碇草10

碇草 念仏は、敗北主義か
『仏法は、無我にて候上は、人に負けて信を取るべきなり』等と云う教えは、敗北主義者の云うことである。人生は、戦いである。戦って、戦って、戦い尽くしてこそ、人生に生き甲斐があるのであって。負けて、負けよと言う様な宗教は、俺は御免被りたい。』と云う声が聞こえてくる様です。全く、当然の意見であると云わねばなりますまい。
『仏法は、無我にて候上は、人に負けて信を取るべきなり』と言う教えは、本当に、敗北主義の教えでしょうか。其れにしては、浄土真宗の御聖教には、『念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとなれば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍する事なし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり』と言い。『願力不思議の信心は、大菩提心なりければ、天地にみてる悪鬼神、皆ごとごとくおそるなり』などと云う、威勢の良い言葉が、幾つも続いて出てくるのでしょうか。
『戦って、戦って、戦い尽くして、刀折れ、矢尽きた、』先に何が残るのですか。世間では『止むのみ』と申します。残念、無念と言って死ぬしか道は無いのでありましょう。 しかし、佛法では、其処から立ち上がって歩む道を説くのです。其処から始まる道を、『他力回向の宗教』と言うのです。自力の歩みが死んで、他力回向の歩みが始まるのです。
『仏法には、無我にて候上は、人に負けて信を取るべきなり』と言う時、『信』が問題なのであります。
普通世間で『信』といえば、人間の心であります。人間の心である限り、『三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにありしとき、大菩提心おこせども、自力かなわで流転せり』 (正像末和讃)と、言われています。同じく大菩提心と言いましても、自力と他力の相異がありまして、自力では有漏の心でありますから、流転するのであります。
人間の心は全て、有漏であり、自力でありまして、流転を免れられません。無漏の心に依らざる限り、成仏道は成就しないのであります。従って、『人に負けて、信を取るべきなり』と云われる『信』は、無漏の心であります。
さて、この無漏の心は、如何にして得られるのでしょうか。其れは、聞法しか道はありません。所が、聞法は有漏の経験であります。有漏の経験ではありますが、唯一の、無漏の種子を現行させる縁になるものです。
『法界等流の正法を聞きて薫習する』ことを『聞薫習』と云います。この『聞薫習』に依ってのみ、我々の心の奥底の深い所に宿っている、『本有の無漏の種子』が目を覚まし、無漏の心である『信』が成立するのであります。 此は、唯識学者の『護法』の説であります。護法は、『如来蔵経』の教えに依って、この『本有の種子説』を生み出したのでありましょう。
『聞薫習』と云う言葉は、無著の『攝大乗論』の言葉であります。此の『攝大乗論』が、唯識学の基礎に成る著作であります。
この聞薫習によって激発された『信』に依って、展開するのが、成仏道であります。従って、『人に負けて信をとる』と云うことは、成仏道の筋道でありまして、人間世界の『勝ち負け』ではありません。成仏道の世界は、人間の『勝ち負け』を超えた世界であります。勝って喜ぶ者も無く、負けて悔やむ者も居ない、平等の世界であります。
此の平等の世界に於いてのみ、仏道成就の道が開けるのです。『人に負けて信を取る』ことは、決して敗北主義ではありません。かと云って、勝つ為めの手段でもありません。勝ち負けを超えた世界が開かれるのであります。此が『念仏者は無碍の一道なり』と言われる、『無碍道』の世界でありました。
従って、無碍道は、人間の勝敗を超えた、『絶対無碍の道』でありますから、何者にも障害されることの無い、道であります。と言いましても、何ものの障害もない平坦な道ではありません。人生の苦難に満ちた道であります。その人生苦難の道が、苦難のままに無碍の道になるのであります。
親鸞聖人は、九〇年の生涯を苦難のままに過ごされました。その苦難の人生が其の儘無碍の念仏で在ったのです。我々の人生も、苦難の山坂を超えねばなりません。然し、念仏申す身になれば、苦難の中に一筋の喜びが湧き出てくださるのです。所詮、人生は苦難の連続で在ります。然し、その苦難を念仏と共に乗り越える事が出来るのです。
これは、念仏に遇った者でないと解らない問題でありましょう。第三者が傍で見ていても、解るものには解るのですが、解らない者には、解らないのです。其れが、無碍の一道と言われるものであります。
私の父が、貧乏で苦しんでいるのを見て、『貴方は、「念仏者は無碍の一道である。」と、言っていたのに、何故、貧乏で苦しむのか』と言われた事があると語って居ました。貧乏で苦しむ儘で、「念仏は無碍の一道である」と言い切れるまでには、聞法を永く聞き続ける必要が有るのでしょう。聞法しない者には理解出来ない問題であります。
誠に、苦難の山坂を超えながら、「念仏者は無碍の一道なり」と高らかに言い切って生きられる身にして頂けた事を感謝せずに居られません。
『念仏者は、敗北主義者である』と幾ら言われても結構です。其れに対して、何も抗議する必要はありません。外から何と言われても、念仏申して生きるのです。『唯、念仏して、弥陀に助けられ参らせて往生をばとぐるなり』との仰せを受け止めて、念仏申すのみであります。
『詮ずるところ,愚身の信心におきては、かくのごとし、この上は念佛をとりて信じたてまつらんともまた棄てんとも面々の御計らいなり』と聖人は仰せられました。誠に、自由の天地に人を開放して。権威を持って人を締め付けず、威勢をもって人を束縛せず、自らの念仏道を粛々と歩まれた聖人のお姿を仰ぎ参らするばかりであります。  『念仏者は、無碍の一道なり』何と言う朗らかな言葉である事でしょう。此れをこそ、『心得解明』と言うのでありましょう。苦難の山坂を『心得解明』の心を頂いて、念仏申しながら、しっかり足元を見つめつつ、踏み越えて生きさして頂きたいものであります。

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