釈迦弥陀は慈悲の父母(2)  

 釈迦弥陀は慈悲の父母
            二尊教について 2 
 先に申しました『大阿弥陀経』の正式の経題は『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩
楼仏檀過度人道経』であります。態々煩を厭わず『諸仏阿弥陀』と諸仏と阿弥
陀が重ねてあります。此の経典は,最も古い形式を保っていると考えられるの
ですが、諸仏と阿弥陀が並べて表示されている事に注意する必要があります。
グレート・スピリットとしての阿弥陀仏は、スピリットとしての諸仏と仲良く
同居しているのです。一神教の神(ゴッド)と同じ程の優れた属性を持ちなが
ら決して諸仏を支配せず,仲良く同居出来る神が阿弥陀仏なのです。
 釈迦は、諸仏の一人であります。イエス・キリストは、神の一人子で特別な
存在でありますが、釈迦は諸仏の一人であって,特別な存在ではありません。
我々と同じ普通の人間であります。普通の人間が,本願に遇う事によって諸仏
の位の列せられるのです。
 法然を弾劾した『興福寺の奏状』では、法然は阿弥陀仏を本尊として釈迦を
軽視していると非難します。確かに聖道門では、釈迦牟尼仏を最高の理想像と
して居て、大日如来も毘盧遮那仏も釈迦を理想化したもので、釈迦以上の佛の
存在は認められないのです。是れは、一神教の影響が隠れて居るものでは無い
かと思われます。
 所が,浄土門では阿弥陀如来を本尊とする訳ですから、旧来の考えでは理解
出来ない訳です。阿弥陀如来は、西方の仏で、大日如来の下に就くべき仏であ
りました。
 浄土門で、阿弥陀如来を本尊とするのは、阿弥陀如来の本願が、『全ゆる衆
生を仏としなければ,我も仏とならじ』と誓っているからです。これは阿弥陀
仏の本願にのみ誓われた特別な誓いであります。
 全ての仏はそれぞれ本願を起こして仏と成っているのですが、阿弥陀仏の本
願の特徴は『どの様な悪業の重い愚悪の衆生も必ず救われて仏に成らなけば、
我も仏とならい』と誓っているのです。この様な仏は、阿弥陀仏以外には見ら
れ無いのであります。
 その理由で,阿弥陀仏が特別に本尊として選ばれたのです。その阿弥陀仏の
本願を語っているのが、大無量寿経です。親鸞聖人は『夫れ真実の教を顕わさ
ば、則ち大無量寿経是れなり』と頂かれました。
 大無量寿経には、中国で翻訳されたものが、五つ有りますが。先に申しまし
た『大阿弥陀経』と『平等覚経』とは、本願の数が二十四ですので『二十四願
経』言います。『大無量寿経』と『無量寿如来会』は本願が四十八願ですので
『四十八願経』と言います。もう一つ宋の時代に翻訳されたものが『荘厳経』
でありまして。『三十六願経』といわれています。
 この内,二十四願経が古い形式を保っていまして、四十八願経はその発展し
たものであろうと考えられています。三十六願経は禅宗の思想が混入為たもの
ではないかと考えられています。
 ともかく、大無量寿経が最も完成したものであると考えられ、紀元240年
~420年頃の翻訳と考えられています。この大無量寿経はとても良く出来た
経で、何度も推敲を重ねて書き上げられたものであろうと思われます。
 推敲と申しましても、唯言葉を選ぶだけではありません。信仰心の純化が必
要です。インドから西域を通って中国に伝えられたその間に信仰が深められて
行ったのです。其の間に信仰が純化ざれて行きました。此の経典が翻訳された
時代の阿弥陀仏仰の信仰の深さに敬服させられます。
 この大無量寿経が無ければ、今日『浄土真宗』は存在しなかったと思われま
す。この大無量寿経に依って、二尊教が生まれたのです。勿論その思想は、永
い永い思想の伝承によって練り上げられて来たものでありまして、一朝一夕に
出来たものではありません。永い年月と多くの優れた人々の思索が積み重ねら
れて,今日の大無量寿経として完成されたものであります。我々は,この先人
の御苦労と御恩徳に、深甚の感謝を捧げねばなりません。
 其処で,二尊教に就いて語らねばなりません。二尊教は弥陀と釈迦の二尊
が、別々に二つの役割を果たして下さいます。それで、別々の役割ですから
『二尊二教』と言います。
 弥陀は本願を起こして浄土を建立して、『汝、一心正念にして直ちに来た
れ,我能く汝を護らん』と召喚します。是れは大無量寿経の上巻の説法です。
釈迦は是れを受けて、『仁者、この道を尋ねて行け、必ず死の難無けん、若し
留まれば即ち死せん』と勧励(発遣)するのです。これが大無量寿経下巻の説
法であります。
 この二尊の『喚』と『遣』に依りて、衆生が弥陀の浄土に往生して成仏する
訳ですから。『二尊二教』の儘が,衆生が救われて仏に成るという一つの事が
成就する『二尊一教』になります。『二尊二教』は『二尊一教』を成就する爲
の必要な条件で有ります。
 其れでは先ず『二尊二教』に就いて考えねばなリません。『弥陀』と『釈
迦』は何故別々の役割を果たすのか、是れが、信仰の健康性を保つための構造
であると言われるのですが、其れには,どう言う意味があるのでしょう。
 経典は全て釈迦の説法です。阿弥陀の本願と言うのも、所詮,釈迦が説いた
ものです。それなら。釈迦は『我が教えに従え』と言えばよい訳です。所が,
釈迦は態々阿弥陀仏に従えと勧めるのです。
 その時、釈迦自身も阿弥陀仏の本願に帰順しているのです。是れが浄土真宗
の大切な構造です。
 釈迦は阿弥陀仏の本願を説きますが、その本願は釈迦が遇う事が出来た本願
であります、釈迦以前に本願があるのです。十効の昔に既に誓われている本願
なのであります。釈迦は、その本願に遇うことによって、釈迦牟尼仏と成った
のです。
 釈迦牟尼仏は、諸仏の一人ですから、阿弥陀仏の本願に従って、阿弥陀仏を
讃嘆するのです。其れを諸仏の称名念仏(第十七願海)と言います。
 諸仏の称名念仏は、仏と仏が念ずる『佛々相念』世界です。念仏と言えば、
衆生が佛を念ずる事だと思いますが、衆生が佛を念ずる前に、『佛と佛とが念
ずる』と言うことがあるのです。
 その諸仏の称名念仏を『聞其名号信心歓喜』と。聞信して称名念仏するのが
衆生の念仏であります。この辺の事情を巧みに説き表したのが、観無量寿経の
第七華座観で有りました。

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