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釈迦弥陀は慈悲の父母(10)

 釈迦弥陀は慈悲の父母 
            二尊教について 10  
 従来、二尊教の重要性について述べて来ましたが、二尊教は、一神教と多神教の両極端の宗教構造の中で、どうゆう位置が与えられるのかと言う事を考えてみたいと思います。
 簡単に結論から申しますと。一神教と多神教の両者の善い点を合わせたものと言うことが出来ます。
 一神教には、唯一神と主張するあまり、真理は唯一つなりと言う信念が、わが理解した神のみを唯一のものと言う固執による争いが絶えないと云う問題がありました。一方、多神教には、神々がそれぞれ、ばらばらで統制が取れないと云う欠点があります。
 二尊教は、神々の頂点としての阿弥陀仏が存在して、揺るぎない権威を誇って居ますが、阿弥陀仏は決して神々を支配しないのです。『我が善き親友なり』として遇するのです。是を『眷属功徳』と言うのです。弥陀の浄土は、『眷属功徳成就』の世界です。
 多神教の世界観は、人間も大自然の一員であり、謙虚に大自然と共存する美点を持っていて、大自然を利用するだけのものとする、現代理性中心の生き方に対して、厳しく非を称えています。現代人は、自然を物質とだけ見て、大自然に包まれて、大自然の一員としての人間の姿を見失い、傲慢に振る舞う事ばかりにあくせくして来ました。その結果、自然からしっぺ返しを受けて慌てて居るこの頃です。
 自然に悪意があってしっぺ返しをしているのではありません。自然の法則に背く事によって、人間が勝手に苦しんでいるのです。
 大自然の全てのものに神が宿っていると云う考えは、中々味わいのある考えであります。現代人の理性中心の思考方法は、大いに見直されなければなりません。此処に多神教の優れた思考がありました。
 阿弥陀如来が、一切の存在を眷属として尊敬する態度は、正しく、多神教の思想であります、また、十方の諸仏が、等しく阿弥陀仏を讃嘆する事は、一神教と同じ発想であります。
 この様に、二尊教には、一神教と多神教の優れた点を受け継いでいる節が見られます。日本の神道も、阿弥陀信仰から派生しているのかも知れません。アジアの南海上を伝来した『旧モンゴロイド』の神話に、其のルーツが有るようです。
 アフリカ東海岸から、ユーラシア大陸に進出した人類は、西に進んではヨーロッパ゚に向かい、東に進んだ連中がモンゴリアンに成りました。そのモンゴリアンがまたインドで、ヒマラヤ山脈を南と北に分かれて東に進むのです。阿弥陀如来の神話は、この南海上のルートを通った『旧モンゴロイド』が日本へ、更にアメリカ大陸にまで伝えた神話による伝承であります。インドから北側を通って東進したモンゴリアンは『新モンゴロイド』と名付けられていますが、此のモンゴリアンも、阿弥陀信仰を伝えました。日本には、その伝承が『仏教伝来』として伝えられたのです。所が、その佛教には、一神教の影響が強く、阿弥陀仏の信仰は仏教の主題とはならず、やがて、迷信の中に埋没して行きました。それは、異民族が競り合って覇権を競う、激しい競争社会では、一神教でなくては生き残れないと言う事情が有ったのでありましょう。
 それに対して、日本は。気候も穏やかであり、異民族とのせめぎ合いもない、平和な生き方が許された時代が縄文時代ではなかったかと思われます。其の為に、平和的な阿弥陀仏信仰が、熟して行ったものと思われます。
 日本には、南海上のルートから、旧モンゴリアンの文化が、仏教伝来より一万年も前から伝えられて、縄文文化として熟成されていました。其の為に、日本独自の阿弥陀仏信仰を育むことが出来たのであろうと考えられます。
 親鸞聖人は、越後流罪と言う経験を通して、縄文文化の余韻を色濃く残している越後の土徳に接して、縄文文化に影響されて行ったものと想像されます。また、親鸞の母は、源氏の生まれであると伝えられています。源氏は東国に本拠を持つ人々で、縄文人の血を多く引く人々であります。其の為に、親鸞による浄土真宗には、法然と異なる独自性が認められるのです。
 法然は、善導を忠実に継承しました。それは『新モンゴリアン』の伝承であります。しかし、それを受け継いだ親鸞には、法然に無いものが窺えるのです。是は、日本に仏教伝来以前から伝えられていた、縄文の信仰があったからではないかと考えられるのです。
 今日では、縄文時代の宗教は、全く影を潜めて覗う由も無いのですが、神話などの研究が進んで、神道の元の姿が復活すれば、あるいは可能になるかもしれません。それは今後の問題としておきます。
 この親鸞の阿弥陀仏信仰、浄土真宗は、今後、次第に浸透して、人類の心ある人々によって末永く伝えられていくものと思います。しかし、今の所阿弥陀仏の信仰は、日本語圏内でしか語られていません、日本語を超えて世界中に広まるには、言葉の壁があります。其の為には、もっと長い時間が懸ります。この辺の問題を解決する必要があります。ただ最近では翻訳技術が進みましたから、コンピューターによって、もっと簡単に翻訳が出来るようになれば、言語の問題は解決すると思います。是非そんな時代が来て、阿弥陀如来の信仰が、多くの人に理解してもらえるように成ろことを期待したいと思います。
 所で、二尊教と言う宗教の構造は、元々、唐の善導に始まる思想ですので、当時は中国でも大切にされていた筈であります。
  世々に善導いでたまい
   法照・小康と示しつつ・・・ (善導和讃)
と親鸞も詠っていますが、その後、百年余りで善導の教えは、失われて行ったようです。是を復活したのは、偏に、日本の法然上人でありました。その結果、今日では浄土教は、世界の中で日本以外には見られないのであります。
 本来、仏教はインドに発生し、中国を経由して日本に伝達されたものでありますから、かっては、インドでも、中国でも、浄土教は栄えていたのです。
 しかし、中国は現在共産主義の国に成りまして、宗教否定の思想が国是となりました為に、宗教は全く顧みられなくなっております。しかし、民間にはまだ余韻が残って居る筈ですので、復活する可能性はあるのです。何とか仏教復活の時代を迎えたえたいものです。 
 日本近代化の過程で、日中戦争を長く続けた為に、日中文化交流が困難になって居る事は誠に残念な事であります。何とか歴史を昔に取り戻して文化交流が出来るようになりたいものです。
 我々日本人が、中国から受けた文化の恩恵は、計り知れぬものがあります。今こそ、その恩恵を感謝して、日中交流をしなければならない時であります。それが仏教精神でもあります。中国にも心ある人は沢山いらっしゃるわけですから、もっと胸襟を開いて話し合いをすべきであります。それが仏教の復興にも繋がる訳であります。憎しみを超えて話し合える間柄を、仏教徒が始めるべきであります。
 先般、曇鸞大師の御遠忌が営なわれました時に、東本願寺から代表で行った方が、『同一念仏無別同故、四海之内皆兄弟也』とい追う言葉を引用して、『私達は、此の言葉を曇鸞大師から頂いて居る』とお話してきたと云って居ました。それが中国人にどう響いたかは判りませんが、今後も根気よくその精神を語り続けるべきであります。
 今日では、中国よりアメリカの方が文化交流が容易であります。コンピユーターの発達によって、外国語との変換が簡単になりましたので、欧米との交流が出来るようになれば、日本語と言う壁を越えて、浄土真宗が広まって行く事も可能になる事でしょう。そんな時代が来ることを念じながら、この世を去っていく次第であります。
 どうか世界中の人々が、念仏して平和に暮らして行ける時代が来ることを切念してこの稿を終わります。

釈迦弥陀は慈悲の父母(9)

釈迦弥陀は慈悲の父母 
            二尊教について 9  
 
 二尊教における弥陀と釈迦の関係を述べて来ましたが、いま何故、二尊教について強調しなければならないのかと言う事を、考えてみる必要があるかと思います。、
 宗教は、『一神教』と『多神教』と言う構造になっていると言われてきました。多神教は、あらゆる存在に神が宿っているという信仰でありまして、日本の『神道』の様に八百万の神の存在を認める信仰です。それに対して、一神教は、唯一神と申しまして、神はただ一神のみを認める信仰であります。
 宗教の発達過の上で、野蛮時代には多神教がもてはやされていましたが、進化が進むにつれて、一神教が最も優れた、進化したものとされ、多神教は進化していないものと考えられ、蔑まれてきました。これは一神教の立場からの考えでありますが、政治的に、一神教国家が優勢になり、多神教国家が押しつぶされて行った結果であります。  その考えが正しか否かはしばらく置きまして。国家としては確かに一神教国家が世界を支配してきました。中でも、キリスト教国家が世界を支配する時代が長く続いていましたので、一神教優位の思想は、世界の常識となった居ます。
 所が、非一神教国家である日本は、近代国家の中で辛うじて生きながらえて今日に至って居まして、一神教優位の常識に異を称えることが出来る、唯一の先進国であります。
 ただし、その日本は、仏教が衰えてしまっていますので、異を称える力がやや心細い次第であります。
 一神教は、優れた面も持っていますので、あながちに否定する必要はありませんが、一神教が持っている、負の面について、穏やかに話し合う必要があるのです。負の面とは、一神教同士の争いであります。これは一神教の抜き 難い負の面でありまして、これが克服されない限り、人類はあくなき戦争によって。やがて滅亡しなければなりません。
 人類も、いずれは、必ず滅亡する運命を免れ得ませんから、仕方が無いと諦めても良いのですが、折角、仏教と言う教えがあるのですから、何とか、話し合って滅亡を先に延ばして、生き残る方法を考えてもいいのではないかと思います。
 では何故、一神教同士は争わねばならないのでしょ云うか。それは『真理は唯一つである』と言う、原則論に固執するからであります。  所が、真理は見る者の見方によって、様々な姿を取るのであります。例えば、神は、原則として唯一でありましても、それを見る者は、夫々異なった見方をするのです。其の為に、ヤーウエーの神も、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で見方が異なるのです。各々自分の見方が本物だと言って、他者の見方を否定しようとします。そうなればこれは争いになるより外に道はないのです。寛容の精神で相手の言い分を許すと言うのですが、人間の寛容の精神なんか、頼りないもので、すぐ堪忍袋が破裂して終うのです。
 『真理は、唯一つである』と言う信念は、人間にはとても厄介な信念です。それは真理が、人間の判断によって判定されて居るからです。真理は元来、人間の判断では判定できないものなのです。
 真理は、人間の判断を待たずに、既に真理なのです。人間の判断には、常に、迷妄を孕んで居るのです。その事に気づかねばなりません。それを怠ると、人間の判断を絶対のものと思い込んで、それに固執するのです。
 それを、自我の固執と言います。本来無我であるべきものに、『我在り』として固執するのです。仏法の無我の教えに照らされて、照らされて、照らし切られて、如何に『我あり』と言う固執の深い自己であるかを知らされて、如来の前に、『出離の縁ある事なき我が身である』と、頭を下げる事に依らねば、『真理は、唯一つなり』と言う信念の固執から離れることは出来ません。
 一神教の弊害は、『我の固執』による、迷妄性から生まれるのです。『我の固執』の弊害に目覚めない限り、世界から戦争を無くすることは出来ません。所が、無我の教えは、容易には納得されませんから、厄介なのです。
 仏法の『無我の教え』が、世界の心ある人々に理解されて、宗教同士の争いが少なくなることに力を尽くす事が、目下の急務でしょう。
 宗教同士の争いは、寛容の精神では解決できません。我々の『我の固執』が如何に強いものであるかを、教えによって知らされ、徹底した懺悔を通さなければならないのです。その道は、往生浄土門の『お念仏申す』道しか無いのではなかと思うのですが、如何なものでしょうか。 兎に角、『我の固執』が問題であります。しかし、『無我』の教えは、仏教にしかありませんから、仏教以外の方とは、お互いに寛容の精神を尊重することを話し合うより外に道はないのでありましょう。
 幸い、キリスト教でも寛容の精神は尊重されていますので、先ずその一点から話し合う事が大事であります。イスラム教でも殺し合いをすることは、困ったものであると云う事は、理解されているのですから、話し合いさえ出来れば、問題解決の糸口は生まれると思いますが、今は貧富の格差が憎しみを生み出している時代であります。 そこで先ず、貧富の格差の是正と言う問題を解決しなければなりますまい。世界が益々、富の偏りの方向に進んでいる現代は、何とか、これを解決する事を考えなければなりません。中々難しい問題であります。  
 イスラムの過激派の思想が目下の世界不安の原因ですが、その背景には貧富の格差があります、それに対して、トランプ氏の様に、同じ原理主義で対抗しようとすることは、火に油を注ぐ事になり、世界戦争に成る危険があります。こんなことは、アメリカ人も分かって居る筈ですので、恐らく、アメリカも落ち着いて来る事でしょうが、とにかく、危険な状態が迫っているのが今日の世界情勢であります。仏教の無我の思想が世界の人々に理解してもらえることを祈る次第です。 

釈迦弥陀は慈悲の父母(8)

釈迦弥陀は慈悲の父母 二尊教について 8  
 
 二尊教は、釈迦と弥陀の二尊が別々の役割を果たしながら、一致して衆生救済を果たしてゆく宗教であります。
 釈迦は教主、弥陀は救主と言います。教主と言うのは教を説いてくださると云う意味で、私達は、釈迦の教えに依らねば絶対に救われません。しかし、釈迦は衆生を救わないのです。釈迦は、我々と同じ人間です。人間には人間を救う力はないのです。
 新興宗教では、その宗教を創めた教祖が、信者を救うのですが、その結果、必ず問題が起こっています。オーム真理教の浅原教祖は、信者から絶大の信頼を得て居たようですが、結果は御承知の通りです。これは教義が間違いであったのも事実ですが、それにもまして、人間である浅原教祖が救主であったからです。人間の行為には、必ず煩悩が付随しています。煩悩が付随している限り有漏の行為を免れ得ません。有漏は幾ら熱心に積み重ねても決して無漏にはなりません。
 人間を救うには、無漏の働きが必要です。しかし、無漏の経験は私達にはありません。ただ、私達に生まれる前から宿っていて下さる無漏の種子があって、この無漏の種子を激発して現行させる縁となって下さるものが、正法等流の教であると言われています。私達の聞法は有漏の聞法ですが、この有漏の聞法のみが、無漏の種子を激発して、無漏の信心を呼び覚まして下さると言うのです。この法則によって、我々は救われるのです。教えを説くのは釈迦です、その教えを聞いて、無漏の信心が生まれ、信心を因として往生即成仏の証果が得られる所に、浄土真宗の救済が成り立つのであります。
釈迦は、邪見を離れていたと言われますが、人間であると云う限界を護って、教主に留まって居る、ここに、二尊教の構造の特色があります。もし、聖道門の諸派が、二尊教の構造の趣旨を忘れて、釈尊を、救主とするならば、必ず、正しい宗教としての性格を失います。 
 また、一神教は、救主である神の地位は揺るぎませんが、神の意志を伝える教主としての役割が、あいまいに成って居ます。キリスト教では、預言者が神の意志を伝えるのですが、二尊教の釈迦や諸仏と違い、神に依る被造物の人間であり、神の前には、絶対服従を迫られる存在であります。人間は、全て、唯一の神に依って創られた『被造物』であり、神に対して絶対服従を強いられる関係であります。仏教には、被造物と言う思想はありません。全て仏と成るべき存在であります。其の為に、一神教には、仏教の様な『仏と仏が念じ合う』と言う関係はあり得ないのです。
 これは大事な問題でありますから、ゆっくり考えて見たいと思います。一神教の神は、唯一神でありますから、他の神の存在を認めません。神以外の存在は、全て神によって創られた者、即ち『神の被造物』です。ですから、神は絶対者であり、一切を神の意志の下に統一します。これは、大衆を統率する為には都合が良いのですが、いきおい、弱い者や、愚悪な者の訴えは見落とされ、切り捨てられて仕舞ます。
 二尊教の佛は『弥陀即諸仏』と言われる様に、弥陀と諸仏とは、互いに念じ合う関係です。それを『仏々想念』と申します。弥陀は諸仏によって讃嘆されて弥陀と成り、諸仏は弥陀に念じられ、弥陀を讃える事によって諸仏と成り得るのです。弥陀を離れて諸仏無く、諸仏を離れて弥陀は存在しないのですが、弥陀と諸仏は平等の関係であります。。
 此の弥陀と諸仏の関係は、蓮如上人の時代にやや薄められて、弥陀一佛を頼めと勧められて、浄土真宗の歴史から忘れられる運命を辿りました。しかし、最近になって先輩の方々の努力によって復活することが出来ました。誠に、喜ばしい事であります。
 諸仏と言うのは、元は衆生ですから、弥陀は、衆生を軈て必ず仏となるべき存在と認めて、拝んでいるのです。十方世界の全ゆる衆生を、全て、仏と成るべき者と拝む所に、阿弥陀仏の深い慈悲と智慧があります。それを『若不生者、不取正覚』の誓いと言います。
 弥陀の浄土には、『如来浄華衆、正覚華化生』(眷属功徳荘厳)と云う荘厳が説かれています。眷属とは親子兄弟です。決して主君と臣下と言う関係ではありません。友、同朋です。弥陀と衆生の関係は、衆生の方から言えば、絶対の権威をもった如来でありますが、如来は、『我が善き親友』と、衆生を呼んでいるのです。この様な関係は、一神教には絶対に許されないことであります。 この様な神と人間の関係を持つ神を、神話学者は、『グレート・スピリット』と言っています。アメリカインディアンの神話から名づけられました。
 アメリカに派遣された宣教師たちが、インディアンの神話を調べて、『君たちが云う神は、キリスト教のゴッドだよ』と言うのですけれども、彼達は、絶対に頷かないのです。そこで、その神を『グレートスピリット』と名付けることにしたと言います。確かに、ゴッドとグレートスピリットとは違うのです。その違いは、彼らは説明出来なかったかもしれませんが、両者は、一見極めて似ているように見えるのですが、実は、決定的に異なる神格を持っているのです。その違いを、アメリカイディアン達は、ちゃんと見抜いていたのです。
 恐らく、アリューシャン列島を伝ってアメリカ大陸に渡ったモンゴリアンが伝えた神話でしょう。我々日本民族と同一のルーツを持つ民族ですから、同一の神話を持っていたのでありましょう。大無量寿経も同じルーツから生まれたものではないかと考えられます。それは異訳の『大阿弥陀経』の語り方が彼等の神話と似ているのです。
 とにかく、スピリット達は、一斉にグレートスピリトを讃嘆するのですが、グレートスピリットは、スピリット達を決して支配しようとはしないで、友として遇するのです。これが阿弥陀と衆生の関係なのです。
 『衆生、仏に成らずば、我も正覚を取らじ』との誓いは、まさに此のことを語っていたわけです。是は仏の『無縁の大慈悲』であります。      
  
  十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
   摂取して捨てざれば 阿弥陀と名ずけたてまつる (弥陀経の意)
 
 阿弥陀仏の名は、偏に、念仏の衆生を摂取不捨して下さるが故の名であります。衆生を摂取して仏に成らしめずには、阿弥陀とは成らないと言う誓いに報いた如来です。 
 弥陀と釈迦(諸仏)の関係は、仏々相念の関係ですから、其処には、主従の関係は見られません。経典の中には、仏と菩薩の関係を主従の関係として現したものも見られますが、阿弥陀と衆生の関係では稀に説かれて居るだけです。是は法華経の影響ではないかと思われます。
 親鸞の和讃にも、 

  智度論にのたまわく 如来は無上法王なり   
   菩薩は法臣としたまいて 尊重すべきは世尊なり (竜樹和讃) 
と言うのがあります。これは、如来と菩薩の関係です。弥陀と衆生の関係ではありません。阿弥陀仏は、何処までも、衆生を『我が善き親友なり』と言い、如来の眷属として下さるのです。『眷属功徳』は浄土の功徳であります。

釈迦弥陀は慈悲の父母 (7)

釈迦弥陀は慈悲の父母  二尊教について (7)

 さて、次に『無因論』ですが、我々は、現在『無因論』のただ中に住んでいるようなものです。と言うのは何事をしても、自分の思い通りに成ることは少なくて、思う様にならないことが次々に起こってくるのです。そんな時『まあ仕方が無いさ』と言って済ましているのですが、こんなことが日常に度々起こっているのです。   
 人生はこんなものだと考えて、自暴自棄になる程の事もありませんが、これは、全て『無因論』に陥っているのです。  
 この世の出来事は、全て然るべき原因があって起こるのですが、我々にはそ れが予知できませんから、突然起こる災害の様に見えるわけです。その災害に ついては、ただ慌てふためくより手が無いのあります。  
 そこで神や仏に、災害が来ないように祈るのですが、一向に効き目がありません。遂にこの世には神も仏も有るものかと言うことになります。   
 このような生活は、徒に、無意味な生活をただ惰性に任せて送るだけの人生ですから、やがて、愚痴の中に空しく死んでゆく事になります。  
 そのような我々に、

        本願力に遇いぬれば      
        空しく過ぐる人ぞなき      
        功徳の宝海みちみちて      
        煩悩の濁水へだてなし

と、愚痴に終わるより外に道の無い者に、『功徳の宝海みちみちて、煩悩の濁水へだてなし』と言える人生を与えられる道が、既に成就されていたのであります。   もし今生に於いて、本願力に遇うという御因縁が無くて終われば、永く人生空過の嘆きを見る事になります。偶々遇いえた本願の教えでありますが、如来は久遠から待ち続けて居て下さていたのであります。『偶々行信を得ば、遠く宿縁を喜べ』との親鸞聖人の仰せ、誠に仰せの通リであります。
  無因論の直中に居る我々をその中から救い出して、この人生に意義を見出して生きることが、この教えに遇うた唯一の幸せであります。この幸せを、一人でも多くの人々に分かって差し上げたいと願うのです。それを『自信教人信の誠を尽くす』と言います。
 昔、大谷大学が創設されたとき、時の学長が、此の言葉を学是とされたと聞いております。  
 日本全国に散在するお寺も、偏に、『自信教人信の誠を尽くす』の為に建てられている訳ですが、いつの間にか、それが単なるスローガンになってしまいます、申し訳ない事であります。今こそ、この精神のために奮い立たねばならない時であります。  今の時代は、正しい宗教が見失われています。一神教も、本来の役割を見失い、戦争に拍車をかけることに精を出しています。仏教もすっかり本来の精神を忘れて、死者儀礼に明け暮れています。浄土真宗も葬式と法事しか役割が見出せない状態であります。  
 宗教が正しく認識されて本来の使命を取り戻すことは容易ではありません。しかし、宗教が復活しなければ人類は滅亡に至るのでしょう。誠に現代は人類存亡の重大な危機に逢着しているのです。  此処まで、宗教の健康性を保つために、二尊教と言う構造が重要であることを述べて来ました。しかし、其の為に一神教を排除しようとしているのではありません。宗教が色々の事情によって生まれている事を理解して、互いに他の宗教を認め合い、冷静に話し合っていく必要があるのです。  仏教は宗教戦争をしてこなったと言われています。しかし、仏教も宗教戦争を全然しなかったとは言えません。戦争に巻き込まれた歴史が度々ありました。仏教も一神教的な傾向になる時、特に、戦争に巻き込まれる危険性が生まれます。心すべき事です。
 日蓮上人などは、法華経の一神教的傾向に依り、好戦的な信仰を推し進めました。しかし、仏教の思想には戦争を避ける思想が根強く生きている筈です。
 日本が戦争に明け暮れした時代には、仏教などは戦争に役立たないものと言われ、蔑まれてきました。人類が戦争を止められない限り、浄土真宗は余り歓迎されないでしょう。しかし、浄土真宗の思想は、それでも必ず生き残れる筈です。人生とは、そんなものです。
 浄土真宗は、たとえ歓迎されなくても、二尊教の思想を発信し続ける必要があるのです。自信を持って、このことを訴え続けて行きたいと思います。
 二尊教の構造は、他の宗教には見られない構造です。仏教、就中浄土真宗にのみ見られるものでありましょう。従って、これを理解してもらうには、苦労が必要です。
 今日、世の宗教が、軒並みに、現世の幸福を祈るものと考えられている中で、それは偶像崇拝であって、真の宗教では無いことを、人々に訴える事は、容易ではありませんが、地道に、偶像崇拝の真の意味を説得し続けることです。世界中の心ある人に必ず通ずる筈です。
  偶像崇拝と言う言葉は、元々、ユダヤ教に始まる言葉でありますから、一神教の人々にも理解して貰える筈です。今こそ、此の言葉の意味が重要な役割を演じなければならない時であります。 宗教が人間の心を、正しく育て、最も健康な精神生活を保つ為の役割を果たす為に、二尊教の構造は大事な存在であります。
 人間の 健康な精神生活を護る為には、観念化と偶像化、他因論化と無因論化の排除であることを繰り返して述べて来ました。此れを達成する為に、二尊教の宗教が是非必要であることを心に止めて置いて頂きたいのであります。

 

釈迦弥陀は慈悲の父母 (6)

釈迦弥陀は慈悲の父母
            二尊教について (6) 
 此処まで浄土真宗は決して他因論ではないと云う事を述べて来ました。恩寵
の信仰は、有り難い仏様のお慈悲によって、救われるのであると云う事です
が、仏教の自因自果の道理から見るとき、これは危険な思想であります。
 『我々は何も出来ない凡夫であるが、有り難いお慈悲によって「その身其の
儘」お救い下さるのである。』と言う論法です。今日でもこんな事を吹聴して
いる説教師が居るのです。
 これは明らかに他因論です。仏教は飽く迄も自因自果の道理を堅持します。
信心は、私の内に成立した自覚でありまして、この自因によって、自果が得ら
れるのです。それを親鸞は、『自の業識』と言います。『光明名号』は外縁で
あり、『自の業識』は内因であります。
 『良に知んぬ、徳号の慈父無ずば、能生の因闕けなん。光明の悲母無ずば、
所生の縁乖きなん。能所の因縁和合す可しと雖も、信心の業識に非ずは、光明
土に到ること無し、真実信の業識斯れ則ち内因と為す。光明名の父母、斯れ則
ち外縁と為す、内外の因縁和合して報土の眞身を得証す』
           〔光明名号両重の因縁〕(12の38)
 『光明名号両重の因縁』と言うのは、徳号の慈父と光明の悲母の因縁が一つ
の因縁で、真実信の業識を内因とし、光明名を外縁とすると云うのが二つ目の
因縁であります。この二つの因縁の内で、真実信の業識を内因とし、光明名を
外縁とするとすると言う二つ目の因縁が、報土得生の因縁であります。この二
つ目の因縁によって、我々の往生が決定されるのです。
 『真実信の業識』と言うのは、聞法の縁に依って内に隠れていた『無漏の種
子』が開発されて、無漏の経験としての『真実信心』が獲得されることです。
この信心は、私の内に開かれた私の心ではありますが、『無漏の経験』であり
ますから、真実信心と言われます。 
 聞法は『有漏の経験』でありますが、『無漏の経験』を現行させる唯一の縁
となる働きを持つ経験であります。これが『護法』が見出した、『本有の無漏
の種子』という唯識の法則でありました。護法は、如来蔵思想によって、この
法則を見出したのでありましょう。
 恩寵の信仰は、人間の発想でありますから、有漏の経験であります。有漏の
経験は、いくら重ねても無漏にはなりません。しかし、有漏の経験ではありま
すが、『聞法』だけが、無漏の経験を引き出す縁になると言うのです。私達の
心の奥に、生まれてくる以前から、賜っている無漏の種子が存在すると云う事
は、如来蔵思想の主張であります。『一切衆生悉有仏性』と云う事です。仏性
と雖も、種子でありますから、直ちに動くことは出来ませんが、縁を待って必
ず動き出すことが出来るのです。
 聞法を続ける限り必ず動き出すのがが、無漏の種子(仏性)なのです。聞法
以外に信心を獲る方法はありません。ひたすら、信心が獲られるまで聞き抜く
ことです。
 親鸞の先の『光明名号両重の因縁』の文章を見る限り、恩寵の信仰が入り込
む隙は見当たりません。まさに親鸞の面目躍如たるものがあります。
 恩寵の信仰は、神の恩恵の結果ですから他因論であり、奇跡信仰は偶然の結
果でありますから無因論であります。釈迦弥陀二尊の教えはこの他因論と無因
論を超克するものであります。
 この地上に人間の形をもって生まれた者は、決して、『俺に着いて来い』と
言ってはいけないのです。それは権威や権力によって人間を支配する行為であ
ります。『俺に着いて来い』と言うのば、権威に依る支配で『強権主義』であ
ります。一神教はその構造のために、必ず教権主義になります。教権主義は他
因論です。
 釈迦牟尼仏は、人間ですから、決して『我に来たれ』とは言わないのです。
必ず『仁者(きみ)行け』と言うのです。『君、往け、我も共に行かん』と言
うのが娑婆の化主の役割であります。それを善導は『娑婆の化主、物の為の故
に想を西方に住せしめ』と言いました。
 此処に『二尊教』の重要な特質があるのです。即ち、娑婆の化主(釈迦)
は、『我に来たれ』とは言わず。『往け』としか言わないのです。それに対し
て、阿弥陀如来は、『我が国に来たれ』と言います。
 しかし、その阿弥陀仏の声は、人間には聞こえない声です。釈迦の教法を聞
くことによって頷くことが出来る声です。
 阿弥陀仏の姿も、人間の目では見えないのです。釈迦の説法によって、如来
ましますと、確かに頷く事が出来るのです。それを観経では、『空中に住立し
た阿弥陀如来』と表現しました。
 釈迦は此の岸に立って『往け』と発遣し、弥陀は、彼の岸から『汝来たれ、
我能く護らん』と召喚するのです。この二尊の役割が、二尊教の重要な構造で
あります。
 善導は、これを『まさしく娑婆の化主、物の為の故に想を西方に住せしめ、
安楽の慈尊、情を知るが故に即ち東域に影臨したもうことを明す。これすなわ
ち二尊の許応異ることなし、ただ隠顕殊あり。まさしく器朴の類、万差なるに
よって、互いにエイ匠ならしむることをいたす』と言います。これは観経の空
中住立の経文の解釈です。
 『二尊の許応異ることなし、ただ隠顕殊あり』とは、二尊教の構造を言い表
したものです。『二尊の許応異なし』と二尊一致を表して、偏に、『二尊』が
力を合わせて、衆生救済のため尽くしていることを示して『二尊一教』の趣旨
を示しています。
 所が、『隠顕殊あり』とは、二尊の異なる役割を語るのです。『顕』は弥陀
が空中に現れた事を言うのですが、『隠』とは釈迦が隠れたのです。今までは
釈迦は『身、紫金色にして、百宝蓮華に座し給えり』と最高の姿で表されてい
ました。所が、ここではその姿を隠したのです。
 何処へ行ったのかと言いますと、凡夫の姿になって、イダイケと共に念仏し
ているのです。これが『共に往かん』と言う姿であります。
 釈迦も弥陀の前では、罪業深重の凡夫の姿で念仏するのです。最高の釈迦牟
尼仏の姿を消して、凡夫の姿になることが『共に往かん』と言う釈迦の姿なの
です。それを『隠顕殊あり』と善導は言いました。実に巧みな表現でありま
す。
 これで『二尊二教』の儘が『二尊一教』になる道理が明らかに成りました。
『二尊二教』と『二尊一教』と言う構造が 二尊教の大切な姿であります。此
処に、宗教の健康性が保たれる重要な理由が有るのです。 
 宗教の健康性とは、人間は他を支配したり、強権によって他を縛ることは出
来ないと云う事です。権威を用いて他を束縛することが、宗教の健康性を破る
ことになります。
 権威を用いて他を支配することは、不健康なことでありますが、ジハードと
称して、他人を殺すことを正当な宗教行為とする事など、以ての外の事であり
ます。
 ここに、一神教が抱えている、最も困った問題があることを、世界の人々に
正しく知ってもらう必用があるのです。一神教は、優れたところも沢山有る訳
ですが、一神教以外の宗教の存在を許す寛容な精神を持つべきでしょう。これ
は、キリスト教などには見られる傾向です。ただ原理主義者は排他的傾向が強
いようですので、もっと冷静に話し合ってゆく必要があります。 
 此の事をはっきり発信出来るのは、『二尊教』の持つ特権であると言えまし
ょう。浄土真宗は、冷静に、他の宗教と話合って、お互いの存在の意義を認め
相ながら、宗教の健康性を大切に保って行きたいと思います。

釈迦弥陀は慈悲の父母 (5)

釈迦弥陀は慈悲の父母
            二尊教について (5)  
 宗教の観念化とは、人間の分別(所知障)に依って、宗教とはこういうもの
と決めてかかることです。人間の知識によって宗教を解釈するのです。
 私は『水琴窟 14と15』で、渡辺照宏氏の『日本の仏教』に対する、二
葉憲香氏の比判文を紹介していますが、渡辺氏の佛教理解は、まさしく、人間
の知識に依る宗教理解で、宗教の観念化の最も顕著なものであります。
 宗教はこの様にして歪められ、誤解されてゆくのです。現代では、宗教の
『偶像崇拝化』と『観念化』とによる歪曲と誤解が最も盛んな時代であると言
えましょう。それ故に『健全な宗教』の復活が何よりも急がれているのです。
 浄土真宗の『二尊教』の教えが、現代と言う時代に果たすべき役割を、声高
く叫ばねばならない所以であります。             
 今こそ、我々は、『無因論』と『他因論』とを超え、『宗教の観念化』と
『偶像崇拝』を超克して、宗教の正しい理解を通して、信仰生活を護らねばな
りません。
 宗教には。今述べたように様々な誤解や偏見が付きまといます。だからと言
って宗教を毛嫌いして、無信仰を誇ることも現代人の大多数が犯す大きな間違
いであります。
 信仰は、現代人の誇る理性によって否定されるものではありません。正しい
宗教は、理性では律し出来ない深い叡智から生まれてくるものです。人間の理
性は、如何に発展しても、所詮、目に見えるものしか考えられないのです。
目に見えるものとは、私達の五感に依って捉えられるものと云う意味です。
五感に依って捉え、それを意識で判断するものは全て目に見えるものと言うこ
とが出来ます。
 所が、人生には意識で判断できない、即ち、理性では測れない現象がいっぱ
いあるのです。さしずめ、自分の命すら予測出来ないのです。一寸先が闇なの
です。全く知る由もなく、予測する事も出来ない世界を、手探りで歩いている
のですから、不安と疑心暗鬼の中に住んでいるのです。その為に色々の怪しい
疑似宗教がはびこるのも無理からぬ事です。
 人生を生きる為の、大事な羅針盤を、全く頼りにならない理性に頼るより外
ないのが現代人の弱みであります。
 そんな理性を金科玉条のものと考えて、理性で測れないものは、無い物と言
って無視して生きるのは、誠に愚かなことです。所が現代人は、そんな愚かな
ことを平気で犯しているのです。
 この現代人の欠陥を救うものが宗教なのですが、その宗教がいかがわしいも
のばかりでは全く救いがありません。
 我々は、先ず、正しい宗教とは如何なるものかを、検討しなければならない
のです。心ある人は、是非真剣に、この問題を究明して頂きたいのです。
 私は正しい宗教の指標として、『無因論』と『他因論』の超克と、『偶像崇
拝』の排除と『宗教の観念化』の克服と言う、四つのキーワードを掲げて論じ
て来ました。何れも大事なものですが、『無因論』は何物も信じないというの
ですから、勿論、宗教も信じないというわけで、これはもう論外でありますか
ら暫らく後に回して、浄土真宗が最も陥りやすい問題は『他因論』でありまし
ょう。それで、先ずこの問題に取り組むことにしたいと思います。
 先ず、浄土真宗に於ける『他因論』の超克とは、何ういう事かを考えること
とします。
 浄土真宗は、八代目蓮如上人に依って全国に拡まりますが、同時に弊害も生
まれました。それは、二尊教の精神が薄められ、一神教的な傾向に傾斜してい
ったことです。蓮如は弥陀一佛を立て、諸仏の意味を変えることによって、二
尊教の意義を後退させました。その後『お文』重視の真宗の布教は、次第に宗
祖の精神を見失い、他力本願は『他者依存の思想』と見られ、他力本願は駄目
だと言われるようになったのです。これは他力本願が誤解されてしまったので
すが、その要因には、多分に真宗自体に思想の変化があったことを認めないわ
けにはいきません。
 この真宗教学の弊害を見出して、警鐘を鳴らしたのは、明治時代に生まれた
哲学者、清沢満之でありました。更に、其の精神を受け継いで立ち上がった人
は多く居ましたが、その中で特に大事な働きをしたのが、曽我量深でありま
す。
 しかし、戦前は、曽我量深は異安心だと言われ、金子大栄と共に大谷大学を
追放されるということまでありました。結局、曽我・金子両氏が認められ活躍
することが許されるのは、戦後に成ってからであります。 
 今日と雖も、まだ古い風習は真宗に色濃く残って居まして、他力本願の誤解
が容易に解けないのです。
 徳川時代の布教の中心とされた『お文(御文章)』には、『夫れ、十悪五逆
の罪人も五障三従の女人も、空しく皆十方三世の諸仏の悲願に漏れて捨て果て
られたる我等如きの凡夫なり。然れば、ここに弥陀如来と申すは三世十方の諸
仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられた
る末代不善の凡夫・五障三従の女人をば、弥陀に限りて「われひとり助けん」
と言う超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて無
上の誓願を発してすでに阿弥陀仏と成りましましけり』と言われています。
            (二帖目、第八通、29の21)
 この様な表現は、お文に何か所も見られるので、後の人が、次第に一神教的
に傾いて行ったのも無理もないことと思われます。蓮如上人の意図は必ずしも
そうでは無かったかも知れませんが、当時の社会の実情では、一神教でなけれ
ば生き残れないと言う社会的事情もあったのです。
 親鸞聖人は、諸仏の意味を第十七願の上に見られ、阿弥陀仏の特長として
『諸仏の発見』を挙げられます。これは二尊教の特色でありまして、阿弥陀仏
は、諸仏に優れて様々な優れた徳を備えて居ますが、決して諸仏の上に立って
諸仏を支配しようとはしないのです。
 これが、一神教との重大な相違点です。一神教は、唯一神教でありまして、
その神は、唯一絶対の権威を持っていて、他に神の存在を認めません、そうし
て、この世の中の全らゆる存在は、被造物であって、全て唯一神に帰属すると
主張するのです。
 この世の被造物は、其の唯一の神に、絶対服従すべきものとされています。
此処に、絶対服従の構造が確立して、戦争のときに最も好都合な人間関係が成
立するのです。
 『十方の諸仏に見捨てられた我等凡夫を、阿弥陀仏のみ、我助けんと誓い給
いて』とい言う表現は、蓮如当時の諸宗の仏と言う意味でありましょうが、親
鸞の考えた諸仏とは違っていたわけです。
 親鸞の諸仏は、釈迦弥陀諸仏と言う諸仏でありますから、二尊教の諸仏であ
ります。
 二尊教の場合は、諸仏と弥陀の関係は、弥陀によって見出された諸仏であり
ます。弥陀は一切の存在を諸仏と認めて尊敬するのです。決して、絶対服従を
要求する思想ではありません。
 二尊教に於ける阿弥陀仏は、一切の存在に、弥陀と同等の悟りを得ることを
認めるのです。即ち、一切の存在を、弥陀と同じ仏にしなければ『我も仏にな
らじ』と誓っている訳です。
 その為に、戦争のような時代には、絶対服従を要求する思想がもてはやされ
るのです。日本も、戦時中は、専ら、絶対服従がもてはやされて、浄土真宗な
どは、戦争に役に立たない軟弱な思想と蔑まれていました。この風潮は、今も
後を絶つていません。
 しかし、戦乱と言う過酷な時代の荒波を潜り抜けて、度々の危機を経ても、
浄土真宗が今日まで立派に受け伝えられたと言う事実に、我等は深甚の敬意を
表すべきであります。
 是は偏に、親鸞に『教行信証』と言う著作が有った為であります。この親鸞
の労作が存在しなかったなら、今日浄土真宗は存在し得なかったと考えられま
す。改めて、聖人の御恩徳の深さを深謝申し上げる 次第であります。
 以上、長々と述べて来ましたように、度々の危機に逢いながらも、浄土真宗
の二尊教の信仰は、他因論に堕せず、無因論にもならず護られて来ました。世
界の殆どの宗教が、恩寵の信仰(他因論)か、奇跡信仰(無因論)に落ちてい
る今日、無因論は勿論ですが、他因論にも堕ちることを拒否して、正しい信仰
を堅持してきた浄土真宗は、貴重な存在であります。是非これを末永く受け継
いで行きたいものです。
 浄土真宗の他力の信仰は、決して他因論(恩寵の信仰)ではありません。親
鸞は『他力と言うは如来の本願力なり』(12の40)と言いました。続いて
曇鸞の浄土論注を引用して、長々と他力論を展開しています。又、曇鸞の論注
『因無くして、他の因の有るには非ざるなり』(12の66)(12の76)
(12の122)(12の127)と、同じ文章を、四度まで引用して注意を
呼び掛けています。 我々は此の親鸞の深意を熟読拝受すべきであります。

釈迦弥陀は慈悲の父母(4)

 釈迦弥陀は慈悲の父母 4 (二尊教に就いて)

 釈迦と弥陀と別々の役割を果たすことによって、健康な宗教が保たれると言うことですが、其れはどう言うことでしょうか。
『娑婆の化主、物の爲の故に、想を西方に住せしめ。安楽の慈尊、情を知るが故に、東域に影臨す』と言われます。これは善導の第七華座観解説の言葉です。
 娑婆の苦悩の衆生を教化して下さる釈尊は、我々衆生の爲に、想を西方の阿弥陀如来の
上にとどめ、専ら阿弥陀仏の本願を臆念し、衆生にその本願を信楽する事を勧めるのです。
 一方、阿弥陀如来は、衆生の情願を知り給うが故に、姿をこの娑婆世界に現して下さると言うのです。これが観無量寿経に説かれる『空中に住立する阿弥陀』の意味であると言われています。
 この事を善導は、『応声即現』と言いました。声に応じて阿弥陀仏は衆生の前に身を顕す言うのです。『声』とは釈迦如来の説法の声です。『東岸に人の勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて、直ちに西に進むと言うは、即ち釈迦すでに滅したい後の人見たてまつらざれども、尚、教法有りて尋ぬ可きに譬う、即ち之を声の如しと喩うるなり』(二河白道、12の64)と善導は言います。

 善導は『声』という言葉に特別注意を払って大切に用いています。『声』はただ音声というので無く声の響きです。教えの声を、只、聞くのでなく、声の奥にある心を聞き取ると言う事です。教えは声となって衆生を呼び覚ますのです。声を聞き得る人にならねば、宗教は成立しません。
 釈迦はひたすら弥陀の本願を説いて、声となって、我々衆生に『願生彼国』の心を呼び起こすのです。
 弥陀は、その釈迦の説法の声に応えて、南無阿弥陀仏となって、衆生の前に現れるのです。従って釈迦の声を聞かない者の前には、阿弥陀仏は姿を現しようがありません。それで『応声即現』と言ったのです。
 釈迦は衆生の爲に、弥陀の本願を説くのです。その声を聞き得た衆生が、『聞其名号信心歓喜』して、彼の国に往生したいと願う時、阿弥陀如来はこの人の前に現れるのです それが南無阿弥陀仏です。『本願を信じて念仏申す』者の前に、阿弥陀仏は現れて下さるのです。しかし、人間の目で見るのではありません。;人間の目は如来を見ることは出来ない構造になっているのです。信心決定した心が、信心の智慧によって、如来のましますことに頷くのです。この頷きを『空中住立の佛』と表現したのです。
 次に善導は、第八像観には、『応心即現』と言いました。先に、『安楽の慈尊、情を知るが故に、東域に影臨す』と言われています。その『情』を『情願』と置き換えました。これは曇鸞大師の言葉であります。曇鸞が情願と言ったのを、善導は『情』と縮めて言ったのです。『情願』とは、我々人間の心の奥深くに隠されている『真実なるものに逢いたい』と言う『深い心の底の願い』であります。
 この情願は、人間である限り誰の心にも必ず宿っている心なのです。『私にはそんなものはありません』と言っても、必ず誰も持っている心なのです。しかし、殆どの人が、それを自覚していないのです。
 所が、如来は智慧によって其れを見抜いて居られるのです。それを『安楽の慈尊、情を知るが故に』と言ったのです。阿弥陀仏は、この情願に応えて姿を現すのです。情願に目覚めないもの前に現れることは出来ません。だから、『衆生の心中に入りたもう』と言い、『是心作佛、是心是佛』とまで言ったのです。この情願を離れては、阿弥陀仏と言うも、只、観念の遊びに過ぎない、無意義なものに成るのです。
 善導は、この『応声即現』と『応心即現』という二つの言葉で『二尊教』の意義を明確に示しました。此によって宗教の健康性を確保したのです。
 即ち、化主である釈迦は決して『我に従え』と言わないのです。『阿弥陀仏に従え』と言うのです。『友よ、行け、我も共に行かん』と言うのです。此が宗教の健康性を保つ法則であります。
 次に、宗教の健康性を保つ爲のもう一つの法則は、偶像崇拝の排除と観念化の超克であります。
 偶像崇拝は、宗教に執拗に付きまとう問題であります。佛教の仏像を偶像崇拝だと言って非難する人が居ますが、仏像を拝むことが直ちに偶像崇拝だとは言えません。佛教は仏像を拝むことによって逆に偶像崇拝を超克する道を開いたのです。
 偶像崇拝は、崇拝すべき対象を、前に掲げてその対象に向かって、人間の要求を祈ることです。その為に対象と自分と二者対立の形となり、自分の求める要求が主目的となります。世間の殆どの宗教はこの形であります。此は、健康な宗教では有りませんから、迷信と言わねばなりません。
 キリスト教やイスラム教は、厳しく偶像崇拝を禁じましたが、果たして本当に偶像崇拝を克服しているのでしょうか。
 そもそも、偶像崇拝という言葉は、遠くモーセの『十誡』に始まっているのです。その時、果たして偶像崇拝の意味が何処まで深められていたのでしょうか。後の時代になって、イスラム教が、佛像破壊を繰り返す過ちを引き起こす原因が既にこの言葉にあったことは否めません。
 今更、この言葉を改める事は難しいのですが、言葉の本当の意味を理解して欲しいものです。
 『偶像』とは、人間の思いで、勝手に神を作り上げて、その神に、人間の思いから礼拝をする事です。その礼拝は、人間の思いから出た要求なのです。問題は、人間の思いから出た要求には、必ず不純なものを孕んでいると言う事です。モーセもそれを言いたかったのでしょう。
 所が、それが誤解されて、ただ仏像破壊に繋がったのは、残念な結果でありました。しかし、其処には微妙な問題が隠れて居るようです。
 偶像崇拝には、根深い人間中心の思いが隠されて居て、巧みに神を利用し様とする人間の欲望が存在して居ます。この人間の欲望を徹底して見破って照らし出す事が、、宗教の健康性を保つ条件であります。
 もう一つ宗教の健康性を保つ条件は、観念化の克服です。私達は分別によって、全ゆるものを解釈して生きています。此は善い事、此は悪い事、あれは美、あれは醜、あれは好き、あれは嫌いと言う風に、善悪美醜を分けて身を処して居るのです。世間では此によって身の危険を避け、快適な環境を選んで今日まで生きられたのです。ですから、分別は生きるために大切な機能です。所が、この分別は、時に大切なものを見誤らせませる働きをするのです。
 佛教の言葉では、これを『所知障』と言います。所知を障えてしまうと言うのです。所知とは、人間が本当に人間らしく生きるために、知らねばならない必要なものと言う事で、それを邪魔して知らせない働きを『所知障』というのです。佛教の歴史を調べてみると、小乗佛教の時代には『煩悩障』だけが考えられていて、『所知障』は取り上げられていません。大乗佛教になって初めて『所知障』が問題になります。
 大乗では、煩悩障よりは所知障の方が重要な問題と見なされます。煩悩の方は佛の智慧によって処置出来ますが、所知障は、その佛の智慧を得させない働きを持っているのですから始末が悪いのです。
 所知障は、何も解らないのではなく、何でも解っていると思って自負して居るのです。何も解らないと言う人間は救いようがありますが、何も彼も解っていると言う人間は、救いようがありません。所謂、答えを知っている人間です。
 問いを持つ人間は救いようがありますが、答えを持っている人間は救いようが無いのです。

釈迦弥陀は慈悲の父母(3)

釈迦弥陀は(3)
【二尊教に就いて】
 観無量壽経の第七華座観に、空中に住立する阿弥陀如来が影臨する姿が説か
れます。其処に、釈迦・弥陀二尊の関係が適切に述べられています。
 『娑婆の化主、物の為の故に想を西方に住せしめ、安楽の慈尊、情を知るが
ゆえにすなわち東域に影臨したもうことを明かす。これ即ち、二尊の呼応異な
ることなし。ただ隠顕殊あり』と善導は言います。 
 二尊の呼応によりて、衆生の救いが成就されるのです。釈迦弥陀二尊は、
それぞれ別の働きをしながら衆生の救いという一つのことを成就するのです。
唯ここに『隠顕殊あり』という言葉があります。『顕』は弥陀が現れることで
すが、『隠』は釈迦が隠れたと云うのでしょう。経典にはそんなことは説かれ
ていませんから、善導が勝手に解釈したのです。
 それまでの世尊は、『身紫金色、座百宝蓮華』と説かれていました。その最
高の姿をしていた釈迦が、姿を消したのです。どこへ行ったのでしょうか。
 これは、釈尊も、尊高の姿を変じて、我々と同じ凡夫の身になったのでしょ
う。阿弥陀仏を礼拝すものは、凡夫の身になって南無阿弥陀仏と称するので
す。釈迦の声に応じて弥陀が出現したということは、釈迦が念仏していること
であります。
 釈迦は、弥陀の本願を衆生のために説くのですが、自らもその本願に帰命す
るのです。それが、南無阿弥陀仏の心であります。イダイケは、その釈尊の姿
によって阿弥陀仏を拝し奉ることが出来たのです。
 『仏力によるが故に』とは、釈迦の念仏の姿によるが故にと言うことです。
念仏によらねば念仏は伝えられません。第十七願の成就はそれを表しているの
です。
 大無量寿経下巻には、第十七願成就文が二度繰り返して挙げられます。この
第十七願成就によらねば、仏滅後の衆生が阿弥陀仏に遇うことが出来ないので
す。
 これこそ、『世尊我今仏力に因るが故に無量壽仏及び二菩薩を見たてまつる
ことを得たり、未来の衆生、當に如何にして無量壽仏及び二菩薩を観たてまつ
るべき』と言う、イダイケの切実な問いに答えたものであります。
 釈迦弥陀二尊の、発遣と召還と云う『二尊二教』の構造によって、衆生の救
済が成立するという『二尊一教』が成就するところに、浄土真宗の特徴があり
ます。この二尊教の宗教構造が、もっとも健康な宗教構造であると言われてい
ます。そもそも、健康な宗教とは、如何いうものでしょうか。
 色々の視点から問題を取り上げられると思いますが、まず、人間を、無因論
や他因論に堕せしめない宗教であると言えると思います。
 無因論はニヒリズムでありますので、自暴自棄になり何事も真面目に取り組
むことが出来なくなり、人生を破滅させます。
 他因論は、他の力に振り回されて自己を失い、迷信や奇跡信仰に走ります。
殆どの宗教がこの他因論に属しますが、あくまでも自因自果の道理を堅持する
宗教が健康な宗教と言えるのでしょう。
 自因自果の道理とは、すべての原因は自己の内にあるというのです。『そん
な馬鹿な事が在るものか』と思う人があると思いますが、私の外に有るものは
全て縁であります。
 普通、私たちが因だと言っているものは、全て縁であります。因は、私の内
にあるのです。縁に過ぎないものを、因だと思っているから、恨んだり、憎ん
だり、腹を立てたりして苦しむのです。
 自然災害も縁であります。その縁によって苦しまねばならない因は、私の内
にあるのです。その証拠には、同じ事件によって苦しまずにいる人も居るので
す。
 縁は無量にあります。その縁に依って苦しまねばならない因は、私の内に在
るのです。それを業と言います。宿業と云うのは、宿世の業でありますが、い
かなる縁に依っても、必ず、苦しまなければならない様に成っているので、業
と聞けば皆嫌な顔をするのです。
 たとえ初めは喜ばしいことでも、時が経ってみると苦しみに変って居るので
す。それが娑婆の現実です。『生死の苦海ほとりなし』とは、誠に仰せの通り
であります。どの様な縁に遇っても、必ず苦しむようになっているのが我々の
現実であります。それに気づかず、縁を恨んでいるのが私達です。しかし、縁
をいくら恨んでみても、現実は一向に代わりません。
 それを、善導大師は『無有安心之地』と云いました。所が親鸞聖人はこの言
葉を、『心を安んずるに、之より地(ところ)あることなし』と読みました。
『どうせ何処に行っても安心の地が無いのなら、此処で腹を据えて生きればよ
いではないか』と言うのです。『あるがままを受け取って念仏申せ』と言うこ
となのです。『信心決定して念仏申す身』になるのです。
 『信心決定して念仏申す身になる』方法はただ一つ、法を聞くことです。い
くら聞いても分からないという人が居ます。大丈夫です。何度も言うようです
が、私達の聞法は、有漏の経験です、有漏の経験を幾ら積み重ねても無漏には
なりません。しかし、私達が生まれるより以前から私に宿っていてくださる無
漏の種子が呼び覚まされる唯一の縁が有漏の聞法なのであります。だから、無
漏の種子が現行して下さるまで聞けばよいのです。
 必ず、無漏の種子が激発されて、清浄真実の『無漏の信心』が誕生してくだ
さるのです。一度、無漏の種子が現行すれば、この無漏の種子は、決して私を
手離すことなく、往生浄土まで私を導いて下さいます。之を『仏にお任せす
る』と言います。その為には、徹底した聞法精進が必要なのです。それはあく
までも『私』の責任であります。信心は如来より賜るものですが、聞法はあく
までも私の責任です。聞法の責任を人に任せることは許されません。
 ここにも、自因自果の法則が生きています。自己の責任を放棄して他力を語
ることは許されません。仏法は、徹底して、自因自果の法則が護られているの
です。
 さて、釈迦弥陀二尊の教が、健康な宗教構造であるという問題であります。
釈迦は行けと命じ、弥陀は来たれと呼ぶと云うのです。即ち、釈迦は決して我
に来たれとは言わないのです。
 『親鸞は、弟子一人も持たずそうろう』と言う言葉が歎異抄にあります。
『その故は、わが計らいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子に
てもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろ
うひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり』 
 徹底して、人を支配せず、ひたすら御同行として、共に念仏していられる、
ここに、釈迦弥陀二尊に対する親鸞聖人の、正しい姿勢が窺われます。
 これは既に、天親菩薩の願生偈に示されていたものであります。『世尊我一
心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国』と、世尊と阿弥陀仏とが明確に区別
されていたのです。
 聖道門の仏教では、大日如来も毘盧遮那仏も、皆、釈迦牟尼仏の象徴化であ
りますから、釈迦牟尼仏以外には仏の存在は認められません。所が、浄土門で
は、釈迦は、諸仏の一人でありまして、阿弥陀仏は、諸仏からは一人離れて特
別な存在であります。所謂『グレート・スピリット』として、諸仏から仰がれ
讃嘆される存在なのです。
 弥陀なくしては諸仏はありませんが、諸仏なくしては弥陀ありません。弥陀
と諸仏とは、各々その役割を異にしつつ、相助けて衆生済度の仏道を完成する
のです。
 この様な弥陀と釈迦(諸仏)の関係によって、健康な宗教が保たれるという
のです。            (続く)

釈迦弥陀は慈悲の父母(2)  

 釈迦弥陀は慈悲の父母
            二尊教について 2 
 先に申しました『大阿弥陀経』の正式の経題は『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩
楼仏檀過度人道経』であります。態々煩を厭わず『諸仏阿弥陀』と諸仏と阿弥
陀が重ねてあります。此の経典は,最も古い形式を保っていると考えられるの
ですが、諸仏と阿弥陀が並べて表示されている事に注意する必要があります。
グレート・スピリットとしての阿弥陀仏は、スピリットとしての諸仏と仲良く
同居しているのです。一神教の神(ゴッド)と同じ程の優れた属性を持ちなが
ら決して諸仏を支配せず,仲良く同居出来る神が阿弥陀仏なのです。
 釈迦は、諸仏の一人であります。イエス・キリストは、神の一人子で特別な
存在でありますが、釈迦は諸仏の一人であって,特別な存在ではありません。
我々と同じ普通の人間であります。普通の人間が,本願に遇う事によって諸仏
の位の列せられるのです。
 法然を弾劾した『興福寺の奏状』では、法然は阿弥陀仏を本尊として釈迦を
軽視していると非難します。確かに聖道門では、釈迦牟尼仏を最高の理想像と
して居て、大日如来も毘盧遮那仏も釈迦を理想化したもので、釈迦以上の佛の
存在は認められないのです。是れは、一神教の影響が隠れて居るものでは無い
かと思われます。
 所が,浄土門では阿弥陀如来を本尊とする訳ですから、旧来の考えでは理解
出来ない訳です。阿弥陀如来は、西方の仏で、大日如来の下に就くべき仏であ
りました。
 浄土門で、阿弥陀如来を本尊とするのは、阿弥陀如来の本願が、『全ゆる衆
生を仏としなければ,我も仏とならじ』と誓っているからです。これは阿弥陀
仏の本願にのみ誓われた特別な誓いであります。
 全ての仏はそれぞれ本願を起こして仏と成っているのですが、阿弥陀仏の本
願の特徴は『どの様な悪業の重い愚悪の衆生も必ず救われて仏に成らなけば、
我も仏とならい』と誓っているのです。この様な仏は、阿弥陀仏以外には見ら
れ無いのであります。
 その理由で,阿弥陀仏が特別に本尊として選ばれたのです。その阿弥陀仏の
本願を語っているのが、大無量寿経です。親鸞聖人は『夫れ真実の教を顕わさ
ば、則ち大無量寿経是れなり』と頂かれました。
 大無量寿経には、中国で翻訳されたものが、五つ有りますが。先に申しまし
た『大阿弥陀経』と『平等覚経』とは、本願の数が二十四ですので『二十四願
経』言います。『大無量寿経』と『無量寿如来会』は本願が四十八願ですので
『四十八願経』と言います。もう一つ宋の時代に翻訳されたものが『荘厳経』
でありまして。『三十六願経』といわれています。
 この内,二十四願経が古い形式を保っていまして、四十八願経はその発展し
たものであろうと考えられています。三十六願経は禅宗の思想が混入為たもの
ではないかと考えられています。
 ともかく、大無量寿経が最も完成したものであると考えられ、紀元240年
~420年頃の翻訳と考えられています。この大無量寿経はとても良く出来た
経で、何度も推敲を重ねて書き上げられたものであろうと思われます。
 推敲と申しましても、唯言葉を選ぶだけではありません。信仰心の純化が必
要です。インドから西域を通って中国に伝えられたその間に信仰が深められて
行ったのです。其の間に信仰が純化ざれて行きました。此の経典が翻訳された
時代の阿弥陀仏仰の信仰の深さに敬服させられます。
 この大無量寿経が無ければ、今日『浄土真宗』は存在しなかったと思われま
す。この大無量寿経に依って、二尊教が生まれたのです。勿論その思想は、永
い永い思想の伝承によって練り上げられて来たものでありまして、一朝一夕に
出来たものではありません。永い年月と多くの優れた人々の思索が積み重ねら
れて,今日の大無量寿経として完成されたものであります。我々は,この先人
の御苦労と御恩徳に、深甚の感謝を捧げねばなりません。
 其処で,二尊教に就いて語らねばなりません。二尊教は弥陀と釈迦の二尊
が、別々に二つの役割を果たして下さいます。それで、別々の役割ですから
『二尊二教』と言います。
 弥陀は本願を起こして浄土を建立して、『汝、一心正念にして直ちに来た
れ,我能く汝を護らん』と召喚します。是れは大無量寿経の上巻の説法です。
釈迦は是れを受けて、『仁者、この道を尋ねて行け、必ず死の難無けん、若し
留まれば即ち死せん』と勧励(発遣)するのです。これが大無量寿経下巻の説
法であります。
 この二尊の『喚』と『遣』に依りて、衆生が弥陀の浄土に往生して成仏する
訳ですから。『二尊二教』の儘が,衆生が救われて仏に成るという一つの事が
成就する『二尊一教』になります。『二尊二教』は『二尊一教』を成就する爲
の必要な条件で有ります。
 其れでは先ず『二尊二教』に就いて考えねばなリません。『弥陀』と『釈
迦』は何故別々の役割を果たすのか、是れが、信仰の健康性を保つための構造
であると言われるのですが、其れには,どう言う意味があるのでしょう。
 経典は全て釈迦の説法です。阿弥陀の本願と言うのも、所詮,釈迦が説いた
ものです。それなら。釈迦は『我が教えに従え』と言えばよい訳です。所が,
釈迦は態々阿弥陀仏に従えと勧めるのです。
 その時、釈迦自身も阿弥陀仏の本願に帰順しているのです。是れが浄土真宗
の大切な構造です。
 釈迦は阿弥陀仏の本願を説きますが、その本願は釈迦が遇う事が出来た本願
であります、釈迦以前に本願があるのです。十効の昔に既に誓われている本願
なのであります。釈迦は、その本願に遇うことによって、釈迦牟尼仏と成った
のです。
 釈迦牟尼仏は、諸仏の一人ですから、阿弥陀仏の本願に従って、阿弥陀仏を
讃嘆するのです。其れを諸仏の称名念仏(第十七願海)と言います。
 諸仏の称名念仏は、仏と仏が念ずる『佛々相念』世界です。念仏と言えば、
衆生が佛を念ずる事だと思いますが、衆生が佛を念ずる前に、『佛と佛とが念
ずる』と言うことがあるのです。
 その諸仏の称名念仏を『聞其名号信心歓喜』と。聞信して称名念仏するのが
衆生の念仏であります。この辺の事情を巧みに説き表したのが、観無量寿経の
第七華座観で有りました。

釈迦弥陀は慈悲の父母(1)

釈迦弥陀は慈悲の父母 (1)
【二尊教に就いて】
     釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
      われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり
     釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる
      信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ

 昔『一神教と二尊教』と題して光明誌に連載した事がありますが、何しろ、
三十年も昔の事でありますので、もう一度この問題を取り上げてみたいと思い
ます。二尊教に就いて、爾来、私の関心はずっと続けられて居ましたが、歳を
取りましてこの問題に是非とも決着をつけて死なねばならないと思うようにな
りました。         
 今日、世の中の有力な宗教は、全て一神教の形式でありまして、二尊教とい
う形式を大切に護っているのは浄土真宗だけであります。勿論、二尊教と言う
事を初めて明らかにされたのは、中国の唐の時代の善導大師でありますから、
それ以来浄土系の祖師方は、皆、釈迦弥陀二尊の教えを受けて居られるのです
が、二尊教の意義を最も重視ししたのは、偏依善導と言われた法然上人であり
まして、その法然上人の教えを忠実に継承したのが浄土真宗になると言う事で
す。
二尊教というのは、表題のように『釈迦弥陀二尊』の教えと言う事でありま
す。一神教は『唯一神教』と言われて、神は唯一人でありますが、二尊教は釈
迦と弥陀と二人の神格がそれぞれの役割を果たして衆生救済を完成していくと
いう仕組みです。
 宗教の形式としては、二尊教が最も健康なものであると言われますが、其れ
は二尊教の立場からの言い分で、一神教では、最も優れた形式は一神教である
と主張する訳です。
 確かに一神教の方が、強い力を持って居まして、一神教優位の時代が永く続
きました。所が、近年に為って、一神教優位の考えが揺らいできているので
す。その理由は一神教同志の争いが絶えないという事実です。
 過去には、ユダヤ教とキリスト教。キリスト教同志の間では、新教と旧教の
争いがありました。今日ではキリスト教とイスラム教、またイスラク教の内部
での宗派の争いが激しくなっています。その為、世界中の人が、宗教戦争の悲
惨に気づかずには居られない状況に追い込まれているのです。これを克服する
には何うすればよいのか。実に深刻な現代の課題であります。
 実は、仏教は先刻、この事実に気づいていたのです。其れは人類の遠い歴史
の中で、既に、何度も繰り返されていた事実なのでしょう。人類の歴史は、今
私達が認識しているよりもっと永いものであろうと思われます。その永い経験
の蓄積によって、人類の叡智は磨かれていたのでしょう。其の事実は、今日で
は忘れ去られていますが、人類の深層意識の中に残されていますし、僅かに神
話の形で残されているのです。
 仏教の経典が、釈迦よりもずっと以前からの神話を元にして作られているも
のであろうと思われるのです。これはキリスト教のバイブルも同じでありまし
て、今後、神話の研究が進めば、その辺の事情も次第に明らかになってくるか
と思われます。
 但し、神話は忘れられたり、変形されたりして終いますので、世界の片隅に
僅かに残って居る原住民の記憶を採集しておく必要があるのです。
 また、現人類の深層意識の中に残って居る記憶を取り出して記録しておく事
も重要ですが、色々の形で残って居る神話を検討する事によって、その原型を
復元する事も可能ではないかと思われます。
 さて、二尊教と言う事ですが、何故この様な形式の宗教が生み出されてきた
のかといいますと、元々、宗教はアニミズム(汎神論)から出発したと考えら
れます。
 大昔、人類はちっぽけな存在でありました。爬虫類という大きな生きものが
地球上を我が物顔に闊歩していた時代に、人類の祖先である哺乳動物は鼠くら
いの、小さい動物であったと言います。従って、自然現象を初め、あらゆるも
のから逃げ回る事に汲々としていた事でしょう。その結果、あらゆるものに神
が宿っているという発想が生まれました。それがアニミズムです。
 そのアニミズムに対して、唯一神を主張する思想が対立し、次第に唯一神教
がアニミズムを駆逐して優位に立ち始めました。その為、アニミズムは原始的
な未開人の思想とされ、迷信として排除されてきました
 所が、一神教が持った居る欠陥が露わになるに連れて、其れを克服する道が
模索されるようになりました。
 阿弥陀如来の信仰は、そのような事情のなから生まれたものではないかと思
われます。
 阿弥陀如来は、唯一神教の神(ゴッド)と同じような優れた属性を持ちなが
ら、決して唯一の神格を主張しないのです。此は明らかに唯一神教を批判して
生まれた思想と思われます。此の様な神をグレート・スピリットと申します。
無数のスピリット(精霊、神々)に取りかこまれていて、最も優れた属性を持ち
ながら、そのスピリット達を決して支配しようとしない神であります。
 一神教の神は、唯一神の主張の故に自己以外の神の存在を許さず、一切を神
の支配の元に統一します。その思想を政治に適用して政治権力を独占する国家
が建設されます。その国家を維持するためには、強力な軍事力を蓄える必要が
あります。その軍事力は益々強力になり、所謂、『覇権国家』となります。此
が一神教を元にした国家の構造であります。
 覇権国家は常に戦いの準備を怠らず、周囲の弱い国を併合して強大になる事
を望むのです。従って、この世から戦争のない世界は永遠に来ないのです。
 嘗て『大無量寿経は、讃嘆の経である』と申しました。最も原典に近いと考
えられる『大阿弥陀経』には、阿弥陀仏の光明が、他の諸仏に比べて特別に優
れている事を讃える部分が、長々と続けられています。此は、阿弥陀仏の徳が
諸仏に優れている事を説くためであります。
 光明の徳を讃える事は、その光明に照らされて我が身の愚悪を知らされる事
です。讃嘆は即ち懺悔であると言われます。懺悔無き讃嘆は綺語であり、讃嘆
無き懺悔は愚痴であります。讃嘆と懺悔は一対のものとして、健康な精神生活
が成り立つのです。
 カナダの西海岸に住む原住民の神話に、之に似たものが伝えられていると言
われます。恐らく、モンゴリアンに太古から伝えられていた神話でありましょ
う。大無量寿経も同じルーツを持つものと思われます。この阿弥陀仏の信仰が
『二尊教』と言われるものです。
 其れでは『二尊教』とは、どんな教えでしょうか。先ず『釈迦』『弥陀』二
尊の教えと言う事ですが、其れにはどういう意味があるのでしょう。
 二河白道の喩えには、『釈迦』は東岸に立って『仁者、此の道を尋ねて行
け』と勧め、』『弥陀』は西岸に立っていて『汝、来たれ、我能く護らん』と
召喚したもうと説かれています。二尊の役割が明確に示されているのです。 
 二尊の役割はこれで明確になりましたが、其れが『信仰の健康性を表す』と
いうのはどういう意味でしょうか。
 そもそも不健康な信仰とは、本来、誠実で純粋であるべき信仰に、功利的打
算、自我の主張、他者への依存、憎悪や妬みなど、人間の持つ迷妄心が信仰の
中に混ざる事です。
 観無量寿経には、信仰は『一者至誠心、二者深心、三者回向発願心』の三心
が必須であると説かれています。誠に、先ず第一に『至誠心』が要求されるよ
うに、信仰には誠実が大切な要素であります。其れが欠けては、不健康な信仰
と言わねばなりません。
 釈迦、弥陀、二尊による『二尊教』こそ、信仰の健康性を保つ為の唯一の形
式であると言われるのです。其れに就いて考えて行きたいと思います。   
                              (続く)