光明団創立100周年を迎へて

    光明団創立100周年を迎へて
『島根県への光明団発展の初期の事情』    岡本義夫

 本団創立百周年を迎えて、誠にお目出とうございます。謹んで感謝申し上げる次第でございます。

 島根県に夜晃先生が御出で下さるようになったのは、大麻の染香寺御住職、河野直臣先生に始まります。そもそも、河野直臣先生は、大麻(現在の浜田市三隅町折井)の染香寺に御養子として入られた方でありますが、当時、東京の浅草本願寺に役僧として勤めて居られたのであります。そこへ、『父危篤』という電報が来て、急いで上野駅に出てみると、汽車が出るまでにまだ一時間ほど間があるので、街の中をぶらぶらしていて、ふと仏教講演の張り紙が目に入り、覗いて見たと言う事です。

 その講演が耳に残りましたが、汽車に乗らなければなりませんのでそのまま島根に帰ってしまったのです。その時の講演の感動が忘れられず、もう一度是非聞きたいと言う思いがありまして、そのまま島根に帰り,再び、東京へは
帰えられ無かったのであります。所が、その思いが忘れられず、広島の住岡狂風と言う名を覚えて居られたのです。

 そこで、浜田の顕正寺の住職である幡谷淳心師にその思いを話したら、『その住岡狂風と言う人物の噂は、儂も聞いている、貴方がそれ程に思うなら一度呼んでみてはどうかね』と言われて、呼ぶ事になったと言うのです。幡谷先生は、布教師として広く活躍して居られたので、夜晃先生の事も知って居られたのです。そこで幡谷先生の力添えで、夜晃先生が、山陰の地に来られることに成りました。

 そのとき、私の父、岡本法憧が、折井の駅から歩いて徳泉寺に帰る途中で何人かの御同行がお詣りすのと行き合い、事情を聞いたのです。後日、染香寺さんに、『この間、俗人の方を呼んだそうだが、どうでしたか』と聞きました。父は以前から懇意にしていたのです。すると、『とってもありがたいお話でした。貴方も是非呼んで見てください』との事で、『貴方が、それ程までに言うのなら、是非私も呼んで見よう』と言う事になりました。

 そこで、先ず、隣寺の明覚寺、武井諦了師に相談しました。武井先生は、当時、『査察』と言う役目を持っていられました、是は『異安心』を取り締まる役目であります。その頃は、僧侶以外の人の説教など聞く者は居ない時代でありましたから、武井先生の許しを請わねばなりません。

 すると、『よし、一度呼んで見なさい、儂が行って聞いてやろう、若し変なことを言う様であれば、その場で、高座から引きすり落としてやろう』といって、許可して呉れたのであります。『明覚寺めが、すとんこ、すとんこ、来た、げなーや』と後日夜晃先生がそ時の事を語って居られました。

愈々その時が来ました。
1931年(昭和6)5月22日~24日、井野徳泉寺、井野小学校と年表に在ります。私が小学校2年生の時です。人見しりする小心者で、先生の前に御挨拶に出ることが出来ないので隠れていたのですが、先生がわざわざ探しに来て、お土産に絵本を下さったのを覚えております。その絵本は、親鸞聖人の御一代記でありました。それが私の先生との御縁の始まりでありました。

所が、翌、昭和七年には私は大阪へ転校する事になりますので、先生との御縁は途切れる事になります。小学校六年の時と、中学校三年、師範学校三年と三回ほど夏休みに帰省していますが、中学校と師範の時には、夏の県連に出席しています。特に昭和17年の明覚寺の県連では、父がその年の十月に死にますし、翌年は私も兵隊に往かねばならぬ時でありまして、先生も特別に目を懸けて下さいましたが、遂に仏法が判らぬままに終わりました。

それでも、仏法を聞かねばならぬと言う事は判っていましたから、戦後すぐに聞法を始めることが出来ました。若し戦争で死んでいたら。仏法のご縁は無いままに死んで行った事であります。誠に、思えば不思議な御因縁でありま
す。

 武井諦了先生は、鳥取県から御養子に来られている方でありますが、大谷大学を卒業して、外国で活躍したいと言う望みを抱いて居られた方で、田舎の山寺で一生を終わる事への不満がありました。その時偶々夜晃先生のお話を聞かれ、深い感銘を置けられ、この人のお話を一生涯かけて聞こうと決心せられたのです。

 武井先生の協力を得て、井野の地に光明団が強力に根を生やしました。当時、小学校の校長が佐々木清一郎氏でありまして、校長の協力もあり、井野村の中心人物が総力を挙げて応援して呉れたのです。講演の時には、小学校の講堂が満員になり、窓にぶら下がって聞く者もあったと言われています。所が、一時の興奮が冷めると、光明団は異安心だとの風評が広まり、井野の地も批判の嵐に包まれます。大衆と言うものは、何時もそのような行動をとるものです。

その様な状況の中で、一貫して揺るぎ無く信念を護り続けたのが、明覚寺、徳泉寺、光善寺、佐々木校長でありました。染香寺は、河野直臣先生が昭和十八年に亡くなられまして、後が絶えました。顕正寺は、初めから中立を護っていましたから、非難は免れました。それ以外にも何ケ寺かの協力者はあったのですが、皆、批難の中で雲散霧消したのです。所が、一貫して同胞の御念力により、昭和九年、第一回島根県連講習会が、大麻の地、折井農業組合会館で開催されてより、終戦の年まで欠かす事無く、毎年の講習会が続けられてきたのです。終戦の年は、流石に講習会は開かれませんでしたが、翌年からはまた続けられて来ました。

 これが、終戦までの島根県連のあらましの状況です。戦後になりますと、事情が一変します。私は、昭和二十一年に徳泉寺に帰りますが、その頃、徳泉寺を護って呉れた人は日原信哉師でした。昭和二十一年の秋に徳泉寺で第十二回県連が開かれました。その時から私の聞法が本格的に始まったのです。

戦後は貧困に苦しむ時代でありましたが、皆それなりに頑張って生きて来ました。今年、島根県連は、第83回の年を迎えます。今日、五日間の地方の講習会を続けて居るのは、島根県連だけであります。貴重な存在であると自負しています。

 島根県の話ばかりになりましたが、是も本団100年の歴史があっての事でありますので、100周年を記念する記録の一端になるかと思い申し上げた次第です。

 光明団は、幸いに一〇〇周年を迎えました。しかし、この後どうなるかは、判りません。そのことを思う時に、一つ大事な提案があります。それは『サンガに帰依する』と言う事です。光明団のサンガも、人間の集まりですから必ず意見の違いが生まれます。その時大いに議論をすることは結構ですが、その挙句に、喧嘩別れになれば、サンガは壊れます。仏法が『篤く三宝を敬え』と教えている事に心を注ぐべきです。

三宝とは、仏法僧の三宝です。仏と法に帰依する事は勿論でありますが、僧に帰依すると言う事は,どう言う意味が有るのかと疑問に思っていました。所が、此の和合僧に帰依すると言うことが無ければ、仏道は破滅するのだと言う事が判りました。破和合僧と言う罪は、単にサンガの団結を乱すのみに留まらず、サンガを破滅に追いやるのです。即ち、サンガには、色々の人が集まっていますから、必ず、意見の相違が起こります。その時、機の深信が不徹底であれば、サンガは分解してしまいます。

機の深信とは、我も人も同じく業縁に流され、業火に焼かれている身であると言う自覚です。しかし、その業縁の身が。必ず摂取不捨の救いに預かる身であるとの信知です。貴方も私も共に業縁に流されている身でありますが、必
ず、摂取不捨に預かる身であると、何処までも相手を信頼する心です。この信知があればこそ、サンガは保たれて行くのです。

 これは如来の信知でありまして、人間の信知ではありません。この機の深信に徹する事なくては、サンガは護れないのであります。幸いに、100年も継続することが出来た、このサンガが、この後も長く続いて下さるように、機の深信に徹して念仏申さして頂きたいものです。此処に、深甚の思いを込めて、提案さして頂く次第であります。

 『篤く三宝を敬え』とは、聖徳太子の願いでありました。この願いは、仏法が大陸から伝来するよりも1万年も前から、日本列島に伝えられて居たと思われる、日本古来の思想に根差しているに相違ないと思われます。此の言葉の深い心を頂いて、日本民族の深層意識に深く蓄えられた、サンガに帰依する心を大切に受け継いで行きたいと思います。

 戦前に、暁烏敏師は、日本の神ながらの道は、仏教であるという説を称えました。さすがに、戦後はそのような事はおくびにも出しませんでしたが、同時にあれは間違いであったとも、絶対言わなかったのです。今思うに、彼の言わんとしたことは、日本仏教の根底に、大陸伝来の仏教思想とは異なるものが有るのではないかと言う、彼一流の直観であったものと思われます。

 聖徳太子という伝統も、何か、大陸伝来のものと異なるものが有るのではないかと思われます。此れは、今後の研究に待つより仕方がありませんが、弥生時代以前の、縄文時代の伝統が、歴史の記述から消されてしまっている今日、縄文時代の研究が為されなくては、如何にも言えない訳です。

 それはとも角として、折角親鸞聖人によって見出された浄土真宗の教えを、大切に次の世代に受け継ぐ為に、『サンガに帰依する』と言う伝統を護ることが、我々の役目であると思われるのであります。日本民族には、この様な、他の国に無い優れた伝統があることを誇りに思うと共に、この『浄土真宗』と言う教えを、今こそ世界に向かって、発信すべき時であると思うのです。サンガを護るとは、浄土真宗を護る事であります。

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