水琴窟 29
問 果遂の誓いに帰してこそ。(続き)
答
第二十願の意義について、親鸞独特の領解があることを述べて来ました。も
う少し言いたいことがあります。
それは、『おしえざれども、自然に、真如の門に転入する』と言う和讃の意
味です。(大経和讃、11の18)
此の言葉は、元、善導大師の『般舟讃』にある言葉であります。
『微塵故業随智滅、不覚転入真如門』と言う言葉であります。これを親鸞聖
人は『微塵の故業と随智とを滅す、おしえざれども、真如の門に転入す』と読
みました。
普通なら『微塵の故業、智に随って滅す』と読むところでしょうが、親鸞は
『随智』と読んで『所知障』の事だとしました。
また、『不覚』と言う言葉を『おしえざれども』と読むことは、いささか奇
異に観ぜられますが、『覚』と言う字に『おしえ』と言う訓がありますので、
無理な読み方ではありますまい。『不覚』と言う言葉は、起信論には、『仏法
に目覚めない者』の事を言いますので、不覚のものも、故業を智慧によって滅
せられて、真如の門に転入すると言う意味にもとられます。所が、親鸞は、
『おしえざれども』と読みました。
所で、『不覚転入真如門』ですが、『果遂の誓いに帰してこそ』とあります
から、『おしえざれども』と言う事の前提に『果遂の誓い』と言う願の、深い
意味があるのです。
第二十願『果遂の誓い」は、人間の最も深い所に隠れている『仏智疑惑の
罪』を問題にする願であります。仏智疑惑とは、自己肯定の心であります。自
分には、優れたものが有る筈だと思っている心であります。
それで、他人と比較して、是非善悪の判断に明け暮れして、優越感と劣等感
の間を行きつ戻りつしています。人間にとって、優越感と劣等感は、死ぬまで
続く問題であります。この問題から解放されることが、人間の唯一の最後の救
いでありました。しかし、之は仲々容易な事ではありません。
この心は、人間の最も深い所に隠れている煩悩で、死ぬまで無くならない根
性であるからであります。自己肯定の根性は、これを克服する事は、人間には
不可能で、如来の智慧光に依らねば如何にもなりません。しかし、人間が最後
まで抵抗し続けるものが、如来の光明に照らされる事なのです。
今日、仏法を聞く人が少なくなっていますが、それは、人間の本性による。
『最後の抵抗』が、表面に出て来たからであります。昔は、人間は、もっと素
直でありました。教養が無いものですから、目上の人の言い分には、忠実であ
りました。
所が、この頃は、皆、学校教育を受けて、文句を言うものが増え、中々他人
の意見に従いません。『私には、私の考えがある』というのです。それはそれ
で良い事なのですが、自己を深く内観する事が出来ませんので、いきおい、
『自我の主張』に成ってしまうのです。
ここに、現代人の問題があります。学校教育が進んで、教養が豊かになった
ことは結構ですが、これは『所知障』が発達したのであって、有漏の経験の蓄
積でありますから、仏教に反する思想なので『我の主張』ばかりが強くなり、
世間が愈々騒がしく成るばかりです。先に、『随智』を『所知障』の意味に読
んだのも、親鸞独特の鋭い読み方でありました。
教養が豊かになり、所知障が発達したために、却って、静かに仏法を聞く人
が少なくなりました。今こそ、仏法を聞いてくれる人を、一人でも多く生み出
すことが願われています。
さて『果遂の誓いによりてこそ』と親鸞は言いました。仏教を聞いてくれる
人を生み出す為に、何処までも尽くして行きたいとの、如来の切なる願いであ
ります。所が、衆生は自我の主張に拘って、一向にこの願いを聞き入れようと
しないのです。何処までも自我を言い張って自力の言い分を通そうとします。
その人間の根性を見抜いて、如来は第二十願を誓ったのです。即ち、第二十
願は、自力による念仏を許すのです。『自力で良いから、兎に角『念仏』を申
してくれ』と言うのです。
そこで、衆生は、『我が意を得たり』と勇んで念仏を申すのですが、其処に
問題があります。それは、念仏申すものは必ず救うという如来の呼びかけを聞
いて、一生懸命に念仏申すのですが、我々は、直ぐ其の事を自分の手柄にする
のです。
念仏は本願の行であります。決して人間の業績ではありません。所が、念仏
を申せば、如何にも立派に思えるのです。確かに、念仏は立派な行為ですが、
人間の業績ではありません。あくまでも如来の業績です。所が、『本願の嘉号
を己が善根とする』と言う事が『仏智疑惑の罪』であります。本人は、仏智を
疑っているとは思っていないのですが、『本願の嘉号を己が善根とする』とこ
ろに、仏智を疑っている事実があるのです。
佛智うたごう罪ふかし この心思い知るならば
くゆる心をむねとして 仏智の不思議をたのむべし
この佛智疑惑の罪に目覚めることなくしては、念仏の救いは成就しないので
す。所が、『おしえざれども、自然に、真如の門に転入する』と言うのです。
先に、起信論に『不覚の者とは、仏法に目覚めぬものである』と言われてい
ると云いました。まさに、不覚の者も、仏の智慧の働きによって、所知障の深
い罪を教えられ、仏智疑惑の罪に目覚めて、如来の前に五体投地するのです。
全ては『如来の御働き』であります。それは宿善の開発に因るのであります。
『宿善』とは、永い永い因縁の賜物であります。遠く、弥陀の誓願が発起さ
れて、流れ流れて、この私にまで流れて来てくだっさた。其のお念仏の流れに
預かることが出来たのです。之は、仏法を聞くしか、此れに気付くことはあり
ません。どうか一人でも多くの人に、仏法を聞いて頂きたいものです。
我も人も、宿善は、篤く蒙っているのです。この世の悲喜苦楽を機縁として
仏法を聞かねばならない自分に目覚めるのであります。人生には、苦もあれば
楽もあります。苦楽を縁として、仏法に目覚めるのです。
ギリシャ神話の『オイディプス王物語』と仏教の『観無量寿経』の物語と
は、よく似た内容を持っています。恐らく、同じ神話から出たものでありまし
ょう。更に、法華経・華厳経・涅槃経等には、この『アジャセ王の物語』が影
響を及ぼした説話が見られます。このアジャセ王の物語は、人間の悩みを深く
とらえたものとして、東西に広く語り継がれたものと思われます。
人生の悲喜苦楽を縁として、人生の意義を考える機縁としてきた、遠い祖先
の人達が、神話として、この様な宗教を生み出してきたのです。それは何億年
もの永い歴史の積み重ねであります。それを『宿善』と言うのです。
今、宿善の催しに預かって、仏法を聞き得たことは、よくよくの厚恩であり
ます。『果遂の誓いによりてこそ』との、親鸞聖人の御心情を拝察する時、疑
心自力に明け暮れしている我が身を懺悔すると共に、如来の大悲心に深く深く
御禮申し上げる次第であります。
『果遂の誓い』がましまさなかったら、私の救いは遂に果たし得なかったで
ありましよう。第二十願こそ、我々が救われる最後の、唯一の道でありまし
た。此処に厚く御恩徳を謝し奉って、念仏申すより外ない私であります。
付記
先月の水琴窟28で、暁烏敏師の戦前の説と言いましたのは、師が古事記を
読んで、日本の『神ながらに道』は仏法であると言った事です。さすがに師も
戦後はその説を引込めましたが、あれは間違いであったとは言わなかったので
す。師は直観として、何かを感じて居たようです。
勿論、こんな説は随分乱暴な話で、直ちに肯定できませんが、若し今後、縄
文時代の宗教が明らかになることが出来れば、『神ながらの道』が『阿弥陀仏
の信仰』と同一の神話から発生していたと証明されるかもしれません。念の為
申し添えておきます。
、
佛
、
ん