碇草12

碇草  近代的合理主義 批判 ⑴
先に『近代的合理主義』は、甚だ怪しいものであると申しました。そこで、その理由を申さねば成りますまい。
近代的合理主義は、現代の知性や、理性。科学的知識によって承認せられ、判断せれるれて居る、全ての思考に対する考えを指す訳ですから、誰にも批判される事のない思考であります。
所が、此の近代的合理主義には、決定的欠陥があるのです。其れは何かと云いますと、人間は、眼耳鼻舌身意の六識に依って物事を判断し行動を起こしてしていますが、その六識に掴みきれないものは、無いものとして無視されるのです。所が、此の世には、我々の六識では掴みきれないものが一杯あるのです。これらのものは、判断の埒外として切り捨てられます。此処に問題があるわけです。
例えば、『深層意識』と云われるもの等は、我々の意識では捉えられませんが、確かに我々の存在に強い影響を及ぼすものであります。
今日では、『深層心理学』等の発達に依って,この様なものも意識の対象として考えられる様になりましたが、まだ他にも一杯あるのです。そうしたものは、無いものとして行動を起こしますが、その為に,躓いたり、引っかかったりする訳です。
この我々の意識の埒外にあるものの存在を認めて、その影響を考えることは、近代的合理主義には出来ないのです。
『そんな考えは、神秘主義の考えである』と言われるかも知れません。確かに、神秘主義と言われればその通りかも知れませんが、我々の五感では、察知出来ないものがこの世には存在して居るのす。
例えば、『無明』などという問題は、五感の対象外の問題であります。所が、その無明のために随分振り回されているのです。
是は、唯識学で言う『末那識』の作用であります。近代的合理主義では、そんなものは無いものとして、見向きもされません。此処に、近代合理主義の重大な欠陥があるのです。
所が、仏教の智慧は、その近代合理主義の欠陥を見事に言い当てているのです。仏教の智慧は、長い経験の蓄積によって、人生を深く見る事が出来るのです。人生を深く透視する働きによって、この世に起こってくるあらゆる問題を正しく判断して対処するのです。
従って、この近代合理主義だけで人生の諸問題を考えていこうとする有り方では、不十分であるのです。そこで、合理主義以外の方法で、人生の問題を考えて行くために、様々な方法が考えらるのですが、理性中心の考えでは、いずれも巧く行かないのです。 実は、理性による考え方そのものに、人生を深く考察する力が無いのです。理性による考察を『分別』と申します、この分別は佛法では、所知障と言うのです。つまり、真理を障えて見えなくするのです。
この所知障は、煩悩障より厄介な障碍であるとされています。近代合理主義は、正にこの所知障のことであります。
先に、暁烏敏師に就いて、側近に仕えた人が、『暁烏さんは、矛盾の多い人でした。』と言ったと申しました。世間の常識から見たら、矛盾としか言えないのでありましょうが、暁烏師には、もっと大きな問題意識があったものと思われます。
其れは、佛教に依る深い智慧であります。だから、戦後に成っても戦前の言動を誤りであったとは言わなかったのです。確かに『暁烏の恍惚』(親鸞の危険思想、参照)と評せられる様な言動がありましたが、彼にすれば、そんなものは取るに足りない問題であったのでしょう。それよりは、もっと大事な問題があったのです。それは、『願作仏心、度衆生心』と言う、生死の問題の解決でありました。
『そもそも、暁烏には、戦中であっても戦後であっても、いや幼くて仏教に心が入ってから死ぬ迄の一生を、棒の如くに貫いている専念の願心がある。それは、「願作仏心、度衆生心」である。戦争に興奮している時には興奮の色を帯び、上代の研究に熱中している時には神の香を着し,芸術に熱心している時には芸のうるおいに耀いているけれども、その着けた衣の芯には、「願作仏心,度衆生心」という赤心が、地熱の如く燃え続けている。戦中戦後形にはどう現れていても,其れが暁烏敏の中心であり本命である。』                『暁烏敏伝、野本永久著、p639,大和書房』
と、暁烏敏伝に記録されています。
敗戦の年、八月十五日には、さすがに暗い顔をしていた暁烏も、翌、16日には、すっかり立ち直って、明るい顔で夏期講習会の、第二日目の演壇に立っていたと言う、代わり身の早さで有りました。其処に,彼の凄まじい信念が有ったのです。
『毎田周一を師とする、長野県の同志の人達で、毎田周一の師とする暁烏敏の語る真理の炬火に集まる会である。小学校教員約六十名が参加して、小県郡奈良原高原の道場で開かれた。』  (暁烏敏伝、p640)
『終戦の年の、十月十七日奈良原高原の時の筆記が今見つかった。其れには、(中略)正月から肺炎を患って,その予後が悪く、身体が危ぶまれたが,万難を排しても信州へ行きたいと思った。・・・くたくたに疲れてやっとこの道場に着いてもう参ってしまっているところへ,毎田さんが来て、「先生、此処へ集まった者は、一騎当千の大つわ者ばかりです。このたくましい人達の意気の揃った顔を見ると一ぺんに疲れなど吹っ飛んでします。ここから、新日本建設の狼煙は揚がりますよ」と言われた・・・一休みしたら疲れもいくらかなほったので、ああやぱり来てよかったと思いました。』
(同上、p641)
『此の会では『絶対の認識』が語れた。』と言われています。 暁烏敏伝の一部を紹介して,暁烏師の面影を述べました。師には、病の中にもこれを押して講演に行く、『清浄願心』があったのです。此の様な『清浄願心』は、近代合理主義からは出て来ないものであります。偏に、佛智の催しに依るのであります。
近代合理主義は、徹底して理想の向上実現を図ります。然し、その人間の理性的努力の深いところに、人間の無明が潜んでいることを見抜けないのです。それは、自己反省の根本的欠陥に依るからです。先に申しましたように、自己反省には、自己正当化という大きな欠陥があったのです。それを見抜く智慧は、佛教にしか有りません。この無明が見抜けない為に、自己を善しとして肯定するのです。この自己肯定の執着が、一切悪業の原因であります。これを、唯識では、第七末那識 と言うのです。この末那識が転じられて、平等性智にならなければ、人間の悪業は解決されないのであります。

   碇草 13 近代合理主義批判 ㈡

 先に、水琴窟 50で、『ユングは、キリスト教の世界観にも、マルクスの理性による絶対的合理主義にも与せない,第3の天地を求めていたのであろう(ペストの評)』と言いました。その第3の天地に就いては、誰も言及していませんが、私は、此れこそ、浄土真宗の教えであろうと思っています。
マルクスの徹底した合理主義こそ、最も近代的合理主義の極みでありますが、其処に,徹底して欠如しているものが,末那識による自己肯定への無反省であります。この事は、仏教の無我の教えに依らない限り克服されない問題なのです。
我が国では、戦前でも,戦後でも、このマルクス思想が猖獗を極めた時代がありました。これからもまたそんな時代が来るかも解りません。然し、此の近代的合理主義の持つ、自己肯定の習癖は,人間の根底的悪習であります。容易に解決されない問題であります。辛抱強く,語り合って説得するより他に道はありません。
ユングは,『ペスト』の中で、キリスト教の神父が、ペストは神の怒りであるから、悔い改めよと説得します。所が,その神父の目の前で、敬虔な信者がペストに依って死んで行くのです。其れを,不合理だと彼は叫びます。この様な不合理な事が,次々に起こってくるのが此の世の現実です。人生は、人間の要求する合理主義だけでは超えられない世界であります。
その不合理にどう対処すればよいのでしょうか。不合理だと言うのは、人間の思い通理に行かないと言うことなのです。大自然は、自然の儘に、天地の道理に従って、粛々と動いているのです。決して、不合理では有りません。寧ろ、人間の方が不合理な要求をして居るのでありましょう。
所が、人間は、この世のものは、何でも自分の思い通りに動かされるものと思って居るだけです。其れは、人間の傲慢であります。我々人類は此の人間の傲慢の為に,自然を破壊し、人類の滅亡をもたらそうとしているのです。全て、近代的合理主義の弊害であります。
中国は、目下共産主義が国是とされています。此の儘、共産主義が栄えて、強大国になれば、日本もその傘下に与せられるかも分かりません。そうなれば、浄土真宗も否定される時代が来るかも分かりません。
浄土真宗が見失われれば、日本民族の使命も失われましょう。悲しいことでありますが、時の流れには、贖いかねるものがあります、願わくば、浄土真宗が永く生き残れますように切念するばかりであります。
共産主義は、徹底した近代合理主義の思想であります。それ故、佛教の様な思想は排除されます。『宗教は阿片だ』と言うのです。これも一理ある考え方であります。即ち、西洋は一神教しか知らない国柄でありますので、宗教と言えば、キリスト教か、マホメット教しか真面目な宗教は無いのです。これでは、宗教は阿片だと言うのも無理はありません。
佛教は決して阿片では無いのですが、其れを、世界の人々に知らせるのは、是からの仕事であります。なかなか大変な仕事が今日の日本人に課せられて居る訳であります。
私が度々申して居ます様に、日本人には、人類を救う重大な使命を担って居ると言う責務があるのです。心して、この責務を果たして行きたいものです。
近代的合理主義の欠点について述べましたが、この『無明』に対する認識の欠如の問題は、現代の知識人が斉しく抱いている問題であります。即ち、末那識による自我の主張は、今日では見落とされた儘になって居ます。これを正しく指摘して、世界の心ある人々に弘めて行かねば為らないのであります。
唯識学が説く、教説には、現代人が学ぶべき大切な思想が有るのでありまして、今さら乍ら、佛教の、素晴らしい見識に驚く事であります。明治以来、仏教と言う様な古臭いものは、現代人には不要な代物であるという主張が、盛んに叫ばれてきましたが、今こそ、そうした思想を一掃しなければなりません。
フロイトが、深層心理学を拓いたのは、近々、100年程になります。所が、仏教の唯識学は、2千年に及ぶ歴史を持って居るのであります。この様な優れた学問を無視してきた明治維新は、重大な欠点を日本人に残したのであります。  確かに、明治維新は日本の近代を開いた、偉大な功績がありましたので、一概に非難するのではありません。然し、功績の陰には、欠点もある訳ですから、我々は、冷静に功績と弊害を熟視して、対処すべきであります。
今日、明治維新の功績のみが取り上げられて居ますので、敢えて弊害も有ったことを取り上げて申し上げました。
特に、宗教的欠陥は、無視することが出来ませんので、声を大にして申して置かねばならない事であります。
現代の日本人が、宗教的音痴に成った原因は、明治維新の負の遺産であります。これを、是正して、正しい宗教観念に戻す事は容易ではありません。幾度も幾度も声を大にして、説得しなければならないのです。
耳障りに思う方も有るかとは思いますが、是非、耳を貸して頂きたいのです。今こそ、正しい宗教が興らねば、日本は、破滅に追いやられます。
正しい宗教とは、人間の迷妄を糺して、正しい思想に目覚める事であります。何が正しい思想かと言うことは、各々が、冷静に判断すべきもので有りまして、他人が、指図すべきものではありません。
仏教は、正しい思想を持つものであると、私は、信じていますが、それ以上は何とも言えないのであります。これから先は、各々が、自分で考えて選んでいくより道はありません。何卒、大切に、自らの道を選び取って、一度限りの人生を大切に歩んで頂きたいものと思います。

目次
閉じる