月別アーカイブ: 2019年11月

水琴窟 2

問と答 『二』
問、 宗教と言えば、迷信ばかりではないの ?。
答、
確かに、世の中には、いかがわしい迷信が満ち溢れています。その中から正しい信仰心を選び出すことは至難の業であります。そこで、正しい信仰とはどういうものなのか考えてみたいと思います。
広辞苑を開いて迷信を調べてみると、『迷妄と考えられる信仰。又道理に合わない言い伝えなどを頑固に信ずる事。その判定の基準は常に相対的で、通常、現代人の理性的判断から見て不合理であると考えられるものについて言う。』とあります。
又、『俗信』と題して、民衆の間で行われる宗教的な慣行・風習・呪術・占い・まじない・幽霊・妖怪の観念など。このうち、実際に社会に対して害毒を及ぼすものを迷信といって区別する場合がある。』と書いてありました。
要するに、現代人の理性的判断から見て不合理であると判断されるもので、特に社会に対して害毒を及ぼすものを迷信というと規定されているようです。
然し、『現代人の理性的判断から見て』と言うことが極めて曖昧であります。現代人の理性的判断が基準となる訳ですが、現代人は常に流転しているものです。その理性的判断も常に変わるものですから、迷信の規定はあやふやなものに成ります。
また、理性的判断が基準となる訳ですが、人間は理性だけで生きて居るものではなく、理性を超えた何ものかに動かされているものであります。理性的判断だけで信仰を語る事は出来ないのです。
神話という問題があります。キリスト教で、聖書の非神話化という問題が一時喧しく叫ばれました。聖書の神話的表現を、理性で解釈出来るように改めるというのでしょうか。
然し、ここには多くの問題がありました。則ち、理性だけで宗教の問題は解けないのです。 非神話化と言うのが、唯、理性的判断に委ねると言うことであれば、大いに問題があるのです。神話には、神話独特の論理がありまして、必ずしも理性的範疇に入らないものがあります。そこに、人間の理性の限界があるのです。
人間の理性の限界を教えるために、あえて理性では計れない世界を、神話の世界は語るのです。神話では、動物たちも人間と語りますし。木や草も人間と同じように行動したり考えたりします。其れを子供達は素直に受け入れています。理性だけでは律しきれない何物かを子供達は感じているのです。其処には、神話の世界の素晴らしい一面が躍動して居ます。
仏教では、神話的表現の経典と、論理的表現の仏教学が両立しています。これはキリスト教の神学にも言えることだと思いますが。要するに神話と学問と両立が大切でしょう。
宗教と一口に言いましても、色々あって何もかも一緒には出来ません。明らかに個人や社会に害毒を流すものもあれば、個人的に信じ込んでいるだけのものもあります。その中で、どれを迷信だというのか、中々難しいと言わねばなりません。
正しい信仰心というのは何かと言われても、ちょっと返答に困ります。そこで、仏教の信仰心とはどういうものかと考えることに致します。
蓮如上人は、『諸々の雑行雑修、自力の心をふり捨てて、一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御助け候へとたのめ。』と言われています。
『諸々の雑行雑修』をふり捨てて、『一心に阿弥陀如来』に、『われらが今度の一大事の後生御助け候へ』と頼むことだというのです。然し、この言葉も随分誤解されてきていますので、充分分析する必要があります。
先ず、『雑行雑修』と言う言葉ですが、最も難解な言葉でありましょう。そもそも、信心と言うことに最も注意をしたのは、善導大師でありまして、『雑行雑修』と言う言葉を最初に使われたのも善導大師であります。
私達は、善因善果、悪因悪果、善い事をすれば幸せになり、悪いことをすれば不幸になると信じています。然し世の中には、悪い事をしても不幸にならない者も居ます。その時『人生は理不尽だ』と言います。確かにこの世には理不尽なことが、随分、まかり通っています。それでも、善良な人間は善因善果、悪因悪果の法則を信じて生きようとしています。
然し、度重なる理不尽に遇うとこの信念が揺らいできます。正直者が馬鹿を見ると言うことになります。矢張り人生は少々誤魔化しても、うまく渡らねば損をすると言うことになるのです。『小人閑居して不善を為す』と言うことになるのでしょう。これはみんながやっていることだからしようがないと言って済ましています。聖人君子ならいざ知らず、我々凡夫にはとても出来ないことだというのです。これが生死流転の姿であります。
仏教は生死出ずべき道です。この生死流転の世界を離れて安穏な世界に出る道であります。然し、生死を超えると言いましても、そう簡単に超えることは出来ないことで、仏教は難しいと言うことになってしまいます。確かに、これはいい加減な取り組みでは出来る事ではありません。過去の聖者達が命懸けで取り組んできた問題であります。
親鸞聖人は、十九歳の時磯長の聖徳太子の御廟に詣でて『日域大乗相応の地』と言う夢のお告げを受けられたと伝えられて居ます。この『日域大乗相応の地』と言う言葉は、当時の比叡山では頻りに叫ばれていた言葉であったと言います。然し、親鸞聖人は、果たしてその言葉通りの事実が、この比叡山に実現して居るのかと疑っていられたものと思われます。
当時の仏教は、善根を積んで其れを回向して仏に成ると言うことが常識でありました。善根を積むことが出来るものは、それで成仏出来るのですが、善根を積むことなど思いもよらない、貧しい一般庶民に取っては、成仏の望みは諦めるより外ありません。『普く諸々の衆生と共に』という大乗仏教の理想は、比叡山では果たせないのではないかという疑問が、ぬぐえない問題として親鸞を苦しめておりました。
然し、聖人は更に十年間比叡の山で頑張ります。『汝の命根十余歳』と言う言葉が夢のお告げにあったからです。『よし、もう十年頑張って見よう』と決心したのであります。其れは命の限りを尽くして、『日域大乗相応の地』という言葉の意味を追求してみる為の求道でありました。
然し、その努力は虚しく、徒に十年の歳月が流れました。そこで、聖人は翌二十九歳の正月一日から、聖徳太子ゆかりの寺である京都六条の六角堂へ、百日の参籠を思いたたれます。
これは約束の十年が過ぎても、まだ道が得られない最後の悶えでありました。恐らくこの時の聖人の心境は、これで駄目なら死を選ぶ覚悟でありました。
そうして、九十五日目の暁、夢に『行者宿報設女犯』の偈を得られたのであります。
『貴方が宿報によって女犯の罪を犯すならば、私がその相手になって遂に極楽へ導い
てあげよう、これは我が誓願である』と観世音菩薩が告げたのであります。
女犯の罪は、最も重い罪であります。二十九歳の親鸞にとって最も切實な問題でありました。其れを縁として。極楽に導くと言う事は、既に法然上人の教えを予感されています。
親鸞聖人は既に法然上人の教えを知っていられたのでしょう。然し、その法然上人の教えを受け入れるためには、余程の決断が必要でありました。その決断の為の参籠であったのでしょう。この夢告に依って法然上人に遇う決断が着いたのです。
兎に角、一度上人に遇ってみよう、その上で態度を決めることにしようと決心して、法然を尋ねたのであります。其れでありますから、容易には教えを頷きません。又百日の間降るにも照るにもいかなる大事にも上人の教えを聞き続けたと言われています。そのあげく、やっと納得して上人の弟子になることを決断したのです。
此の様ないきさつを歴て法然に会いに来た親鸞は、他の弟子達と違って、『ただ者』ではないと法然も見ていたのでしょう。入信間もない親鸞に、著作や肖像の書写を許しています。
誠に、法然と親鸞の出会いがなかったなら、今日、浄土真宗は伝えられ無かったものと思われます。
法然から親鸞への傳承によって、初めて正しい信仰心とは、どういうものであるかが
明らかになったのです。迷信と正信との区別をすることが出来る教えは浄土真宗しかありません。それ程厳密な検討を要する問題が迷信の問題であります。
そこで徹底してこの問題と取り組むために長くなりますので稿を改めるることに致します。 (続く)

水琴窟 10

   水琴窟 十
 問、『群生海に回施したまへり』とはどう言うこと (前号より続く)
答、(前号より続く)
地獄に堕ちるとは、理想主義が行き詰まって、ニヒリズムに落ちることですから、この世の一切の理想が消えてしまって、自暴自棄になるより外はありません。其れは人生の破滅です。ですから人は何としてでもこの破滅から逃れようと、あらゆる手立てを用いて、地獄から逃れる方法を考えるのです。
 所が、浄土真宗は、『地獄は一定住み家ぞかし』と宣言したのです。カトリックの信者であるフランス人が驚くのは当然であります。親鸞聖人はなぜそんなことが言えたのでしょうか。
 『儂が落ちる』とまでは言えても、『仏も落ちる』とまで言うのは、どうも狂気の沙汰と言わねばなりません。然し仏が落ちなければ私が落ちると言うことは、自暴自棄に過ぎません。ここに親鸞聖人の深い信仰告白があるのです。      
 仏も落ちるとは、本願の心であります。その本願力に助けられると言う確信を得た者に、 初めて『安んじて地獄に落ちる』と言い切れる世界が開けるのです。
 『群生海に回施したまえり』と言う事は、真実無き衆生に真実を回施しようとする事です。所が、我々凡夫は、一向に真実無き衆生であるとの自覚がありません。その為に、『真実を回施しよう』と言う如来の願いなど必要ないものと考えて、如来の心を理解しようとは致しません。
 我々は『我に真実有り』と自負している存在であります。そこで如来は『一者至誠心』と、人間が救われるためには、先ず、第一に『至誠心(真実心)』が必須条件であると説かれるのです。
 『至誠天に通す』と言う事が、人間に信じられる最高の生き方ですから、人は必死になって至誠を尽くして生きようと心懸けます。その結果至誠が天に通じて想いが叶えられる場合いも有りますが、又全然天に通じなくて思いが叶えられない場合いもあります、何故でしょうか。天の道理が間違いないとすれば、私の至誠が足りない事になります。そこで益々、心を込めて至誠を尽くすのですが、実は、天は気まぐれで、人間の願いなど気にも懸けずに、因縁次第で人間の願いが叶えられる事もあり、叶えられない事もあるのです。
 其れは人間の真實心などは当てになら無いもので、この世の一切の出来事は、只、因縁に依って起こるだけの事なのです。
 所が、私達は人間の真実は絶対に正しいものと信じて疑わないのです。しかし、人間の真実などは全く当てにならないものなのです。人間の心は、ころころと揺れ動いて一向に定まることがありません。ちょっと風が吹くと、サット散ってしまう羽毛のようなものなのです。そのような心を当てにして真実だと言っているのです。とても当てになるものではありません。
 この当てにならない人間の真実心を、本当の真実だと信じて、一切の行為の基準にしているのが人間の現実であります。
 如来は、人間の真実心が当てにならない事を先刻見抜いて、如来の真実を与えようと願を起こしたのが、如来の本願であります。その本願を受け入れるためには、『我に真実無し』と自覚する必要があります。阿弥陀如来が、光明無量の願を起こしたのは、智慧の光明によって人間の真実が当てにならないものである事を照らし出して、『我に真実無し』と自覚せしめる為でありました。
 従って、衆生は、如来の光明に照らされる事によって、初めて、自己に真実がない事を自覚するのです。光明に照らされるとは、教えを聞く事です。教えを徹底して聞き抜く事によって、衆生が、我には真実がない事に目覚め、如来の真実によってこそ、衆生救済の事実が成就するのであると、信知ずる事が出来るのです。
 教えを聞き抜く事によって、『我に真実無し』と目覚める事が出来た者にのみ、『地獄は一定住み家ぞかし』と言う親鸞聖人の告白の言葉を、我が身の事として頷く事が出来るのです。 
 教えを聞き抜くと言いましたが、教えは聞いても聞いても中々受け取れないものです。その為に、多くの人が困って、途中で止めたり、いい加減な聞き方でお茶を濁したりしてしまいます。  
 私もこれで随分悩みました。所が、先輩も同じ悩みを持っておられた事を知らされました。其れが、唯識学の十大論師の一人である護法であります。
 彼は、『無漏の種子の本有説』を称えてくれました。私達の聞法は『有漏の経験』であります。有漏の経験は、幾ら積み重ねても無漏には成りません、然し、私達に本有の無漏の種子が宿っていて、有漏の経験である聞法は、その無漏の種子を激発する唯一の機縁になると言うのです。
 本有とは、私達が生まれる以前から、私達の心の中に宿っているものと言う事です。
本当にそんなものがあるのでしょうか。これは、『如来蔵経』の思想です。『如来蔵思想』と申します。
 聞いても聞いても解らないと言う嘆きは、もう心配有りません。もっと聞けばよいのです。『本有の無漏の種子』が現行してくれるまで聞き続ければよいのです。必ず、無漏の種子が動き出して、『他力の信心』という、無漏の経験が成立するのです。
 これは、護法の真摯な求道が見出した恩恵であります。勿論、この原理は、護法に先立つ『如来蔵思想』に有りました。人類の永い求道の蓄積に依って、此の様な思想を見出した、『人類の叡智のたまもの』であります。我々は、深く深く先人達の御恩徳を、感謝せずには居られません。

水琴窟 8

水琴窟 八
 問、どうして人を殺してはいけないの。   
答、
 生きものは皆自分の命を大切に護って生きています。だから全ての命あるものは、殺してはいけないのです。所が、生きものは食物を取らなければ生きることが出来ません。ここに生きものの世界の矛盾があります。
 弱肉強食と称して当たり前の事として居ますが、この矛盾の故に生死界は永遠に苦海であります。釈尊は、この生死海の矛盾の解決のために出家されました。
 決論として、『人生は苦なり』との提言が生まれました。この世には、他人を養うために生きて居る者は居ません。其れを殺して食べているのは申し訳無いことであります。  世間の法律では、人を殺せば罰しられますが、此は人間の生きるための最低の約束であります。厳密に言えば、蠅一匹、虫一匹殺してもいけないのです。だから、仏教国の中には、厳しく殺生を禁じている国もあります。日本ではそんな厳しい戒律は護られていませんが、道理としては当然のことであります。
 だから、生きものを殺して平気でいるような生活は慎むべきでしょう。誠に申し訳けない事であります。人を殺しては申し訳ないでは済まされませんが、人以外のものを殺しても良いという道理はありません。今日では、肉や魚は食品として平気で買ってくる訳ですが、せめて、申し訳ないこととして、合掌して頂くべきであります。
 『我今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とによりてこの浄き食を得く・・・』と称えて食事を頂いていますが、『衆生の恩恵』の中にはあらゆる動植物の命が入っているのです。この恩恵が無くては、一日も生きることが出来ないこの身であります。
 思えば、私が今日まで生きる為にどれだけの命を取って食べて来たか、生きることは罪深いことであります。罪深い身であることを自覚して、生きさして頂くことしか出来ない私です。
 世間の法律で、人を殺してはいけないと決められていることには、もう一つ別の意味もあるのです。即ち、人間は、人間に生まれたことを尊重しなければならないのです。これも人間以外の生きものにも通用することでありましょうが、人間は人間に生まれたことを大切にし、尊重すべきであると言うことです。
 それは人間だけが『万物の霊長』であるからではありません。人間以外の生きものにも共通したものです。若し人間以外の動物や植物にも、教えがあるとすれば、同じように説かれている筈です。
 人間は他のものに特別に迷惑をかけて生きねばなりませんが、それでも人間に生まれたことを感謝し、尊重すべきであります。私が私であることに無上の歓びと感謝をもって生きるべきであるというのです。
 若し其れが出来ないとすれば、私は私であることに不満や呪いをもって生きることになります。『私は生まれて来なった方が良かったのだ。』と言う人がいます。其れは不幸なことです。ただ一度だけの貴重なこの人生が、不平や不満。怨みと後悔だけに終わるのではまことに悲しいことなのです。
 『本願力に遇いぬれば、空しく過ぐる人ぞなき。』と和讃に言われています。折角の人生が、空しく終わることほどの不幸はありません。 
 『観仏本願力、遇無空過者』と天親菩薩の願生偈に説かれるのを受けて、親鸞聖人は、入出二門偈に『観彼如来本願力、凡愚遇無空過者』と言い、『凡愚』と言う言葉を加えています。天親菩薩は凡愚とは言っていません。親鸞聖人が態々『凡愚』と言う言葉を加えたのは、本願力に遇うと言うことは、凡愚の自覚に於いて成就するからです。本願力に遇うたことが事実なら、必ず其処には、凡愚の自覚が生まれるのです。凡愚の自覚が無いとすれば、本願力に遇うたと言うことが観念に過ぎないのです。
 本願力に遇うことによって、凡愚の自覚に徹する者にして、初めてそこに『遇無空過者』の天地が誕生するのです。
 人を殺してはいけないのは、相手に迷惑をかけるからだけではありません。自分の生きて居る意味も踏みにじる事になるからです。人間は、他人に迷惑をかけることには何とも思わない人でも、自分が生きて居る意味を踏みにじられることには耐えられないものです。
 本願力に遇うことによって、私自身の生きて居る意味がはっきり知らされた時、初めて、『遇無空過者』と名乗ることが許されます。
 他人の命を大切にすることは、同時に自分の命も大切にすることです。地球上の一切の生物は、お互いに他の命を尊敬し、愛し合って生きるべきであります。所が、生きるためには、他の命を奪って生きねばならないという『痛ましい現実』があります。それだけで、私の人生は『罪悪深重』であります。其の痛ましい現実から目をそらせて生きて居ることの浅ましさに気づく時、念仏申すより外にはありません。
我々は食事をする時に合掌して食前の言葉を称え、食べ終わって食後の言葉を称えて居ますが、謹んで、食の由来を想い、食の功徳を感謝すべきであります。数え切れないものの命を取って、今日まで生き永らえることが出来たのです。誠に申し訳ないこの身であります。  
 従って、我が身を大切にすることと共に、他の命を頂いて生きて居ることの意味を知って、他の命を大切にするよう心がけて生きたいものです。人を殺すことだけが罪になるのは、一応この世の約束ですが、本来、一切のものの命を大切に尊んで生きるべきであります。其れが人間としての、大切な生き方であります。
 其れで仏教では『殺生戒』を戒律の一番最初に挙げて戒めているのです。人を殺してはいけないのは、罪を受けるからではありません。罪を受けることさえ免れれば人を殺しても善いという論理は本来無いのです。
 戦争が永く続いて、人を殺すことが平気で許される時代になりました。この事だけでも、人間の世界が浅ましい地獄道であることが証明されているわけです。
 日本では憲法で戦争を否定されていますが、其れでは生きてゆけないと言うことで、戦争復活の運動が起こって来ました。誠に悲しいことでありますが、人の世では、戦争を止めては生きられないのでありましょうか。平和についてもっともっと良く考えて行かなければなりません。誰も戦争を求めているものは居らない筈ですが、戦争は無くないません。どうすれば戦争が無くなって平和な時代が来るのか、人類の永遠の難しい課題であります。
 人類はこの課題を解決することが出来ない儘に、殺し合いを続けて行って、遂に滅亡して行くのでしょうか。
 仏教は、戦争のない国を創るために生まれた筈ですが、その使命を果たす事が出来無い儘で今日まで来ました。誠に悲しい事実であります。私もこの度の戦争に荷担した者であります。人間が殺し合う事実を眼のあたりにした経験の持ち主です。馴れてしまえば、人が死ぬる事など何でもないことに為ってしまいます。本当に恐ろしいことです。
 敗戦になって、やっと人間らしい心を取り返してみて、戦争の痛ましさが身にしみ、二度とこんな経験はしたくないと心に決めました。所が、戦後七十年たってみると、又人間は戦争を始めようとしています。よくよく人間は戦争をしなければ生きられない動物なのでしょうか。
 戦争の経験者である我々が戦争の惨めさを、もっともっと語っておかなければ為りません。敗戦の当時は、日本人はその事を痛切に感じた筈ですが、『喉元過ぎれば熱さを忘れる』の喩えのように、今の日本人は戦争の苦しみをすっかり忘れてしまいました。
 人間が、我執の故に殺し合いを続けている事実を、何処までも、何処までも、悲しい事実であると、本当に目覚める日が来ることを、心より願う者であります。

水基金 9

   水琴窟 九
 問、『群生海に回施したまへり』とはどう言うこと
答、
信巻には、三一問答と言われて『如来の至心を以て、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり』とあります。 (12の68、71、75)   
 三一問答には、それぞれ『如来の至心を以て』『無碍広大の浄心を以て』『利他真実の欲生心を以て』、『群生海』『諸有海』に回施したまへりと言われています。
回施というのは、回向とも言われ、相手に何かを与えることです。信巻では、真実心のない我々に真実を与えて下さると言うことであります。
 そこで、真実心のない我々に真実心を与えると言うことについて考えてみることにします。
 観無量寿経では、阿弥陀仏の国に生まれたいと願う者は、まず『至誠心』を起こせと教えています。至誠心は中国で最も尊敬されていた言葉であります。善導大師は、註釈して、 『経にのたまわく、一者至誠心、至は真なり、誠は實なり、一切衆生の身口意業の所修の解行、必ず須く真実心の中に作すべきことを明さんと欲す』と言います。【須は、すべからくと読み、必須という意味です】
 これは常識として誰でも納得することです。観無量寿経はここから出発するのです。『私も至誠心を起こして頑張って見よう』と。これが宗教の出発点です。
 人生は何事も至誠心が大切です。『至誠天に通ず』と言われて、天の神も認めてくれる訳です。至誠の心で、努力を尽くして頑張れば、何事もからず成就する筈だというのです。所が、理想はそうでも現実はそれ程うまくはありませんから、何度も失敗するのですが、それでも又立ち上がって努力を続けるのです。努力を続けることが至誠心そのものであります。
 人生はまさにこの悪戦苦闘の連続でありますが、然し、何度やっても失敗ばかりが続くと、遂に疲れて努力精進を止めてしまいます。悪戦苦闘を何処まで頑張って続けるかと言うことが、その人の人格の評価になります。
 また、頑張ればある程度の効果が現れてきますから、他人と比べてこれで良しとするか、自分は駄目だとなるか、評価は人それぞれでしょう。
 人の一生は、この至誠の心で頑張れば何とか立派にやれるはずだと言う信念から出発すべきであります。初めから真実など無いものだと言うのは、ニヒリズムでありまして、自己も人生も破壊する思想です。
 ですから、仏教も至誠心を起こせと言う教えから出発するのです。仏教はニヒリズムではありません。所が仏教の叡智は、人間には真実など無いことを先刻看破していました。然し、いきなり其れを告げることは致しません。先ず、真実心で努力して見よと勧めるのです。これこそ、仏教独特の親切であります。
 聖道門の仏教は、至誠心で初めよと言うのです。観無量寿経は聖道門の基礎から出発するので、先ず至誠心を起こせと説きます。そうして次に『深心』です。三番目が『回向発願心』で有ります。『回向発願心』は、阿弥陀仏の浄土に往生を願うのですが、この場合の浄土は人間が考えた理想郷であります。金銀財宝で飾られた理想の世界です。
 至誠の心で、深く念じて、理想の世界を目指して昇って行く、其れが人間の考える『幸福への道』であります。
 法然上人は専修念仏を勧められます。専修念仏とは、聖道門の修行を止めて、念仏一行に改めよと言うのです。其れまで聖道門を本来の仏教と心得ていた人々に、念仏一行を勧めるのですから、反論が起こるのは当然です。
 『幸福への道』はこれしか無いと信じてきた人々は、とても捨てることは出来ないのです。然し、幾ら信じていても、幸福が達せられないのです。親鸞が、意を決して法然門下に身を投じたのは、聖道門では仏道は成就し得ないとはっきり決断したからです。
 親鸞聖人が法然門下に入る決断をした時、既に、聖道門からの法然批判は一触即発の状態でありました。だから二百日もの時間を懸けての決断を要したのです。果たせるかな、親鸞聖人が法然の門下に入って間もなく、聖道門からの法然批判は厳しさを増し、法然上人は天台宗に七ケ条の誓文を提出して、門下に自戒を求めます。親鸞聖人もその一員として名を連ねて居ます。
 然し時代の流れは止めることが出来ません。法然門下を糾弾して、法然門下の数名を、死罪・流罪にしましたが、念仏の教えは次第に力をつけ、度々の禁止令にも関わらず、遂に日本全国に弘まりました。 
 此は、念仏の教えが、如来真実の回向の法であるからであります。そこで、『如来真実の回向の法』について考えてみましょう。
 仏教の智慧は、人間に真実の無いことを見抜いていましたが、それを直ちには語らないと言いました。其れが仏教の親切であるとも言いました。
 然し、真実の無い衆生に真実を与えることが如来の願いでありますから、どうすれば其れが可能か、如来は考えたのです。此は容易なことではありません。なぜかと言えば、衆生は『真実は我にあり』と固く信じているから、今更真実を与えてもらわなくても結構だと言うのです。
 この人間の心は、『今はなくても、努力さえすれば、きっと理想が達成出来るはずだ』と言う固い信念です。此が人間が生まれる前から持っている理想主義です。この理想主義が崩れたらニヒリズムですから、崩されないように堅く守っている訳です。
 地獄に落ちるという怖れは、理想主義が崩されてニヒリズムに落ちる事を言うのです。昔、三人の方が集まって寄せ書きをした時に、一番最初の方が『地獄に落ちる』書きました。次に方が『儂が落ちる』と書きました。最後の人は宮城顗先生の父上ですが、暫く考えていられたが、『仏も落ちる』と書かれたと言うことを聞いた事があります。     側で見ていた人は、姫路の藤元正樹さんですが、驚いたと語って聞かせてくれました。『地獄に堕ちる』などと言うことは容易の語られる言葉ではありません。親鸞聖人は『地獄は一定、住み家ぞかし』と言いました。其れを読んで驚いてフランスから遙々日本まで尋ねてきた人まで居ました。 
 私達は、馴れてしまって『地獄一定』聞いても驚きませんが、実は此は大変なことなのです。理想主義が崩れることなのです。其処には、ニヒリズムしか残って居ないのです。
而も『仏も落ちる』とまで言われて、驚いたと言うことです。 (続く)

水琴窟 8

水琴窟 八
 問、どうして人を殺してはいけないの。   
答、
 生きものは皆自分の命を大切に護って生きています。だから全ての命あるものは、殺してはいけないのです。所が、生きものは食物を取らなければ生きることが出来ません。ここに生きものの世界の矛盾があります。
 弱肉強食と称して当たり前の事として居ますが、この矛盾の故に生死界は永遠に苦海であります。釈尊は、この生死海の矛盾の解決のために出家されました。
 決論として、『人生は苦なり』との提言が生まれました。この世には、他人を養うために生きて居る者は居ません。其れを殺して食べているのは申し訳無いことであります。  世間の法律では、人を殺せば罰しられますが、此は人間の生きるための最低の約束であります。厳密に言えば、蠅一匹、虫一匹殺してもいけないのです。だから、仏教国の中には、厳しく殺生を禁じている国もあります。日本ではそんな厳しい戒律は護られていませんが、道理としては当然のことであります。
 だから、生きものを殺して平気でいるような生活は慎むべきでしょう。誠に申し訳けない事であります。人を殺しては申し訳ないでは済まされませんが、人以外のものを殺しても良いという道理はありません。今日では、肉や魚は食品として平気で買ってくる訳ですが、せめて、申し訳ないこととして、合掌して頂くべきであります。
 『我今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とによりてこの浄き食を得く・・・』と称えて食事を頂いていますが、『衆生の恩恵』の中にはあらゆる動植物の命が入っているのです。この恩恵が無くては、一日も生きることが出来ないこの身であります。
 思えば、私が今日まで生きる為にどれだけの命を取って食べて来たか、生きることは罪深いことであります。罪深い身であることを自覚して、生きさして頂くことしか出来ない私です。
 世間の法律で、人を殺してはいけないと決められていることには、もう一つ別の意味もあるのです。即ち、人間は、人間に生まれたことを尊重しなければならないのです。これも人間以外の生きものにも通用することでありましょうが、人間は人間に生まれたことを大切にし、尊重すべきであると言うことです。
 それは人間だけが『万物の霊長』であるからではありません。人間以外の生きものにも共通したものです。若し人間以外の動物や植物にも、教えがあるとすれば、同じように説かれている筈です。
 人間は他のものに特別に迷惑をかけて生きねばなりませんが、それでも人間に生まれたことを感謝し、尊重すべきであります。私が私であることに無上の歓びと感謝をもって生きるべきであるというのです。
 若し其れが出来ないとすれば、私は私であることに不満や呪いをもって生きることになります。『私は生まれて来なった方が良かったのだ。』と言う人がいます。其れは不幸なことです。ただ一度だけの貴重なこの人生が、不平や不満。怨みと後悔だけに終わるのではまことに悲しいことなのです。
 『本願力に遇いぬれば、空しく過ぐる人ぞなき。』と和讃に言われています。折角の人生が、空しく終わることほどの不幸はありません。 
 『観仏本願力、遇無空過者』と天親菩薩の願生偈に説かれるのを受けて、親鸞聖人は、入出二門偈に『観彼如来本願力、凡愚遇無空過者』と言い、『凡愚』と言う言葉を加えています。天親菩薩は凡愚とは言っていません。親鸞聖人が態々『凡愚』と言う言葉を加えたのは、本願力に遇うと言うことは、凡愚の自覚に於いて成就するからです。本願力に遇うたことが事実なら、必ず其処には、凡愚の自覚が生まれるのです。凡愚の自覚が無いとすれば、本願力に遇うたと言うことが観念に過ぎないのです。
 本願力に遇うことによって、凡愚の自覚に徹する者にして、初めてそこに『遇無空過者』の天地が誕生するのです。
 人を殺してはいけないのは、相手に迷惑をかけるからだけではありません。自分の生きて居る意味も踏みにじる事になるからです。人間は、他人に迷惑をかけることには何とも思わない人でも、自分が生きて居る意味を踏みにじられることには耐えられないものです。
 本願力に遇うことによって、私自身の生きて居る意味がはっきり知らされた時、初めて、『遇無空過者』と名乗ることが許されます。
 他人の命を大切にすることは、同時に自分の命も大切にすることです。地球上の一切の生物は、お互いに他の命を尊敬し、愛し合って生きるべきであります。所が、生きるためには、他の命を奪って生きねばならないという『痛ましい現実』があります。それだけで、私の人生は『罪悪深重』であります。其の痛ましい現実から目をそらせて生きて居ることの浅ましさに気づく時、念仏申すより外にはありません。
我々は食事をする時に合掌して食前の言葉を称え、食べ終わって食後の言葉を称えて居ますが、謹んで、食の由来を想い、食の功徳を感謝すべきであります。数え切れないものの命を取って、今日まで生き永らえることが出来たのです。誠に申し訳ないこの身であります。  
 従って、我が身を大切にすることと共に、他の命を頂いて生きて居ることの意味を知って、他の命を大切にするよう心がけて生きたいものです。人を殺すことだけが罪になるのは、一応この世の約束ですが、本来、一切のものの命を大切に尊んで生きるべきであります。其れが人間としての、大切な生き方であります。
 其れで仏教では『殺生戒』を戒律の一番最初に挙げて戒めているのです。人を殺してはいけないのは、罪を受けるからではありません。罪を受けることさえ免れれば人を殺しても善いという論理は本来無いのです。
 戦争が永く続いて、人を殺すことが平気で許される時代になりました。この事だけでも、人間の世界が浅ましい地獄道であることが証明されているわけです。
 日本では憲法で戦争を否定されていますが、其れでは生きてゆけないと言うことで、戦争復活の運動が起こって来ました。誠に悲しいことでありますが、人の世では、戦争を止めては生きられないのでありましょうか。平和についてもっともっと良く考えて行かなければなりません。誰も戦争を求めているものは居らない筈ですが、戦争は無くないません。どうすれば戦争が無くなって平和な時代が来るのか、人類の永遠の難しい課題であります。
 人類はこの課題を解決することが出来ない儘に、殺し合いを続けて行って、遂に滅亡して行くのでしょうか。
 仏教は、戦争のない国を創るために生まれた筈ですが、その使命を果たす事が出来無い儘で今日まで来ました。誠に悲しい事実であります。私もこの度の戦争に荷担した者であります。人間が殺し合う事実を眼のあたりにした経験の持ち主です。馴れてしまえば、人が死ぬる事など何でもないことに為ってしまいます。本当に恐ろしいことです。
 敗戦になって、やっと人間らしい心を取り返してみて、戦争の痛ましさが身にしみ、二度とこんな経験はしたくないと心に決めました。所が、戦後七十年たってみると、又人間は戦争を始めようとしています。よくよく人間は戦争をしなければ生きられない動物なのでしょうか。
 戦争の経験者である我々が戦争の惨めさを、もっともっと語っておかなければ為りません。敗戦の当時は、日本人はその事を痛切に感じた筈ですが、『喉元過ぎれば熱さを忘れる』の喩えのように、今の日本人は戦争の苦しみをすっかり忘れてしまいました。
 人間が、我執の故に殺し合いを続けている事実を、何処までも、何処までも、悲しい事実であると、本当に目覚める日が来ることを、心より願う者であります。

水琴窟 7

  水琴窟 『七』
 問、 なぜ毎日勤行するの ? 。お経って意味の解らない言葉ばかりだけれど・・・
 答、
  お経は神話で語られてきたものを、文字が発明されてから文字に写されたものです。ですから、神話的表現が多く見られます。之は理性では語りきれないものを神話で語るのです。我々人類は言葉を持って意志を伝えることを習得しました。
 文字は重宝ですが時代や民族の違いで読めなくなります。矢張り言葉で伝える事が大切な方法でしょう。
 日本では文字は中国から伝えられましたので、中国語で表現することが基盤になっていて、仏教も中国語で伝えられました。その為、中国語と日本語が混ざり合ってしまいました。その為に中国語で書かれたお経を、日本語に翻訳しないでその儘用いることにしましたので、現代人には分かり難いことになりました。
 昔は、漢文の学習に時間をかけて勉強したものです。然し現代では、漢文より英語の方が優先されますから、漢文は益々厄介なものに成りました。
 所が、仏教を学ぶためにはどうしても漢文が必要ですから、努力して学ぶ必要があります。文字の持つ厄介な問題です。
 先ず、言葉による聞法が大切です。或る程度お話が解るようになれば、漢文も読めるようになります。
 所で、勤行ですが、毎日勤行をするように喧しく言われてきました。その事について考えてみましょう。
 我々は求道者として生きるためには、法に従い法に聞き法を実践して生きるのであります。その為には常に法を聞き続ける事が望まれます。これを仏の前なる生活と言います。法を聞くことが疎かになれば、勢い自分の思いが中心になり、我執に引き回される生活になります。
 そこで、我執中心の生活から引き戻して、法中心の生活に立ち返るためには、法を忘れた生活から、法を憶念するために勤行を怠らないことが求められます。勤行は、法に遇うための日常の勤めです。ですから勤行をする時は、只、礼拝をしたり、お経を読むだけでなく、自分に親しめる仏書を少しずつでも読むように心がけたいと思います。
 仏の前なる生活を続けるために、勤行を是非欠かさず続けて行きたいものです。
私は住岡夜晃先生のお育てにより、光明団の諸先生の恩恵を受けてきましたが、同時に東本願寺の、曾我量深先生、金子大栄先生を初め、安田理深、蓬茨祖運、仲野良俊、平野修と言う諸先生の篤い薫陶を受けてきました。此等の諸先生のお蔭で今日の私は在ります。従って、此等の諸先生方の書物を拝読することが、私にとって最も親しいものであります。特に最近は、宮城顗先生の物を愛読しています。矢張り同じ先生にお育て頂いた者同志ですから愛着があるのでしょう。
 勤行には、本堂では、朝は夜晃全集、夜は宮城顗選集を、お内仏では、光明を拝読しています。こうして、仏法の御縁にお会いすることによって、お念仏が新しく申されます。これこそ、勤行の徳であります。どうか勤行を大切に続けて下さい。
 勤行は、仏徳の讃嘆でありますが、讃嘆というのは、唯、仏徳を褒めて居れば善いというのではありません。仏の徳を褒めるとは、仏の教えを頂くことです。仏の教えを頂くことは、仏の教えによって私の内に内観の眼を注ぐことであります。従って内観の眼によって見えてくる我が身の実相に醒めることであります。
 其処に見えてくるものは、我が身の想いも染めぬ実相であります。日頃、自覚されている我が身の姿は、よい加減のもので、自分もまんざら捨てたものでも無いと思っていたのですが、仏法の鏡の前に出てみれば、浄玻璃の鏡でありますから、隠すことなく私の実相が映し出されるのであります。これは凡夫の身には辛いことでありますので、その為に、勤行をしたくない心が起こるのでありましょう。
 勤行を続けるようにやかましく注意される理由が其処にあります、辛くても勤行を続けることが精進であります。  
 朝夕の勤行を続けることが聞法の初めであります。勤行を怠る時、聞法も疎かになります。
 『継続は力なり』と言われますが、継続は仏力によって生まれます。継続こそ仏力の働いて居て下さる確かな証拠でありましょう。
勤行は聞法の初めでありますが、矢張り会座に参加して、親しく教えを聞き抜く事が無くては聞法になりません。会座に参加して聞法を続けた効果を確認し憶念することが勤行の意味であります。

水琴窟 6

  水琴窟 『六』
問、どうして南無阿弥陀仏というの、何かの呪文 ? 。
答、
南無阿弥陀仏は、素晴らしい言葉です。人間は言葉を用いることを憶えま
した。
 言葉を自由に操ることが出来るようになったお蔭で、人類は素晴らしい文明
を築く事が出来たのです。即ち、言葉で意志を伝える事が出来るようになり、
先輩の経験を蓄積出来るのです。折角素晴らしい事を経験しても其れを次の人
に伝える事が出来なければ、その人が死んでしまえば消えてしまいます。言葉
で伝える事が出来て、先人の尊い経験が蓄積出来たのです。
 先輩達は、自分の得た経験を言葉によって後輩に伝えました。その時用いた
方法が神話です。人間が生きるための大切な智慧を、神話によって伝えたので
す。ですから神話と言って馬鹿にしてはいけません。今日、神話学の発展によ
って神話の素晴らしい事が見出されています。
 仏教の経典も、元は、神話として語られていたものを、後に文字が発明され
て文字で書かれたのです。その為に、経典には神話的要素が多く含まれていま
す。荒唐無稽な表現がしてあるように思うかも知れませんが、神話的表現の巧
みな表し方に驚かされます。
そこで、南無阿弥陀仏ですが、この言葉の背後には、無量寿経という経典
がありますので、其れを無視しては意味が解りません。然し今其れを語るのは
大変ですから、後日ゆっくり語ることにして、今は当面の大切なことだけを申
します。
 先ず、南無阿弥陀仏は、如来の呼びかけであります。我々は、生まれてくる
以前から、深い闇の中にいます。そんなことは少しも感じないで居ますが、智
慧を持った人から見れば、無明という深い闇に覆われて居るのです。その証拠
に、色々の悩みを持っていて、苦しんでいるのです。
 世の中には苦しみなんか感じないという人も居ますが、殆どの人は何らかの
苦しみや、悩みを抱えているものです。『其れは俺が悪いのではない、世の中
が悪いのだ』と言います。確かに悪いやつが随分居ますから、そのせいで私が
苦しむのですが、幾ら恨んでも、非難しても、私の苦しみは一向に無くなりま
せん。逃げても逃げても駄目です。
 私に降りかかった苦しみは、私が受けていかねばならないのです。そんな理
不尽なことはとても我慢が出来ないと言いますが、泣いても、喚いても、苦悩
は厳然として迫ってきます。之は厳粛なこの世の現実です。
 この現実を、くまなく知りつくしているのが、如来の智慧であります。この
如来の智慧によって見出された世界を、『生死の苦海』と言うのです。この生
死の苦海を乗り切って、安穏な向こうの岸まで辿り着くことが仏教の目標で
す。
 この為には、生死の荒波を抜き手を切って泳ぎ切ることが出来なければなり
ません。それだけの能力があるものは其れも可能でしょうが、能力がなければ
途中で溺れるより道はありません。昔から殆どの人が溺れてしまったのです。
 そこで、多くの人が、この難題に取り組みました。中々渡りきる者が居ませ
ん。渡りきった人の代表が釈迦牟尼如来であります。ですから皆、釈迦に倣っ
て、荒海に飛び込むのですが、一人も成功した者が居ないのです。
 竜樹菩薩もその一人でありました。竜樹菩薩は悪戦苦闘のあげく、遂に重大
なことを発見したのです。
不退のくらいすみやかに えんとおもわん人はみな
恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし
(竜樹和讃、11-23)
 之は竜樹の作である『十住毘婆沙論』に述べられたものを、親鸞聖人が和讃
にしたものであります。『十住毘婆沙論』は竜樹の晩年の作ではないかと思わ
れますが、竜樹の課題であった『不退の位』を得る道が、遂に見つかったとい
うのです。
 其れが『弥陀に名号称すべし』と言うことです。名号を称するとはどういう
事でしょうか。
 只、声に出して何かをとなえるのであれば、『唱える』と言います。『呪
文』は唱えるものです。日蓮上人は『唱題目』を勧めました。『南無妙法蓮華
経』と法華経の題目を声を出して唱えればよいと言うのです。 
 然し『称』と言う字には『はかり』と言う意味があります。『はかり』とは
物の軽重を測ると言う意味です。自らの罪の重さを量り知るのです。また弥陀
の御恩の深いことを測り知るのです。
 南無阿弥陀仏を称えることは、阿弥陀仏の光明を褒め讃えることです。光明
を褒めるとは、光明に照らされて我が身の罪業深重を知らされることです。
 従って、弥陀を讃嘆することは、我が身の罪業を懺悔することです。其処に
自ずから弥陀の浄土に生まれたいという心が生ずるのです。
 其れで、『称仏六字と言うは、即嘆仏、即懺悔、即発願回向・・・』と言わ
れています。
 『称名』の前に『聞名』があるのです。『聞名』とは、名号のいわれを聞き
開くことです。通り一遍に聞いても解りません、聞いて聞いて、聞き抜く必要
があります。
 『何故、南無阿弥陀仏と言うのか』との問でありますが。南無阿弥陀仏は、
如来の呼びかけであると申しました。
 如来は名号を以て衆生を助けんと誓っているのです。名号は言葉です。名を
聞くと言うことは、仏の教えを聞く事です。教えを聞く事によって我が身の事
実に目覚めます。我が身の事実は、私が自覚しているものと大いに違ってい
て、煩悩具足、罪業深重の事実であります。そんなこと、露塵程も気づかずに
生きて居るのが我々です。
 我が身の事実に目覚めた者は、如来の呼びかけに答えて念仏するのです。念
仏が申されないのは、教えを聞いていないからです。
 念仏の『念』という字は、憶念です。憶念と言うのは、仏の教えを聞いて、
心に常に想い念ずることです。其れを、『仏の前の生活』と申します。
 念仏は呪文ではありません。仏の教えを憶念することです。その為には、念
仏を称えることが最も良い『縁』になるのです。   
 夜晃先生は、『念仏して、愛憎善悪の心を浄土に流せ』と教えられました
愛憎善悪の心に振り回されて、右往左往して居る私ですが、このみ教えを思い
出して、念仏の生活を続けたいものです。

水琴窟 4

  水琴窟 『四』
 問 阿弥陀様って何、そんな方が何処かに居るの ?、
   神さまとはちがうの ? 。
 答、
阿弥陀様とは、浄土真宗で御本尊として礼拝している仏さまです。
 キリスト教やイスラム教の神様とも違い、日本の神道の神々とも違う、独自の神格を持った存在であります。
 キリスト教やイスラム教の神様は、一神教と言って、唯一の神『ヤーウエー』だけが、神様として認められていて、他の一切の存在は神様によって作られた、『神の被造物』とされています。従って、神様の絶対威光の前に服従すべきものとされています。
日本の神様は、この世のあらゆるものの内に宿っている様々な神々で、八百万の神と言われ自由自在に活躍している神様です。
 これに対して、阿弥陀如来は、一神教の神様と同じような威光を持ちながら。決して、唯一神と主張せず、一切衆生を自らと同じ仏とすることを誓って仏に成りました。
 阿弥陀如来は、因位の修行をして、仏と成るという成仏の過程が説かれて居ます。元来、神様にはそんなことは説かれないものです。初めから神としてこの世に君臨するものです。
 所が阿弥陀仏には因位の修行が説かれるのです。是は我々衆生は深い迷いのために苦しんでいるのですが、その迷いの自覚がありませんので、唯いたずらに苦しみ藻掻いています。そこで、阿弥陀仏は態々仏の世界から迷いの我々の世界まで降りてきて、我々と共に迷いの中にあって迷いの自覚を促して、迷いから脱出せしめようとするのです。これを因位の修行というのです。
阿弥陀仏という人がいるのではありません。阿弥陀仏の働きがあるのです。其れを神話
的に表現して、阿弥陀如来というのです。神話の世界では、色々の働きを表すために、人に譬えて語るのです。阿弥陀如来も、法の働きを表現するために説かれたものであります。
 阿弥陀如来は、久遠実成の仏と言われ遠い昔から仏でありますが、衆生のために凡夫の世界へ降りてきて、法蔵菩薩となり、誓願を立て修行をして阿弥陀仏と成るのです。其れを十劫成仏の阿弥陀と申します。此は偏に我々衆生の為の御苦労です。
 阿弥陀とは、無量という意味で、光明無量と寿命無量を表します。光明無量は、限りなく衆生の無明の闇を照らして、闇深き衆生を呼び覚ます働きであり、寿命無量は衆生に、生きて居ることの意味を知らす働きであります。命を与えられて生きて居ることの尊厳に目覚めさせる働きを寿命無慮と言います。
 この阿弥陀仏の御働きによって、衆生は自らの存在意義を知らされ、生きる事の意味を知り、人生を全じて行けるのです。是を、『この世を空しく過ぎる事無く、功徳に満ちた人生』と言います。
 その為には、仏の教えを聞くことです。仏の光に会うとは、仏の教えを聞くことです。初めは中々解りませんが、それでも頑張って聞き続けると次第に解るようになり、教えを聞くことが楽しくなるのです。其れまで辛抱強く聞き抜いた人は、仏から『我が善き親友である』褒められます。是非其処まで聞いて下さい。
 キリスト教では、『神の奴隷になる』と言いますが、仏教では、『仏の善き親友になる』と言うのです。前者は、絶対服従を意味し、後者は、互いに尊敬し合う関係です。それを『仏と仏が相い念じたもう』(仏仏相念)世界であると言います。ここに一神教の神と阿弥陀如来との重要な違いがあります。
 キリスト教の一神教に対して、阿弥陀如来の教えを『二尊教』と申します。釈迦弥陀二尊の教えというのです。釈迦を離れて阿弥陀仏はなく、阿弥陀仏を離れて釈迦はありません。其れはいったい、何う言うことでしょうか。
 観無量寿経の第七華座観に『仏当に汝が為に除苦悩法を分別解説すべし。・・・』と説くと、『この語を説きたもう時、無量寿仏空中に住立したもう』と説かれて居ます。是を『応声即現』と申します。釈迦の説法の声に応じて直ちに阿弥陀仏が姿を現したと言うのです。
 釈迦は阿弥陀仏の徳を讃嘆するのです。その言葉に応じて阿弥陀は現れるのです。釈迦は諸仏の一人です。諸仏の讃嘆に依らなければ阿弥陀仏は現れようがないのです。
 阿弥陀仏は法の働きでありますから、法を信奉し、法を生きて居る者によって証明されるのです。何処かに阿弥陀仏という方が存在して居るのでなく、諸仏が讃嘆することによって、阿弥陀仏の存在が証明されるのです。諸仏の讃嘆とは念仏を称える事です、諸仏の念仏の中に阿弥陀仏は存在するのです。
 阿弥陀仏を、絵像や木像で表すのは、礼拝の対象として仮に姿を以て現しているので、木像の様な方が何処かにいらっしゃると思う者が居れば、其れは対象化と言って、偶像崇拝で、真実の信仰ではありません。 
 『当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号と言えり』と言って、礼拝の対象も名号を良しとします。これは、宗教的儀式には、必ず礼拝が必要ですが、浄土真宗では名号を大切にしている訳です。キリスト教や、イスラム教では、偶像崇拝を厳しく戒めていますが、儀式には礼拝の対象が必要ですので、十字架や、メッカの方角に向かって礼拝をすることになっています。其れも偶像崇拝の一種でありましょう。仏教徒が仏像を拝むことを偶像崇拝だと否定するだけでは無意味であります。偶像崇拝の真の意味に目覚めなければなりません。
 名号を礼拝するのは、偶像崇拝を否定するためです。本尊を対象化して高く掲げ、是に向かって祈り、人間の要求を果たそうとする事こそ、偶像崇拝であります。神と人間の欲望の取引であります。人間の欲望を超えさせるものではありません。
 名号を礼拝することは、如来の光明に遇うことです、如来の光明は、衆生我々の深い迷いを照らし出して、罪業深重の目覚めを促すことです。故に、如来に向かって合掌礼拝する者は、自己の罪悪深重を知り罪業を懺悔するのです。
 念仏は、仏徳讃嘆ですが、そのまま罪障懺悔になるのです。諸仏が念仏する時、諸仏は諸仏の座を捨てて罪業深重の衆生になるのです。念仏は、只、声を出して南無阿弥陀仏と唱えていればよいのではありません。本願のいわれを聞き開いて、自己の罪業にさめ、安楽国に往生を願うことであります。
 安楽国に往生を願うという問題については、稿を改めて考えることに致します。 

水琴窟 5

  水琴窟 『五』
問、浄土と言うけれど、そんな世界があると本当に思っているの 。天国とど
う違うの。 ? 
答、
 阿弥陀仏の浄土と言うのは、神話的表現です。所がこの神話には耳を傾け
る必要があるのです。其れに就いて考えてみましょう。
 神話によれば、元、国王であった方が、世自在王仏の教えを聞き感動して、
王位を捨て一切のものを投げ捨てて修行者になり、苦しみに喘いでいる人々を
救いたいと言う願を起こし、遂に阿弥陀如来となられたと語られています。そ
の阿弥陀如来の国を阿弥陀の浄土と言い、苦しみ悩んでいるものに『我が国に
生まれてこい』と呼びかけていると言うのです。
 その為に、この浄土には種々の宝が完備していて、ここに生まれた者は、永
遠の幸せを得ることが約束されているのです。是を聞く限り『天国』と変わり
ないと思われます。所が、天国と全く違った事が説かれて居るのです。
 天国は、人間の欲望が全て満たされる世界で、仏教では『天上界』と言いま
す。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの境界を全て迷いの世界と
なづけて、六道輪廻と言います。従って、天上界も迷いの世界です。天上界に
は、『今受けている幸せを失う』という苦しみがあるのです。其れを『天人五
衰の苦しみ』と言います。その苦しみは地獄の苦しみより酷く、地獄の苦しみ
の十六倍であるとされています。
 阿弥陀の浄土は、六道を超えていますので苦しみのない世界です。苦しみが
ないと言うことは、楽しみもないことです。人間の考える苦楽を超えた世界で
す。そんなところではさぞ退屈するだろうと考えるのは人間の考えで、浄土に
は『退屈』もないのです。
 さて、如来は何故浄土を建立するのでしょうか
 其れは、生活の場を成就するためです。人間は生きるために生活の場が必要
なのです。丁度生きて働くためには、大地が必要なように、生活には生活の場
が必要です。私達は、生死の苦海を場として生きて居ます。その為に、生きる
ことは苦しみであります。この衆生を哀れんで、新しい苦しみのない場を提供
しようというのです。
 如来は先ず、地獄餓鬼畜生のない国を作りたいと願います、地獄餓鬼畜生は
我々の現実人生の事実です。是は薬師如来の十二の本願と同じものです。阿弥
陀如来はここから出発して更に次々と浄土建立の願いを展開していくのです。
こうして四十八の誓願を立て、願成就して建立されたのが阿弥陀仏の浄土であ
ります。
 阿弥陀仏は、『我が国に生まれて来い』と私達に呼びかけているのです。こ
の阿弥陀仏の浄土に往生することが、生死の苦海を離れて、仏と等しい悟りを
得る最上の方法であります。浄土に往生したものはどうなるのかと言いまと、
天親菩薩は、『直ちに大悲の心を興して、衆生を助けるために娑婆世界に帰っ
てくるのだ』と、言われています。
 浄土に往生することを『願作仏心』と申します。願作仏心を興せば直ちに
『度衆生心』を興すと言われます。度衆生心とは、大悲の心を以て衆生を救う
働きです。
 折角浄土の往生しても、すぐ又娑婆に帰ってくるのでは何にもならないでは
ないかと考えるのは、人間の浅はかさであります。一度浄土に往生したもの
は、二度と迷いに沈むことはありません。だから娑婆に帰っても迷いの衆生で
はありません。仏と同じく思う様に衆生済度が出来るのです。ここに、永遠の
命の躍動があります。
 『地上の生の終焉は、永遠の生の出発である』と言われています。地上の生
の終焉とは、肉体の死ではありません。浄土に往生するという意味です。する
と直ちに衆生済度の為の生が始まるのです。其れを永遠の生と言います。此の
様な生き方を往生浄土と言います。
 往生浄土と言っても、何処か別の世界に行くのではありません。生き方が、
『滅び行くだけの生き方』から、『永遠に滅ぶことのない生き方』に変わるこ
となのです。
 天親菩薩は、『願生偈』に、浄土の荘厳を『三厳二十九種』として説かれま
した。その一々は、滅ぶことのない生き方を語っています。其れを『願心荘
厳』と言います。如来の悲願が形として顕されたもので、『象徴』とも言われ
ています。
 浄土と言う世界が、何処かにあるのではありません。滅び行くだけの生き方
しか出来ない我々を悲しんで、滅ぶことのない生き方を、形を以て表したもの
です。ですから、浄土の荘厳の一々を学ぶ時、滅ぶことのない人生の深い意義
を知らされるのです。
 我々は、仏法を聞かない内は、ひたすら天国に生まれたいと願っています。
然し、たとい望み道理に天国に生まれる事が出来ても、其処には『五衰の苦し
み』が待っているのです。
 五衰の苦しみとは、五つの衰えに依る苦しみと言うことです。
1,頭上の華が萎む
  2,天衣垢汚
  3,脇下より汗流る
  4,目がくらむ
  5,本居を楽しまず
何れも衰えていく苦しみですが、五番目の『不楽本居』とは本来居るべき所に
安住出来ないのです。うろうろして、何処にも安住出来無くなるのです。これ
らは全て滅び行くものの悲哀です。天上界の楽しみも滅び行くものの悲哀を免
れないと言うのです。まして人間以下の境界は滅び行く悲哀を免れる事は出来
ません。
 六道を輪廻するというのは、いかなる境遇にも安住する事が出来ないと言う
ことです。其れを善導大師は、『無有安心之地』と言いました。安心之地ある
こと無しと言うのです。
 所が、親鸞聖人は、この同じ言葉を『心を安すんずるに、之より地(とこ
ろ)あることなし』と読みました。『何処へ行っても安心の地が無いのないの
なら、ここで安住する方法を見出すしか道はないのだ』と読みました。当に、
『眼光紙背に徹す』と言うべき読み方であります。善導大師の意図も其れに違
いはないというのです。
 何処かに安心出来る所はないかと右往左往するのではない。何処にも安心の
地がないのなら、ここに腹を据えて生きる道を見つけるのだという訳です。其
れは人間の力では駄目です。阿弥陀如来の智慧を賜って信心の智慧によれば可
能な道であるというのです。
 『念仏者は無碍の一道なり』との歎異抄の宣言であります。阿弥陀仏の本願
に生きるものの、何ものにも畏れない堂々たる姿勢であります。      
 往生浄土の生き方とは、此の様に生きる方向を明確に見極めて、なにものに
も妨げられず、苦悩のこの人生を堂々と活き切って行く生き方を与えられるこ
とです。貴方も往生浄土の歩みを果たす一員になってみる気は起こりません
か。

水琴窟 3

  問と答 『三』
問、 宗教と言えば、迷信ばかりではないの ?。(続き)
答 『二』の(続き)    
 迷信は、単に理性的判断で決められるものではありません。正しい信仰心とは何かと言うことを徹底して深く吟味する必要があるのです。
 信仰心と言っても、教えによって色々の信仰が説かれて居るのです。その中で、どれでも良いという訳には行かないのです。人間を正しく導いて、必ず真実の自覚を促すものでなければなりません。    
 金が儲かるとか、病気が治るとか、家内安全、商売繁盛、都合良く楽な暮らしが出来るようにとかは、人間が誰でも望むことではありますが、人間の真の救いではありません。其れは因縁次第で、今は都合よくても、すぐ都合の悪い時が来るものです。又幾ら都合良い日が続いても、其れを失う心配や、馴れて飽きて了うと言う問題もあります。
 我々は、四苦という生老病死に悩み、更に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五縕盛苦(以上で八苦)に悩まされています。これが生死の苦海の現状です。その苦しみを少しでも軽くしたいと願うのは無理からぬ事であります。所が、この四苦八苦は逃げても逃げても追いかけて来て逃れることが出来ません。
 神や仏にお願いして禍が来ないように祈るのですが、矢張り来る時には来るので、一向に祈りが効かないものです。そこで更に霊験あらたかな神や仏を探して、右往左往するのです。これを現世を祈る行者と言います。
  仏号むねと修すれども 現世を祈る行者をば
   これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらわるる
 是は、善導大師の和讃であります。現世を祈る行者は、生死海の不安を逃れようとして神仏に祈る訳ですが、祈っても祈っても不安は次ぎから次へと出てきて、一向に解消出来ません。此の様な信仰は間違っているからです。
 今の日本では、信仰と言えば大半がこの種のものであります。是は人間の迷いを益々深めていくもので、人間に真の自覚をもたらすものではありませんから、迷信と言うべきものであります。だから質問者が言うように『宗教と言えば迷信ばかりではないか』と言うことも当たっていない訳ではありますまい。
 然し、日本には、そんな迷信ばかりではない正しい信仰もあるのです。その事を理解すべきでありましょう。
正しい信仰とは、人間に正しい自覚をもたらすものです。我々の理性は、我々に自覚を促すものですが、理性の自覚は不十分で、徹底した深い自覚ではありません。或る程度の自覚は可能ですが、まだまだ自覚されない部分が残って居るのです。
 唯識学では、自覚の無限後退性と言うことを言います。則ち、自覚とは自分で自分を反省するのですから、反省された自己(これを相分と言います)と、反省している自己(是を見分と言います)と、自己が二つに分かれるのです。是を自覚の二分性といいます。 その時、反省されている自己は確かに自覚の対象になって、見えているのですが、反省している自己は見えないのです。そこでもっと徹底して自己反省をしなければならないとなって、更に自己を深く見つめることを行う訳です。是を自証分と言い、更に後退して、証自証分といいます。自証分と証自証分は、更に幾たびも繰り返して自覚が深められて無限に後退するのです。世間ではそのように深く自覚を繰り返している人を人格者と言うのです。 
 是は人間にとって大切なことですが、実は幾ら徹底して無限に後退しても、自覚の構造は変わりませんから。依然として見ている自分(見分)は見えないままに残るのです。実はこの部分に自己肯定の正体が隠れているのです。この自己肯定の正体は、常に見分の側に立って、反省の対象になりません。
 唯識学ではこの自覚の構造のからくりを見破って対策を練り直したのです。則ち、この証自証分を根本から反省するためには、最後の証自証分にまで自覚のメスが届かねばなりません。然し是は人間の力では不可能なのです。
 護法はこの問題解決のため『本有の無漏の種子』と言うことを見つけたのです。是は、『如来蔵経』その他多くの経に説かれて居る『如来蔵思想』と言われるものです。大乗仏教の二大思想、竜樹の般若思想と天親の唯識思想の間に隠れて余り目立ちませんが、この如来蔵思想は大乗仏教の重要な教えであります。護法はこの如来蔵思想によって、無漏の種子本有説を見出したのです。
 人間には、生まれる前から『無漏の種子』が宿っているというのです。是は随分飛躍した考えですが、言われてみると成る程と納得出来るのです。この本有の無漏の種子が現行して、無漏の経験が成り立つのです。他力の信心とは、無漏の現行(経験)です。
 この無漏の種子を激発して現行せしめる縁が有漏の聞法なのです。聞法は有漏の経験ですが、無漏の種子を現行せしむる唯一の縁であります。
 『聞いても聞いても解らない』と言う嘆きを能く聞きます。大丈夫です。聞いて聞いて聞き抜くのです。既に私に宿っていて下さる無漏の種子が現行して下さるまで聞き抜く事です。一度無漏の種子が動き出したらもう占めたもので、今度は無漏の法が私を動かして止めようとしても止められなくなるのです。
 護法による、無漏の種子の本有説は、真如は十方世界に充ち満ちているという、大いなるものの本質を顕しています。
 真如は十方微塵世界に充ち満ちていますから、衆生の心中にも満ちているのです。真如は法性法身です、『色もなく形もましまさず』と言われます。『この一如より形を表して方便法身と申す』(唯心鈔文意、20の8)と言われる様に、色も形も無いものが、形を取って現れたのが方便法身であります。
 方便法身が阿弥陀如来でありますから、『法蔵菩薩と名乗りたまいて、不可思議の大誓願を起こしてあらわれたもう御形』をば、尽十方無碍光如来と申すと言われます。(同前)
 法蔵菩薩は、無漏の種子として、我々の内に宿っていて下さるのです。その無漏の種子が聞法の縁を待って現行して下さるところに信心開発という事実が起こるのです。
 この無漏の種子の現行が他力回向の信心であります。信心と言うのは、世間で言っている『神仏を信心する』と言うのは『自力の信心』であって、蓮如上人が言われる信心は、
『他力の信心』なのです。
 『信心と言える二字をば「まことのこころ」と訓めるなり。「まことのこころ」というは行者のわろき自力のこころにては助からず、如来の他力のよきこころにてたすかるが故に「まことのこころ」とは申すなり』(御文章、一帖目第十五通、29の13)と言われています。
 『行者のわろき自力のこころ』と言いますのは、人間の理性による分別のことで、是非善悪、愛憎好嫌などを分別する心を言います。『如来の他力のよきこころ』とは如来真実の智慧のことで、他力の信心です。理性的判断である善も悪も『行者のわろきこころ』で、世間で言う善悪共に『わるきこころ』と言われているのです。正しい信仰心ではないからであります。
 此の様に、信心には『自力の信心』と『他力の信心』とがあります。自力の信心は、神や仏を対象化して、高いところに祭り上げて、私が信ずるのであります。あくまで、私が主人公であります。私が主人公である限り『我執』を免れません。我執による信仰には、打算がありまして、私がこれほどしてあげるのだから、きっと御利益があるはずだと計算しているのです。計算による取引ですから、純粋な信仰心とは言えないのです。
 浄土真宗では、この自力の信仰心を、正しい信仰心ではないと批判して、雑行雑修と言い、徹底して嫌うのです。
 迷信と言うのは、この正しくない信仰心のことです。理性的判断から見ると、必ずしも社会に害毒を流していなくても、人間に真実の自覚を開くことが出来ないで、人間の迷妄を助長する信仰は、正しい信仰とは言えません。
 『雑行雑修自力の心』で神や仏を信ずる信仰は、たとい熱心に念仏を称えてもいても、現世を祈る行者で、結局、正しい信仰ではありません。迷信か否かの判断には、是ほど厳しい吟味が為されなくてはならないのです。

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