。
 『摂取不捨の利益』は、何年何月と言う時間では測られない『今』と言う時間でしか語れないものです。   
 その体験を、観無量壽経では、『阿弥陀仏が空中に住立し給う』と表現しました。それについて善導は、『応声即現』と言います。『声』とは、釈尊の説法の声です。それは耳に聞こえる音声ではありません。法を説かれる音声を聞いて、説かれている法の心を聞き取るのです。釈尊は今はいらっしゃいませんけれども、尚、法を説いて下さる方が有れば我々も声を聴くことが出来るのです。
 声を聞く事が出来るとき、『応声即現』と阿弥陀仏に遇う事が出来るのです。このこと以外に『摂取不捨』はありません。
 しかし、善導は更に『応心即現』と言います。『応心即現』とは、阿弥陀仏は衆生の、『阿弥陀仏に遇いたい』と言う心の底深くに隠されている熾烈な願い、曇鸞は其れを『情願』と言いました。善導は其れを『安楽の慈尊、情を知るが故に、東域に影臨す』と『情』と縮めて言いました。衆生が阿弥陀仏にお会いしたいという切実な願いを抱いて、阿弥陀仏の仮の姿である阿弥陀仏の像を礼拝する時、阿弥陀仏はその心を見そなわして、衆生の前に姿を現して下さるというのです。これが『応心即現』と言う事実であります。
 この『応声即現』と『応心即現』と云う二つの事実は、阿弥陀仏に遇う為の必須の条件なのです。釈迦の教えを聞こうともしない者、従って阿弥陀仏にお会いしたいと願う心のない者の前に姿を現すことはありません。
 勿論、姿を現すと言っても、人間の目に見える形で現れるのではありません。聞法によって、心に阿弥陀仏在しますと頷くことです。それは、わが身を『心想ルイ劣の凡夫』と自覚した者の心に頷かれる事実であります。
 『念仏申さんと思い立つ心の起こる時』とは、『阿弥陀仏に遇いまいらする時』と言う時です。『摂取不捨の利益』は我々が阿弥陀仏に遇うことによって成就するのです。それを、『唯観念仏衆生摂取不捨』と言われています。『念佛申す者のみ』を摂取不捨すと云うのです。何故でしょうか。それは後で申します。  
 『摂取』という言葉は、食べ物を摂取するとは食べ物が私の血となり肉となる事であります。如来は、衆生の現実の全てを受け取って、如来の血となり肉として下さることであります。
 我々の現実が、如来に受け取られて、如来の血となり肉となるのです。すると、我々の現実が、全て意義のあるものに成るのです。如来に摂取されなければ、我々の現実は、不消化になり、空しく、意味の無いものに終わるのです。人生空過で、愚痴の儘の中で死んで行くより外に無いのです。
 我々の現実が、全て意味のあるものとなる時、空しく過ぎることのない人生を賜わる事が出来るのです。  
本願力に遇いぬれば 空しくし過ぐる人ぞなき
功徳の宝海満ち満ちて 煩悩の濁水へだてなし  
と和讃に述べられる通りであります。
 さて、何故『念仏の衆生のみ、摂取不捨される』と言うのでしょうか。観無量寿経には、『光明遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨』と有って、『唯観念仏衆生摂取不捨』と言ったのは、善導大師です(12の22、往生禮讃)。善導は『唯観』の二字を加えることによって、『念仏衆生』と云う事を、明確に照らし出し強調したのです。
 『念仏衆生』とは、ただ念仏を声に出して称えて居る衆生と云うのではありません。本願を信受して、如来在しますことを明らかにわが身の上に、立証した衆生であります。そのことを抜きにして、いくら『摂取不捨』を語っても、単なる言葉の遊びになるのです。
 『摂取不捨の利益にあづけしめ給う時』とは、普通の日常の時間、即ち、何年何月何日と言う時間ではありません。『時が熟した』時間であります。時が熟すとは、永遠の時が日常の時を貫いて、永遠と日常が交差した時であります。それは『今』と云う表現でしか言いようのない時間であります。
 『人身受け難し今既に得く、仏法聞き難し今既に聞く』と言う『今』であります。その時、人間は無上の喜びを与えられるのであります。この『今』は、喜びに満ちた時であります。それを『摂取不捨』と言うのであります。           観無量寿経には、『この語を説き給う時、無量壽仏空中に住立し、観世音・大勢至、是の二大士、左右に侍立せり』と説かれています。この『時』が、摂取不捨の時であります。
 無量壽仏には、観音と勢至の二菩薩だけが侍立して、他の仏も菩薩も一切居ないのです。これは無量壽仏のみの働きを現しているのです。
 此の『空中に住立したもう阿弥陀仏』を初めて礼拝したイダイケが、阿弥陀仏の御心にお会いしたのです。『仏身を観ずるを以ての故に亦仏心を見る、仏心とは大慈悲これなり』(2の15)と言わています。その時が、今申します『永遠の今』と言われる『時』であります。此処に、イダイケの救いが語られているのです。當に『摂取不捨の利益にあづけしめ給うた時』であります。

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