水琴窟 20

   水琴窟 二十
 問、仏像を拝む意味 Ⅱ
 答、善導は観経疏に『応心即現』と言いました。『心』とは人間の心の底に隠れている。『真実に遇いたい』と言う『人間至奥の要求』であると云いました。如来は此の『心』に応えて『東域に影臨す』と言われます。
 『そんな心など私には有りません』といくら主張しても駄目なのです。如来は先刻見抜いて居られるのです。
 『貴方のも必ずこの心は有るのですよ』と、言い切られるのです。そうして、『確かに私にも、この心が有りました』と気づいた時、即座に『摂取不捨』の利益に預かるのであります。 
 『私にも、この心が有りました』と頷くことは容易ではありません。しかし、聞法を続けるならば、必ず頷けるのです。それは既に先輩たちによって証明されているからです。 『弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞がもうす旨またもって虚しかるべからず候か。詮ずる所、愚身が信心におきては此くの如し。この上は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも面々の御計らいなり。』これ程の証明を並べられて、それでも疑うと言うのは、よくよく疑い深いと言わねばなりません。
 さて、『仏像を拝む意味』と云う事ですが。阿弥陀仏は、我々の目で見る事は出来ません。それで、『影臨』と言いました。『影』と成って臨むのです。臨むとは、顕われること、働きかけて来ると云う事です。『影』と云う言葉は、日本語では随分ニュアンスの豊富な言葉です。『月影』は月が照らして居る様ですが、『島影』と言い、面影を偲ぶと 言います。遂に、『お蔭さま』と成れば、愈々意味深重 であります。
 阿弥陀如来が『影臨』すると云う事も、『お蔭様』と言うより外ないのでありましょうか。阿弥陀仏は確かに、我々の為に、やって来て働きかけて居て下さるのです。問題は、それを我々衆生が、我が身の上に頷けるか否かと言う事であります。
 『阿弥陀仏、此処に在します』と頷く事が出来るか否かと、自己に問うてみるのです。『確かに阿弥陀仏在します』と頷く事が出来れば、もう占めたものです。頷けるまで聞き抜くことです。頷けたらそれでお終いかと言うと、一度、頷いたら、もう逃げられないのです。其の儘人生が終わるまで、聞法を続けなくてはならなくなるのです。
 それは如来が離して下さらないのです。いくら私は逃げようとしても、如来が離して下さらないのです。自然法爾なのです。私の努力ではありません。
 西遊記の物語にあるように、孫悟空が幾ら逃げようとしても、仏陀の掌の中をぐるぐる回っていたよなものです。孫悟空の神通力と雖も所詮人間の計らいでありますから、仏法力の前には、手も足も出ないのです。
 一度、仏法力の前に引き出されたら、人間の計らいは全てお手上げになります。阿弥陀仏在しますと頷けないのは、人間の計らいであります。その計らいの儘が、仏の掌の中なのです。そのことに目覚めて、南無阿弥陀仏と念仏に帰る時、『阿弥陀仏在します』と、頭を下げ、手を着くのです。 仏像を拝む意味は、仏像は仮の形です、その仏像を通して、眞の佛を礼拝するのです。私達は何か対象が無ければ、礼拝する事が出来ません。其の為の仏像です。仏像こそ、真の佛の心を念ずるための形であります。
 仏像は、礼拝の為の形であります。礼拝すると云う事実を抜きにして仏像を見るだけなら、仏像はせいぜい美術品か人形にすぎません。従って、其れだけの値打ちしか無いものに成ります。仏像は、あくまでも礼拝の対象であることを忘れてはなりません。
 仏像を拝む事は、仏法の大事な儀式でありますが、今日、その儀式の意義が忘れられて、美術品に成って居る事は残念な事であります。その理由は、偏に、仏教自体が堕落している訳です。仏教が、宗教としての意義を失って、堕落しているのです。宗教の堕落には、二つの問題があります。一つは、宗教の観念化であり、今一つは、宗教の偶像化であります。まず、宗教の観念化に就いて考えて見たいと思います。
 観念化と言えば、言葉が解かり難いのですが、要するに、話に終わっていると云う事です。話はいくら聞いても話に過ぎません。救いの事実にはならないのです。   
   彼女の聞法、三十年
しかし彼女には、何物もない
聞くだけが賢いのなら
浪花節道楽の男が、一生を寄席に通うて何ほど賢くなったか
一生を聞法に使うて 然も、何物もない
何処に、欠陥があったのか
彼女は、ただ我を忘れて、話を聞いたのだ  
我を知らずして、話を聞けば、話しは話に終わる
話を聞く者は多く、道を求める者は少ない
道を求めて三十年を費やすか
話を聞いて三十年を送るか
往生極楽の話は甘く
   往生極楽の道は、易くして辛し (讃嘆の詩、上巻、p131)
 自己を見つめる事を忘れて、法を聞けば、仏法が話に終わるのです。自己を見つめるとは、機の深信です。機の深信を抜きにして、仏法を語れば、仏法の話になるのです。
 これは、仏法を語る側に責任がありました。仏法によって救いを成就しようとせず、御法礼を稼ぐ事だけを念頭にして、仏法を説くことを忘れた結果であります。ただ、面白おかしい話をして、大衆の歓心を買っていたからです。
 仏法の話は甘いので、聞く方もそれを喜び、説く方もそれに依ってお金が貰えるのですから、安易にその方に流れるのです。そのような堕落が続けられて、今日に至りました。 『お前は如何であったか』と問われると、私も、その一人であったことを深くお詫びしなければなりません。
 宗教が観念化して、宗教の生命が失われる時、世の中には、迷信ばかりがはびこるのです。現代は正にそのような時代であります。正しい宗教心が見失われて仕舞っています。誠に、浄土真宗の寺院が、真っ先に、目を覚まさなければならない時代であります。
 門徒制度に溺れて、寺に住めば、易々と飯が食えることになり、聞法に命を懸ける事を忘れています。是が、観念化の状態を創り出した元凶であります。
 住岡夜晃先生は、貧苦の中で、只管に自己を問い続け、『大法の如く』と叫び続けて下さいました。今こそ、夜晃先生の光明団創設の御精神に立ち戻って、『大法の如く、更に大法の如く』歩み切らせて頂かなければならない時であります。
 もう一つ、宗教堕落の姿が『偶像崇拝』でありますが、長くなりますので次回に譲りたいと思います。

   

      

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