聖徳太子の名が、日本人の心に深く馴染じまれて居ますが、その人物の実在は、今日不明とされていまして、恐らく、架空の人物であろうとされています。しかし、十七条憲法を書いた人物が居ることは、疑いの無い事実ですので、その人物を聖徳太子と言っても良いでしょう。
永く、教科書に載せられていた肖像も、中国伝来のものであると言われていますので、百円札や千円札の肖像も、太子の実像では無いことになります。しかし、日本人にあれ程親しまれてきた聖徳太子と言う人物とは、一体どの様な人物であるのかと言うことを考えてみる事は、今日の日本人に重要なことでは無いかと思われます。親鸞聖人は、『和国の教主、聖徳王』とまで言って、日本仏教の釈尊であると讃えられています。其れはどういうことかを尋ねてみる必要があるのです。
そもそも、日本に仏教が伝えられたのは、西暦五五二年であると言われています。しかし、其れまでは日本には宗教は無かったのでしょうか。そんな事はあり得ません。日本列島には 一万年に渉る縄文文化が開花して居たのです。その文化は、後に列島に進出して来た、弥生人に依って抹消されました。中国大陸から朝鮮半島を経由して日本に辿り着いた弥生人は、縄文人と同じ『モンゴロイド』でありますが、インドでヒマラヤ山脈をはさんで、南北に分かれて、東へ進みました。南の道を通ったモンゴリアンは『旧モンゴロドイド』といい、北の道を選んだのは『新モンゴロイド』と呼ばれます。それは,日本に到着する時間に一万年もの違いがあったからです。
南方の海路を選んだ人々は、一万年も早く日本列島に到着したのです。従って、南方経由の旧モンゴロイドが『縄文人』と言われ、北方経由の遅れて到着した人々を『弥生人』と言うのです。共に、モンゴロイドで有りますから同一の神話を携えて居たものと思われます。所が、経由した場所と、時間の違いにより、その神話に相異が生まれたのです。北方経由のモンゴロイドは、激しい民族間の軋轢の中を生き抜いて来ましたが、南方経由の人々は、温和な気候にも恵まれて、約一万年の間、外からの侵略にも犯されず、食料にも恵まれて、豊かな生活を享受して来ました。その結果、豊かで平和な『縄文文化』が育てられていたものと思われます。
仏教は、釈尊によってインドで生まれたと言われていますが、お釈迦様以前から伝えられていたものが有る筈です。其れは、現生人類の遠い先祖が、独特の進化を遂げて以来、積み重ねて来た、宗教と言う思索で有ります。それは『神話』と言う形をとって長い年月をかけて積み重ねられました。人類は、言葉を駆使することが出来ましたので、神話という形で知識を蓄積出来たのです。
仏教の経典も、元は神話の形で伝承されたのです。仏教経典の『観無量寿経』の説話と、ギリシャ神話の『オイデプス王物語』とは、非常に似た内容を持っています。恐らく、同一の神話から発展したものでありましょう。大無量寿経の『法蔵菩薩の物語』は、まさしく神話の形式で語られていますが、それは、神話で無ければ語れないものが有るからです。神話は、知性では表現出来ないものを語ることが出来ます。人間の理知を超えた問題も、神話では語れるのです。仏の悟りは、人間の理知を超えた世界ですから、神話の筆法は有効なのです。
大無量寿経に語られている法蔵菩薩の物語は、非常に優れた内容を持っています。この大無量寿経の教えが、『二尊教』と言われるもので、中国では、唐の時代に善導によって完成されました。其れまでに、曇鸞や道綽など優れた祖師方に依って熟成されていたものです。所が、善導の没後、百年余りで、この『二尊教』は、中国では姿を消して行くのです。何故かを明らかにする必要があります。宗教は、元、多神教から発達したと言われています。『多神教』はこの世の一切のものに神が宿っていると言う世界観です。其れに対して,神は唯一人であり、この世の一切の存在は、神の被造物であると考えるのが『一神教』で有ります。野蛮未開の時代には、多神教が弘まりましたが、次第に純化して、遂に一神教になったと言われてきました。果たしてそうなんでしょうか。一考を要する問題です。
多神教の世界観には優れたものがあります。人間も自然界の一部分で、自然の法則に従って生きる可きだと言うのです。所が、知恵を持った人類は、自然界は人間に奉仕すべき物質と考えて、思うように改良してきました。此れは人間の傲慢でありました。その結果、今日の様な公害を生み出したのです。一神教は、神の絶対権威を主張しますので、この道理を用いて、支配者の絶対権力を正当化する王権国家が誕生するのです。一度、王権国家が誕生すれば、その国家は、益々権力を増大さして、軍隊の力により、周りの弱小国家を併呑して、強大になろうとします。此れが、覇権国家の実情です。その為に、戦争が止むことは無いのです。人類はこの儘、殺し合いを続けて滅亡していくのでしょうか。
此処に、『二尊教』というものが存在することに注意すべきであります。二尊教は、一神教が必然的に持っている欠陥に気づいて、阿弥陀仏と言う神を見出したのです。阿弥陀仏は、一神教の神と同じ優れた神格を持ち乍ら、決して他の存在を支配しようと為ないのです。アメリカに進出したキリスト教の宣教師達が、現住民の神話を研究して、その神の優れた神格に驚いて、『君たちの神は、我々の言う『ゴッド』だと言いましたが、原住民は、どうしても納得しなかったと言います。其処でやむなく、此れを『グレート・スピリット』と名付けたと言います。
確かに、西洋の『神』と、原住民の『神』は、似ていた居たのでありましょう。しかし其処には大きな違いが有ったのです。アメリカ原住民は、アリュシャン列島を通って来た、モンゴロイドの末裔です、恐らく、日本人と同じ神話を持ってアメリカに渡ったものと思われます。
従って、原住民の神は、二尊教の神であります。キリスト教の神は、一神教の神であります。原住民がよくその違いを見抜いて頑張ったものと思われます。信仰の力の偉大さに唯々、尊敬を捧げるばかりで有ります。話を元に戻して、中国伝来の仏教は、法華経を中心とする一神教の傾向を強く持ったものであります。空海の伝えた真言宗も、同じく一神教の傾向を持ったもので、顕密体制と申します。其れに対して、善導の提唱した浄土教は、二尊教であります。其処で、この両者の関係を考えてみる事に致します。