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親鸞聖人の危険思想についてⅡ

親鸞聖人の危険思想について(Ⅱ)
(2)親鸞の思想と日本主義 倉田百三の生き方
先に紹介した中島岳志氏の『親鸞と日本主義』と言う論文は、2012年冬号(二月四日発行)『暁烏敏の恍惚』(第九回)で終わっています。論文の意図があまり明白でありませんが、何度も読んでいる内に漸く見えてくるものがありました。
 初めに、明治以降の日蓮主義者の主張が述べられてあります。日蓮主義者の右翼的行動は、さもありなんと思えるのですが、続いて、親鸞の思想に傾注した人達の『日本主義思想』に対する主張を載せています。これには私も驚きました。
 先ず、倉田百三の生き方であります。
 其れは、三井甲之の『親鸞研究」との出会いによって始まります。其れまで中島は、『問題があるのは日蓮主義だ、親鸞の思想は、日本ファッシズムなんかには、関係無いと思っていた』と言うのです。
 所が、三井の親鸞研究を見ると、原理日本のイデオローグとしての三井甲之が、親鸞の信仰の心酔者で有ると言う事が明白になったと云うのであります。
 其処で、中島は、先ず、「出家とその弟子」で有名になった倉田百三を取り上げます。彼の青春時代の煩悶を述べ、紆余曲折の末親鸞の信仰に辿り着く経歴をたどるのですが、その倉田は、1930年代に、『大乗精神の政治的展開(1934)』や『日本主義文化宣言(1939)』といった評論集を発表しているのです。
 亦、1934年に出版された『法然と親鸞の信仰』(講談社学術文庫)には、『弥陀の本願は、全く天下り的臨在である、それが天下り的であればこそ第一原理であるに耐え得るのだ。論理的に証明されたものは、また他の立場から論理的に疑われる。証明を求める心がもう信心ではない。問うを許さぬもの、問う必要のないもの、問いたくないものの存在を要求するのが宗教的要求である。天皇の勅命と言うようなもの、善悪にかかわらず、奉じなければならない命令、カントの断言的命令と言うようなもの、太陽のように見ることを許さぬ光源、そう言うものの存在を要求しない者には宗教意識は解らない。』と。
 其処では、弥陀の本願と、天皇の勅命とが同様な存在として扱われています。確かに親鸞には『本願召喚の勅命』と言う言葉がありますが、直ちに『天皇の勅命』が『弥陀の本
願』と、同じものとしているのではありません。倉田には『弥陀の本願』は、何の様に理解されていたのでしょうか。
 また、日本の満州における問題も、日本民族の存亡の爲の、止むに止まれぬ宿業であると云います。これは解る気もしますが、親鸞の思想が、無原則に現実肯定の論理にすり替えられて居るようです。
 然し『これは、倉田だけに限定される問題ではない。親鸞思想が抱え込む『根源的問題』の筈だ、親鸞思想には危険な方向に絡め取られる要素が間違いなく含まれている。と確信した』と中島は云います。
『そして、その危険な部分こそが、親鸞思想のラディカルな魅力と直結しているのではと感じた。
 親鸞の教えを『人生の指針』に据える以上、「親鸞と日本主義」という問題に、主体的に取り組まねばならないと思った』と述べています。

 〔此処に、私の感想を入れることは失礼でありますが、この問題には、『阿弥陀如来とは、何う云う佛であるのか』、と言う問題があるのです。
 倉田は、キリスト教の信者であったという説があります。まさに倉田の『阿弥陀佛信仰』は、キリスト教であります。阿弥陀仏がゴッドと同じに受け止められています。ゴッドは一神教の神であり、阿弥陀仏は二尊教の佛で有ります。この二者は、よく似ていますが、全く異なる神格を持っているのです。
 この二者の相異が、倉田には、理解されていないのです。その結果、阿弥陀仏を、太陽のような、見ることを許さない、見ることの出来ない、絶対権威の光源に喩えたのでしょう。
 其処に、阿弥陀仏を絶対視する思想が、絶対の権威として肯定され、天皇の勅命と同様なものと見なされる結果となりました。 
 しかしこれには、蓮如の教化にも責任があります。蓮如は、親鸞の二尊教を、一神教に傾斜させたのです。その為、明治までの真宗は、蓮如の影響を強く受け、親鸞の二尊教の教えが忘れられて居ました。これは、戦乱の中を生き抜く爲の、蓮如の苦悩の選択であったと思われます。
 従って、倉田だけの責任として、彼を非難することは出来ないのです。阿弥陀如来が、二尊教としての性格を見失うと、再び、同じ、過ちを犯す恐れがあるのであります。〕 、 
 戦後、真宗教団の戦争責任と言うことが問題にされ、『真俗二諦論』なるものが、槍玉に挙げられます。これは、東西本願寺が、一緒になって、天皇への絶対的帰依を「俗諦」として説き、天皇の命による戦争を肯定し、多くの門徒を戦場に駆り立てる役割を果たしたと言う、教団の戦争責任を問うものであります。
 然し、真俗二諦論は、明治になって作り上げられたもので、親鸞の思想ではありません。だから。これを否定することによって、真宗の教義は安泰なのだと言えるのであろうか。いや寧ろ、親鸞の思想そのものが、危険な要素を内包しているのではないか、その危険性を顕在化させたのが、大正から昭和前期の親鸞主義者なのだとすれば、これら親鸞主義者等の議論に遡行する事で、浄土真宗の論理そのものを見つめ直す必要があるのでないかと、中島は提案しています。
 中島は、倉田百三、三井甲之、亀井勝一郎、吉川英治、暁烏敏等の思想を取り上げる事によって問題を提起しています。しかし明確な結論は必ずしも出されて居ないようですので。この提案に基づいて、考えを進めて見たいと思います。
 倉田百三は、『出家とその弟子』(1917)で一躍有名になりましたが、倉田が昭和初期に日本主義に傾斜したことは案外知られて居ないのです。
 1930年代に『大乗精神の政治的展開(1934)大東出版社』『祖国への愛と認識』『祖国の娘』と云った国粋的著作を出版し、1933年に、赤松克麿や津久井龍雄等と共に、国民協会を結成主導して居るのです。また日本を代表する右翼団体、大東塾と深く関わり、影山正治や日本浪漫派の文学者と共に民族主義文学運動を推し勧めて居たという事実があるのです。
 倉田百三の生涯は、今日『出家とその弟子』に就いて論ぜられる事はあっても、彼の晩年の業績は全く忘れ去られて居ますが、親鸞の思想と日本主義の関係を追求する爲には、彼の後半生の歩みを無視することは出来ないと中島は云います。
 彼の前半生は、煩悶と苦悩の連続でありますが、やっと親鸞の思想に辿り着いて、心の安定を得たかと思われる間もなく、1933年頃から、急に日本主義思想に傾斜して行きます。其れは当時の日本人の一般的傾向ではありましたが、なぜ彼をこの様な思想に駆り立たてたのでしょうか。親鸞の思想にその兆候があったのではないかと思われます。
 倉田にとって、親鸞主義とファッシズムと日本主義は一致するものでありました。天皇に従って人民を統合し、民族的理想に到達しようとする思想こそ、大乗的日本主義であり、フアッシズムそのものでありました。  
親鸞の思想に依って、天皇の勅命の絶対性を説き、満州事変の宿命を肯定した倉田は、宇宙の法則に従う政治の実現を訴えます。
 この様な見解は、次に取り上げる原理日本グループの主張とは大きく異なります。三井甲之、蓑田胸喜に代表される日本原理者は、倉田百三と同様の、親鸞信奉者の集まりでありましたが、彼等は、昭和維新運動を自力の思想として排撃し、厳しい批判を投げかけました。
 3,三井甲之と『原理日本』
 三井甲之は、1883年、山梨県、現在の甲斐市に生まれました。1900年、第一高等学校に入学した三井は、近角常観が開設した求道会館に通い親鸞の教えに傾倒します。一方彼は俳句に熱中し正岡子規を敬愛していた。正岡は彼の一高時代に亡くなるのですが、
根岸短歌会で頭角を現し、伊藤左千夫の『馬粋木』の編集手伝いなどもしています。
 近角は清沢満之と共に、歎異抄を世に広めた一人でありますが、彼は『自分は罪の塊』という認識を中心に、悪の主体的自覚に基づく救済のあり方を説いています。
 また彼は『実験の事実』を重視し、苦悩の内的体験に基づく他力念仏ヘの道を説きました。この様な教えは、当時の若き煩悶青年の心を捉え、求道学舎には、多くの若者が集まって居ました。
 三井は求道学舎にも頻繁に足を運び、ますます親鸞の教えに傾倒していきます。そうして、正岡子規の文学と、親鸞の信仰の間に「完全なる調和がある」と考え、その調和の核となるものが、近角の説く「実験」と云う概念でありました。
 三井は「実験の事実」を土台に、文学と宗教を融合しようとし、子規が提唱した「写生」とは「実験の事実」をその儘表現する事で、其れが親鸞の「自然法爾」の信仰であると理解していました。
 また、子規が記者をしていた『日本』に投稿するようになります。『日本』は、陸羯南が創建した新聞で「国民主義」を基調として居ました。三井は『日本』との関係が深まるにつれ、ナショナルスチックな思想を身につけて行きました。
 こうして、歌人、信仰者、民族主義者という三井の人格を形成する条件が整ったのです。
彼には親鸞の教えの中に『自然崇拝的な宗教的実践を排除し、個の内的信を重視する近代的精神』を見出し、親鸞の宗教は、人生の現実そものを無条件に肯定する哲学であり、其れを表現するものが芸術であると受け止められたのです。
 この様な三井の親鸞論に影響された者の中に、木村卯之と井上左近が居ます。この三人が、この後の「原理日本」を支える基礎メンバーであります。
 更に、1918年(大正七)の春、東京帝国大学文学部の宗教学教室に、一人の学生が井上右近を尋ねて来ます。箕田胸喜です。
 1925年(大正14)蓑田胸喜が編集人となり、『原理日本』が創刊されます。これに木村卯之、井上右近が同人となり、帝国大学教授に対する激烈な攻撃が展開されます。『原理日本』の創刊号に『共産主義思想運動の温床発源地は、大学特に「帝国大学法文学部」であり、新聞雑誌はその二の丸三の丸、またはその外郭に他ならぬ事を」と宣言され、滝川事件を初めとする帝大粛正運動に展開していきます。この運動は東京帝大に留まらず、京都帝大にも及び、西田幾太郎なども、彼の槍玉に挙げられています。
 1918年(大正七)『日本及び日本人』に掲載された「祖国礼拝」と言うタイトルの衝撃的な一篇の詩は、三井甲之によって書かれたものでありますが、これによって『計らいを越えると言う親鸞の他力本願と日本語による「うた」の世界を接続し、全てを『原理日本』に没入させる三井の論理が確立為ました。この三井の理論に基づいて、蓑田の言動も続けられたのであります。
 蓑田は、1946年1月、敗戦後、半年、故郷熊本で自死しています。死の直前、関係書類と著作物は総て自らの手で焼き払われていました。そして、何も言うことはありませんと口を噤んで居たと言われます。
 彼の日頃の生活は質素で、夕食も一汁一菜であったと云います。『気持ちは女みたいにやさしい人でした』と妻が語って居たと言います。
 昭和前期の『戦争狂乱の時代』を象徴する、悲しい物語の一幕でしょうか。

(4)亀井勝一郎の歩み

  亀井勝一郎は、1907年(明治44)函館の旧家に生まれました。彼の中学生時代は、『富める者』と言う自らの境遇に悩む日々であったと云います。十五歳の彼は、町の教会で香川豊彦の『富める者は罪人なり』と言う講演を聴き、益々煩悶を深めて行きました。
 彼は山形高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学し、社会主義運動と出会い、左翼活動に邁進するようになります。所が、1928年(昭和3)の社会主義者一斉逮捕(3・15事件)により、収監の身になります。
 彼は病にかかり『共産主義の非合法活動には今後一切関与せず』との誓約書を書いて保釈されます。しかしすぐ転向したのではありません。プロレタリア作家同盟に所属して、文学の側から運動を展開したのです。
 その彼にもやがて転向する日が来ます。1935年(昭和10)保田與重郎らと共に、雑誌『日本浪漫派』を創刊し、徐々に日本主義の方向に傾斜していきます。
 更に、1937年(昭和12)奈良を訪れ佛像に感動し、佛教に出会います。亀井の日記に歎異抄に就いて本格的な考察が登場するのは、1941年春の頃からであると言われますが、この頃から親鸞の思想の感化を受けるようなリました。
 1944年(昭和19)亀井は『親鸞』を新潮社から発刊します。この本は戦後も読み継がれますが、戦後には大幅な削除が見られると云います。
 戦前の『親鸞』には阿弥陀仏と皇神が重ね合わされ、弥陀の本願と天皇の大御心が重ね合わされて居ると云います。その辺は、先の『原理日本』の思想に通ずるものがあり、また後に述べる。暁烏敏の『神ながらの道』の発想とも通じているように思われます。矢張り同時代の思想として、影響し合っていたのでしょうか。
 しかし亀井は、戦争礼賛の主張を、敗戦と同時にすっかり忘れて、巧みに方向を変えたと言われます。
 なぜ、阿弥陀仏が容易に天皇とすり替えられたのか、亀井は其れを明らかにしていないと言われます。

(5)吉川英治の場合     、
   
 国民作家として一世を風靡した吉川英治は、1892年(明治32)小田原藩の下級武士を父として生まれます。吉川家は代々真宗の家であったと云います。
 しかし彼が育った頃は、父の事業の失敗から貧困のどん底にあり、11歳の頃学校を止めて小僧に出なければ成らなくなります。転々と職を変えながら、それでも彼は文学に志し、22歳の頃講談社に小説が入選します。29歳応募作品が次々に当選し、30歳東京毎夕新聞社に採用せられ、漸く文章を書く事を正業にする事が出来るようになりました。
 入社間もなく、彼は『親鸞記』を書く事を命じられます。それは好評を受けますが、1923年((大正12)の東京大震災に遇い、新聞社も潰れ職も失ない、途方に暮れます。その中で彼は、筆一本で身を立てる決心をしたと言います。
 時代は正に大正から昭和にかけて、混乱の極みであります。うち続く不況、エロ・グロ・ナンセンスが横行して居ました。やがて満州事変が勃発します。彼はこれによって国民は覚醒し、新時代に歩を進める事が出来ると信じたのです。
 彼にとって、作品を執筆する事は、大衆に対する日本主義的啓蒙にほかならなかったのです。日本の腐敗した現状を打破し、新時代を切り開くためには、如何にしても大衆の目覚めが必要であった、その目覚めは、日本的な精神の復興でありました。吉川は今こそ昭和維新の後押しをする文学を書かねばならないと奮い立ったのであります。
 1935年(昭和10)吉川は、『日本青年文化協会』を結成し、祖国愛運動を展開し、『青年太陽』を創刊します。之には、安岡正篤や倉田百三も参加しています。
 1934年(昭和9)から『親鸞』の連載を初め、同時進行の『宮本武蔵』の連載と共に、彼は国民的作家としての地位を確立為ていったのであります。
 敗戦の日彼は声を上げて泣いたと云います。『もう一行も書けなくなった』と言ってペンを折りました。しばらく沈黙していた吉川でしたが、大衆は吉川を立ち上がらせて、戦前の皇国的イデオロギーから脱却して、民主主義的価値観に適応した作品を書かせます。 『宮本武蔵』も大幅な改訂がなされ、戦争放棄の戦後の価値観に置き換えられます。こうして吉川は、戦後に順応して、大衆の期待に応えて行きました。
 彼は、『もう一度親鸞を書きたい』と言っていましたが、遂にそれは果たせずに終わったのであります。

(6)暁烏 敏 の信仰

『考える人』(新潮社)に連載された中島岳志氏の論文、『親鸞と日本主義』は、第九回『暁烏敏の恍惚』で終わります。暁烏の『信仰』を恍惚と評する事が、当を得ているかどうかは、疑問でありますが、暁烏が、この論文の中に加えられるのは、もっともの事であると云わねば成りますまい。
 暁烏敏は、1877年(明治10)石川県の真宗大谷派の末寺、明達寺に生まれました。明達寺は、貧しい寺でありましたが、1893年(明治26)京都の大谷尋常中学校に遍入学して、清沢満之に出会います。
 清沢満之は、歎異抄を初めて公開し、自らも座右の書として愛読した人でありますが、この清澤に学び、一般社会に、この書を広く知らしめたのは、暁烏の『歎異抄講話』であります。
 この歎異抄講話は、1911年に刊行されますが、この年は、親鸞650回の御遠忌の年でありまして、翌年には親鸞の妻、惠信尼の手紙が西本願寺の倉から発見せられ、親鸞の実在が確かなものとなり、親鸞ブームが絶頂に達する時期でありましたので、歎異抄講話も大きな話題を呼び起こしました。
 所が、1913年36歳の時、暁烏は妻房子の死に遇い、間もなく女性とのスキャンダルが公になり、宗門の内外から,批判の声が巻き起こります。
 このスキャンダルは、暁烏自身が、自らの信仰告白として公表したもので、彼には徹底した自己内省があり、歎異抄の『悪人こそ本願のお目当てである』との信念が徹底されていました。
 しかし、世間の非難の声は収まらず。結局、彼は一切の地位も職も投げ捨てて、金沢近郊の北安田(白山市北安田)に引退して、活動の拠点とする事になりました。
 1926年~27年(大正15~昭和2)彼はインドからヨーロッパへの旅に出ます。この経験が彼の思想に大きな影響を与えたものと思われます。
 『度々、足を海外に踏み出して見ますと、毎日至る所で日本と云うことを口にせねばならんのです、・・・私は、日本人であると言うことを名乗らねばならんのです。そこで日本人とはどう言うものだろうかと考えさせられました。』
 彼は、海外に身を置くことに由って、外国人に負ける事のない『あるもの』を、自己の内に見出したと言います。それは、『私の到達した釈尊の真精神であり、日本魂であります。この私自身の内に光るもの、之によってのみ、我が日本は、世界を照らす事が出来ると言う事を切に感じました。そして、私の内に光るこの火は、我が日本の同胞の内に燃えてをる火である事をも感じたのであります。』
 彼は、日本精神とは何かと問い、その源泉を探るべく、「古事記」の研究に邁進したのです。そして、日本精神はそのそのまま『神ながらの道』であるとの確信に行き着いたと述べています。
 『佛教と神道を分離して考えることは、明治時代の思想的一つの病気だった。佛教と神道は日本に於いて、一体の存在である。日本精神たる「神ながらの道」は、仏教によってこそ「その道」が明らかになる。』と彼は云います。
『仏教はインド伝来の教えではない、天照大神様のお心と仏様のお心は同一のものである。だから、仏陀以前に日本の国を開いた天照大神こそが、その教えの起源であり、神ながらの道こそが仏教である。』と言う論理を展開するのです。
 阿弥陀如来の御浄土は広大にして辺在なしであります。広く大きくして辺が無いのであります。神武天皇の橿原の都は広大にして辺際の無い都であります。神武天皇のお心から申しますと、パリーもベルリンもロンドンもワシントンも大日本の大和の都と云う意味で、非常に大きい日本の都であります。』
『我が大日本帝国は、時間的無限・空間的無限の上に建てられた国であります。』
『全世界が天皇陛下の大御心の中に納められる。それが日本の偉大な魂で有ります。
『だから、出征する兵士を全力の万歳で送り出そう。天皇陛下万歳。大日本帝国万歳。みんな私心を捨て、生活を捨て、いのちを捨てる。万歳と云う「貴いお祝いのお言葉」を浴びせかけられて出て行く』と言います。
 更に彼は、親鸞の思想と日本主義を接続して、神国日本は、阿弥陀仏の浄土であると云います。
 此れは昭和16年以降の彼の言論であります。この辺に『恍惚』と評されても致し方の無い一面があるのであります。
 その当時、隆盛を極めていた、『原理日本』や亀井勝一郎・吉川英治などの言動と軌を一にしている趣も感じられますので、互いに影響し合って居たのかもしれません。
 日本が大平洋戦争に突入していく、大変な時代でありますから、国を憂うる心情が察しられます。 
 しかし、原理日本の主張者や亀井や吉川と違って、暁烏には、戦後の姿勢に彼独特の対応が見られます。それは、敗戦のショックは無理からぬ事ですが、彼はたちどころに立ち上がります。そうして戦前の言動も間違っていたとは言わないのです。
 彼の側近に仕えた人が、『暁烏さんは、矛盾の多い人でした。』と言いましたが、世間の常識から見たら、矛盾と言うより他ないのでありましょうが。
 彼は、 矛盾と言うよりも、もっと大きなスケールの人物であったのではないかと思われるので有ります。彼は、清沢満之の薫陶を受けた、浩々洞門下の三羽烏と言われた人でした。親鸞の信仰に就いての確固たる信念が有りました。
 唯、金沢近郊に生まれた爲に、蓮如の教化の最も行き届いた地方でありまして、蓮如の一神教的阿弥陀仏像と親鸞の二尊教との矛盾の狭間で、苦しんで居たと言うことがあるのでは無いかと思われるのです。此れは今後の検証を待たねば為りませんが、私が言えることは其処までであります。
 また、暁烏 敏師の信仰は、前田周一氏に受け継がれ、現在アメリカ在住の羽田信生氏に受け継がれて、アメリカにも生きているのです。暁烏師の遺志が健在に受け継がれていくことを念ずる次第です。
 以上、中島氏の論文を、氏の許可なしに引用さして頂きました。謹んでお詫び申し上げます。文責は全て私に有りますので、其の責めをお受けします。
 所で、此処にもう一人登場して頂きたい人物があるのです。其れは、曽我量深師です。 
(7)曽我量深の『歎異抄聴記』

 倉田百三の『出家とその弟子』以来の親鸞ブームや、日本主義者の親鸞論を、じっと見ながら熟考を重ねて居た曾我量深が、昭和17年の夏、東本願寺主催の安居の講師を命ぜられて、『歎異抄』を講題に選んで、7月11日から8月10日まで30日をかけて講義を致しました。其れが『歎異抄聴記』で有ります。
 戦局急を告げる蒸し暑い京都に、150名に及ぶ聴衆が集まって行われたこの安居は、まさに壮絶なものであったと言われて居ます。
 この講義の中心は、『浄土真宗の再興は、歎異の精神に尽きる』というものでありました。その『歎異の精神』とは、信心異なる事を歎くのですが、誰が異なっているのか、異なっているのは他人か、それなら、『歎異』とは言わないのです。
 覚如聖人が書いた『改邪抄』と言う書があります。『改邪』と言うのは、まさしく他の誤りを正すと言うことです。破邪顕正とも言います。破邪顕正とは、正しいのは私で、相手の間違いを糾すのです。『歎異』とは言いません。
『歎異』とは、自分が異なっているのです。『その異なりは、自分であると言う、ご開山聖人の御物語十ヶ條を拝読してみると、異なりは自分にありと痛切に知らせて頂くのであって、即ち編者の唯円も、異なりは自分にある事を痛感して居たと私は思う。それが最も明らかに現れているのは第九條である。』 (歎異抄聴記、p7)
 曽我量深師の『歎異の精神』が、どこから着想されたのかと思っていましたが、この度、中島氏の論文を読んで居て明らかになった事は、若し、『歎異の精神』が忘れられて歎異抄を読むとき、親鸞の思想は、極端な日本主義に偏る恐れがあると云うことです。
 鋭い思想ほどその危険があるのです。先に申しました、法然門下の人々が、親鸞を敬遠した理由も、親鸞の思想が、鋭いものであるが故に。誰も就いて行けなかったのでありましょう。
 それでは、この様な親鸞の思想は、如何にして培われたのでありましょうか。察するに、親鸞自身の血の中に蓄えられていたものに違いありません。
 暁烏敏師が、日本独自の精神と名付けたものは何であったかを、探って見る必要があります。
 善導大師や法然上人に無いものが、親鸞聖人に有るとすれば、日本人に特有の何かで有りましょう。
 法然上人は。善導大師の精神を日本に移植する役目を果たされたのであります。それ故に、更にそれを深め、発展させるゆとりは無かったのであります。
 親鸞聖人は、法然上人によって移植された善導大師の精神を、更に消化して我が物とするゆとりを与えられて居たのです。
 それは一体何で有ったのか、考えて見る必要があるのです。暁烏師が言いたかったのもそれであったと思われます。暁烏師は、必ずしもそれを言い当てられなかったかも知れませんが、今日、我々浄土真宗の宗徒は、是非それを明らかにしなければならないと思います。
 『古事記』や『日本書紀』は、一萬年も後に、日本に住み着いた、『弥生時代』の人々によって、改竄された『日本の歴史』で有りますので、それ以前の、一萬年も続いた、縄文時代の日本の歴史は、抹殺され、書き直されてしまいました。其の爲に古事記の研究だけでは、縄文時代の歴史は解りません。其処に、暁烏の限界がありました。
 今後、縄文時代の研究が進めば、縄文時代の宗教である『神ながらの道』の真精神が解明されるかと思われます。そのような私の夢が叶えられることを願って、今言えることは其れまでであります。
 親鸞聖人が、越後に流罪になったことは、彼の思想にどんな影響を与えたのでしょうか。当時の越後は、文化果つる片田舎だと思われて居たかも知れませんが、それは、都に住む支配者の偏見で有りました。
 越後には、縄文時代に栄えた文化の名残が残って居たのでは無いでしょうか。縄文時代には、越後は佐渡の黒曜石を運ぶ重要な拠点でありました。その栄華の名残は、忘れられて居たかも知れませんが、何らかの余韻があったとしても不思議ではありません。
 縄文人は、モンゴリアンの末裔であります。都に住んでいる弥生人の末裔も同じモンゴリアンでありますが、中国大陸から朝鮮半島経由の民族で、新モンゴリアンと言います。縄文人は、旧モンゴリアンと言い、一萬年も早くから、南方海上ルートで、日本列島に辿り着いていました。この旧モンゴリアンの伝承に、グレート・スピリットと名付けられる神の神話が伝えられて居たのでは無いかと思われる節があります。
 この両者には、同じモンゴリアンでは有りますが、若干の思想の相違が見られるのであります。それは、一神教と二尊教と言う相異で有ります。中国大陸経由には、一神教の思想が濃厚でありまして、善導までは伝えられて居た二尊教の教えが、善導以後、途絶えて仕舞います。後に、グレート・スピリットと呼ばれる二尊教の神格は、旧モンゴリアンの伝承で有るらしいのです。
 鉄器を持たない縄文人は、武器に優れた弥生人に歯が立たず、蝦夷と呼ばれて東北に追われる事になります。  
 しかし、関東から北に色濃く残った縄文人の伝統は、消えること無く、日本人の深層に生きているのであります。
 親鸞は、母が源氏の生まれであると言われています。とすれば、彼の血の中に、多分に東北の血がまざって居たと思われます。其れはともかくとして、越後における五年間の生活、更に関東二十年の生活が、彼の上に何らかの影響を与えた事は、容易に察せられます。それが、暁烏の言う『日本魂』でありましようか。今日、日本魂などという言葉は流行りませんから、私は、『縄文魂』と言いたいのですが、中国伝来の仏教とちがったものが日本の浄土真宗にあるとすれば、其れを見出して後世に伝えていく事が大切だと思います。
 モンゴリアンの伝統の中に、グレート・スピリットと言う神話があるのです。其れが洗練されて、浄土真宗になったったと、考えてもよいかと思われます。
 曾我量深が、『歎異の精神』と言ったものは、まさしく日本が世界に誇るべき『日本精神』で有りました。其れは、『浄土真宗』で有ります。
 暁烏師も其れを言いたかったのでしょう。だから、暁烏師は、戦前の発言を取り消そうと為なかったのでしょう。
 親鸞の思想を危険思想と見なし、親鸞を無視した法然門下の人々は、時の権威におもねって親鸞を無視しましたが、権力は時代と共に、移り変わります、時の権力におもねって居た人々も,今は、跡形も無く消え去って行きました。
 昭和初期に、親鸞の信仰に生きようとした人達も、親鸞の思想を利用して、自己の主張を正当化し、自己肯定して、『歎異の精神』を忘れて他を攻撃しました。其処に、親鸞の立場との徹底した相異がありました。
 『歎異の精神』と言うのは、『機の深信』で有ります。また『仏智疑惑の罪の自覚』であります。仏智疑惑というのは、如来を無視して、自分の思いを中心にして自己を主張することです。親鸞聖人が、晩年に『佛智疑惑の罪』を幾度も幾度も和讃に詠われる心情も、偏にこの事を、自分に言い聞かせんが爲であったことと、拝察する次第です。此れは、浄土真宗教徒の忘れてはならない、心懸けであります。

 以上、親鸞の危険思想につい、中島氏の論文を紹介する形で、語ってきました。急進的な思想ほど、一歩誤れば大きな間違いの元になるのでしょう。親鸞の思想も、この度、度々、指摘しましたように、間違って受け取られる要素があるように思われます。
 曽我量深の指摘のように『歎異の精神』が見失われる時、『歎異抄』は、危険な書物と変貌するのでしょうか。
 蓮如聖人の安心が、間違って居ると言うのではありませんが、注意しないと『他因論』になる恐れがあるのです。其れは、阿弥陀如来が、一神教の仏になるのです。大無量寿経の世界は、釈迦弥陀二尊の教えです。其れを忘れると。他力本願は、『恩寵の宗教』になるのです。即ち、『他因外道』になるのです。
 『歎異抄を、教行信証を通して味読すべし』と戒めた、先輩の言葉を噛みしめて居るこの頃です。親鸞の『二尊教』の教えに徹すべしとの教戒であります。
 一神教は、神の絶対権威の前に、絶対服従を説く宗教であります。この権威主義に便乗して、自己の主張を正当化して、他を攻撃することが、人間の最も好む生き方であります。 大無量寿経は、この人間の生き方を『自我の執着』として、誡める思想であります。
大無量寿経が、『二尊教』の形式を厳守しているのは、この『自我の執着』を離れしめる爲であります。人間が、『自我の執着』に留まる限り、殺し合いは永遠になくならないのであります。
 今日戦争のための武器は、止めども無く進化して行き、人類滅亡の危機に直面しています。どうにもならないのでしょうか。人類が築いてきた叡智も、人類と共に消えてしまうのでしょうか。大無量寿経の宗教の復活が望まれる次第であります。

親鸞聖人の危険思想について 岡本義夫

親鸞聖人の危険思想について(Ⅰ)
 1、歎異抄の問題  
 歎異抄の後序と呼ばれる文章に、『信心一異の相論』と言う物語りがあります。是れは、真宗では、よく知られているもので、私も何とも思わないでその物語を読んでいました。所が、この頃になって、その物語に秘められている容易ならぬ思想がある事について気付くことになりました。
 この物語について、是れを語っているのは、歎異抄と御伝鈔だけでありまして、他の浄土宗の法然上人伝には一切語られて居ないのです。之は変なことだと以前から不審に思って居たのですが、恐らく、自分達に不名誉な結果を暴露された物語でありますので、敢えて無視したのであろうと邪推していました。所が、そうでは無くて、この物語をカットしたのは、重大な理由があったのではないかと言うことに気付かされたのです。
 そもそも法然上人伝には、親鸞聖人の存在も無視しているのですが、これも親鸞聖人に対する嫌がらせであろうと思っていました。然し、そうでは無くて、親鸞聖人の存在自体が、承元の法難以後、法然の門弟には、次第に忘れられて仕舞っていた居たのでしょう。 それは、無理もないことで、無罪放免の後は、親鸞は関東に放浪生活をされましたので、京都の人達にはその存在は伝えられなかったのでしょう。
 親鸞と同時に流罪をうけた人達は、執行猶予になった、幸西成覚房、善慧房の二人、を除いて浄円房(備後国)・澄西禅光房(伯耆国)・好覚房(伊豆国)・行空法本房(佐渡国)は、共にその後の生死不明であります。(法本房のみ消息が伝っている)恐らく劣悪な環境の中で命を落としたのでありましょう。
 親鸞も明治まではその実在が疑われていたのですから。承元の法難が如何に過酷なものであったかが伺えます。
 この時に処刑された人々は、いずれもラジカルな思想の持ち主であったようです。親鸞も流罪の途中で殺せという内命が下されていたと言う伝承があります。その武士は殺し得なかったので、京都には戻らず、丹波の山の中に寺を建て出家したと言うのです。その寺が、今も、大谷派の寺院として残って居るというのです。
 また晩年に京都に帰られても、承元の法難から二十年後の「嘉禄の法難」によって、法然門下の念仏者は、皆追放されましたので、法然門下を名乗って京都に住む事は出来ません。恐らく、名も無き念仏者として潜んで暮らしていられたものと思います。その為に、誰も、法然の直弟子が京都に住んでいるとは思っていなかったのでしょう。
 また、この相論の当事者である、聖観房が法然上人伝を書いて居るのですが、彼には深い考えがあって、親鸞を無視したのであろうと考えられます。それは、親鸞の思想は、ラジカルな危険思想であると考えられでいたからでは無いかと思われます。
 その一例が、この『信心一異の相論』でありました。この物語の原点は、歎異抄でありましょう。覚如の御伝鈔は、歎異抄を写した物でしょう。即ち、この物語は、歎異抄以外には伝えられなかったものと考えられます。それ程重要なものでありますので、『大切な証文』として、『此の書に添え参らせ候』と言われたのでありましょう。
 しかし、この物語が『危険思想』であるとは、今日、誰も気付きませんでした。その理由は覚如によって御伝鈔に語れましたが、親鸞が如何に、他の弟子達に比べて、優れた信心の人であったかと言う事に重点が置かれていて、危険思想の持ち主であると言うことは、隠されて居たからでありましょう。
 然し、蓮如はさすがにこの事に気付いていたと思われます。其れが『無宿善の機には、左右無く見せるな』と言う後書きの意味であったと思われます。
 明治になって、蓮如の禁断は解かれましたが、既に此の書の危険思想は忘れられて仕舞っていました。其れは『佛法を内心に深く蓄え、外相にその色を見せぬ様に振る舞うべし』と言う蓮如の掟によって封印されたからです。
 此の掟によって、虎が猫に変えられました。猫に変えられた虎は、もう人間に害を与える事はありません。せいぜい鼠を捕るばかりであります。この頃は鼠も殆ど居ませんから、ただ昼寝を為るばかりとなりました。浄土真宗の歴史にも似た様な事が言えるかも知れません。
 所で、危険思想と言うことですが、第一に、為政者にとっての危険思想です。法然上人は、時の上皇を初めとする貴顕や、聖道諸宗の僧侶達に尊敬されて居る、学問も修行も並ぶ者の無い『一心金剛の戒師』でありました。
 所が、事もあろうに、その法然上人と、一介の名も無き親鸞が、同じ信心だと言う事は、社会秩序を破壊する、以ての外の暴言でありました。勿論、親鸞が言う信心と世間で考えられて居る信心とは、全く違ったものでありましたが、そんなことは一向に解らない連中ですから厄介な訳です。
 特に、儒教の影響の強い知識層には、信と言えば、『仁義礼智信』の信を思い浮かべます。その信は人間の努力によって生み出される人間の真心で有ります。其れは、各人各別のもので、決して同一のものとは言われません。
 其れを法然上人と自分の信心とが同じであると言うのですから、法然の人格を無視するものであり、且つ亦、社会の秩序を無視する、アナーキストと言われても致し方の無い事であったのです。これは、危険な思想でありますから、取り締まらなければなりません。
 法然上人の浄土宗教団の中に、危険思想のものが居ると言うことが、当時既に囁かれて居たのですが、こんなことが公になれば大変なことになるわけです。
 法然の教団は、時の支配者によって執拗に取り締まりを受けた理由が、此処にあったのであります。
 此の法然上人の思想を、忠実に継承したのが親鸞でありました。その為に、法然亡き後にも度々鎌倉幕府から、専修念仏の禁止令が出され、弾圧を受けているのが、親鸞の浄土真宗でありました。(当時は、一向宗と呼ばれて居ました。)他の法然門下の弟子達は、口を噤んで、誰もそんなことは言わなかったのです。
 2010(平成22)年二月発行の『考える人』冬号(新潮社)に、中島岳志氏が『親鸞と日本主義』第一回『保守思想と国粋主義との間で』と言う文章を書いています。これは連載ものですが、まだ終わってはいません。
 私も、初めは余り注意していなかったのです。所が、急に気になりだして読み直している所です。
 中島氏は、第一回の初めの方に、『私は当時「理想の限界」と言う問題にぶっつかっていた。きっかけは、保守思想との出会いだった。
 保守思想では、「人間の理性には決定的な限界が存在すると考え、人智を超えた伝統や慣習、良識などに依拠為べき事が説かれる。」「人間は永遠に不完全な存在であり、その不完全な人間が構成する社会は、永遠に不完全なまま推移せざるを得ない。」
 左翼的啓蒙思想は、設計主義的合理主義によって成り立っており、其処には、「理性への過信」が含まれる。そんな人間の感性可能性への希望的・楽観的観測よりも、人間の悪や不完全性を直視し、理性の限界を謙虚に受け入れる事の方が重要である。』と言う。
 この様な、保守思想の主張は、「自分の能力」を過信為がちであった二十歳の私を直撃した。理性に決定的な限界があるとすれば、人間の力で世界を善くする事は不可能なのか。人間の主体とは何なのか。そんな疑問を抱えながら、私は徐々に保守思想に接近していった。
 その頃たまたま、吉本隆明の講演を聴く機会があって、親鸞の思想に触れる事になり『最後の親鸞』を読むうちに次第に親鸞に傾倒していった。』と述べています。
 『当時(大正9年頃)日本には国粋主義というものが台頭して来ていました。1920(大正9)年以降の超国家主義者には、日蓮主義者が多く居ました。国柱会主宰の田中智学を初め、北一輝、石原莞爾、井上日召などは、皆「日蓮主義者」であります。所が、原理日本社」を結成して蓑田胸喜と共に、此の組織の中心人物としてマルキストやリベラリスト、更には右翼までを徹底的に弾圧し、思想弾圧の先兵となって活躍した、三井甲之の『親鸞研究』を読む事によって、三井甲之や倉田百三が、熱心な親鸞の心酔者であった事を知りました。』
 『私は、敢えて問うてみたい、親鸞の思想そのものが危険な思想を内包しているのでは無いかと。そして、その危険性を顕在化させたのが、大正から昭和前期の親鸞主義者なのだとすれば、彼等の議論に遡行することで、浄土真宗の信仰の論理そのものを見つめ直す必要があるのではないか』と。
 『私は此の連載で、倉田百三、三井甲之、亀井勝一郎、暁烏敏らの思想にメスを入れ、親鸞思想と日本主義の関係を検討したいと思う。
 其れは、浄土真宗の信仰を否定する爲に行うのでは無い。むしろこの考究は、危険と裏腹な親鸞思想の魅力を明らかに為る作業となる筈である。
 私は近代日本における親鸞思想のファナティクな展開に目を向けることで、親鸞の論理に潜む危うさを明らかにすると共に、そこから逆説的に見えてくるラディカルな可能性を探って見たいのである。』
 『無害な思想など、思想と呼ぶに値しない。
   虎穴に入らずんば虎児を得ず。
「親鸞と日本主義」と言う危ない橋を、敢えて「そして慎重に」渡って見たい』
 これが、第一回目の中島氏の論文の結びの言葉であります。