水琴窟 21

水琴窟 二十一
問、偶像崇拝とは (前号より続く)
答、宗教堕落の姿に偶像崇拝の問題があります。偶像崇拝と言う言葉には、誤解を生む欠点がありますが、此の言葉が定着して長い年月が経ちますので、今、別の言葉を見出すことが困難になりました。其の為にこのまま使用する事にします。
そもそも『偶像崇拝』と言う言葉は、今から3000年以上も昔に、モーセと言う人に遡るのです。モーセは、紀元前16世紀とも13世紀ともいわれる預言者で、旧約聖書の出エジプト記の『モーセの十誡』に出て来る言葉であります。
モーセの十誡の二番目に『偶像を造ってはならない』と禁止してあります。但し、カトリック教会とルーテル教会の伝統にはこの項目がありません。しかし、キリスト教でもイスラム教でも、共通して、偶像崇拝を厳しく戒めているのです。
しかし、宗教には必ず礼拝と云う事が伴いますので、キリスト教では『十字架』を、イスラム教では『メッカの方角』を拝む事になっています。
所で、『偶像崇拝』と云う事の本当の意味は如何いう事でしょうか。仏教の立場から言えば、少なくとも、仏像を拝む事ではありません。人間は何かを対象として、礼拝をするのですが、宗教には、必ず礼拝と云う事が伴います。礼拝をしない宗教はありません。
但し、何を求めて礼拝するかが問題であります。若し間違ったことを求めて礼拝する限り、如何に真剣に祈っても、迷妄に堕するのです。それを迷信と言います。
人間の要求は全て『自我』に裏らずけられています。『自我』を孕んで居る限り、迷妄の謗りを免れる事が出来無いのであります。
仏法は『無我』の教えであります。従って、『自我』を否定すのでありますが、西洋には、『無我』と言う教えがありませんから、これを説明することが困難であります。
しかし、『無我』と云う事が説かれない限り、自己主張が止まず、自己主張と自己主張がぶっつかって、戦争は止められません、その結果は、人類滅亡と云う事になりましょう。 今こそ、『無我の教え』を、世界中の人に理解してもらわねば、核戦争が起こって、取り返しのつかないことに成るのではないでしょうか。
仏教の無我の教えに立つ限り、偶像崇拝とは、人間の要求を神に祈ることです。仏教では、『現世を祈る行者』と申します。人間の要求は、如何に純粋の様でも、必ず、自我が混入していますから、自己肯定と自己主張を、続けるばかりです。
たとい、世界の平和を祈ると言いましても、自分の立場を考え、自己を正当化するのです。自己を犠牲にすると云いましても、自己を犠牲にしたと云う痛みを離れる事は出来ないのです。自己犠牲と言う痛みがある限り、流転輪廻の延長に成るのです。
自己犠牲は素晴らしい美徳だと云うのは、痛くも痒くもない傍観者の云う事で、当の本人が言える言葉ではありません。従って、仏教には自己犠牲と言う言葉は無いのです。
人間の祈りは、全て偶像崇拝であります。『如来の願』のみが『真実の祈り』です。衆生は、『人間の祈り』を捨てて、ただ『如来の祈り』に信順する必要があります。
『今生に如何に、いとおし、不憫と思うとも、存知の如く助け難ければ、この慈悲始終なし』(23の3、歎異抄第4章)と言わざるを得ないのです。
西洋では、この様な思想が、一部の人にしか知られて居ない為、『偶像崇拝』の意味が誤解された儘に成って居ます。日本でも、西洋思想の影響で、同じ誤解が定着して来ました。仏教精神の復活が急がれる次第であります。
歎異抄に『慈悲に聖道浄土の変わり目あり』と言われています。『聖道の慈悲は、存知の如く助け難し』と言われる所以が、この問題であります。
勿論、『聖道の慈悲は助け難し』と言いましても、何もしないで良いのではありません。聖道の慈悲を励むのです。慈悲心と言うのは、相手を哀れみ悲しみ育むことです。此の慈悲始終なしと知って、精一杯、慈悲をかけるのです。ただし『此の慈悲始終なし』と知ったうえで、聖道の慈悲に、精一杯尽くして念仏申すのです。念仏申せば『始終なし』に悔いはありません。それが念仏者の生き方です。
念仏者は、『自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より以来、常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと深信する』身であることを知って居ますから、人間の慈悲心の限界を熟知しているのであります。其の上で、精一杯の慈悲を注ぐのであります。
慈悲の心が、相手に届く時もあり、届かない時もあります。是は御因縁であります。因縁次第では、届かないこともあるのです。それでも、在りの儘を見つめて念仏申すより仕方がありません。これがこの世の実相であります。
『私は是だけやっているのに、それが解からぬとは、お前が悪いのだ』と腹を立てるのは、この世の実相が分かって居ないのです。念仏の心に帰って、この世の実相に疎い自らを反省すべきであります。
私達は、またしても、自分の思い通りにしたいと思います。しかし、この世は私の思い通りには成ら無い所です。全て因縁次第であります。この世の事は、因縁に任せて、念仏しながら、大法の如く、更に大法の如く、歩ませて頂くのです。
お浄土には、『一切所求満足功徳』が成就されていると言われます。それを曇鸞大師は、『所求に叶て、情願を満足す』と解釈されました。『所求』とは、私達の欲望であります。お浄土は我々の欲望が、悉く満足すると言うのです。
『所求に叶う』とは、我々の欲望を、いきなり否定するのでなく、欲望を静かに聞きながら、その底にある情願を満足させるのです。『情願』とは、私達に必ず賜っている『真実に遇いたい』と言う、止むに止まれぬ願であります。この情願が満足する時、不思議にも、私達の欲望は全て満足して『南無阿弥陀仏』に成るのです。
確かに、我々の心の深いところに『真実に遇いたい』と言う願がありました。『私にはそんなものはありません』と言いたいのですけれど、それは『所知障』と言うものの言い分でありまして、その底にちゃんと情願と言われるものが有るのです。
この頃は、学校教育が進んで、一文不知の人は居ません、その代わり、所知障が発達して誰も仏法を聞こうとしないのです。所知障は、誰も皆、賢く、物知りに成って、其の為に、仏法を邪魔して聞かせなくして居る働きです。一文不知の人は、仏法を善く聞きました。学歴の高い人ほど仏法を聞かなくなりました。学問をした人こそ、仏法を聞いてくれなければならないのです。教育の在り方を一考すべき時です。此の為には、幼児の時の教育が大切であります。念仏の家庭で特に注意すべき問題です。
『私にも、情願が確かに有りました』と我が身に確認出来た時、私の心は晴れて、『心得開明』と成ります。身も心も晴れて清々しくなり、思う存分『世の中安穏なれ。仏法広まれ』と飛び回ることが出来るのであります。
本当の偶像崇拝とは、人間が勝手に描いた願望を、神に祈ってそれを叶えて貰おうとする『信仰』であります。人間が勝手に描いた欲望でありますから、そんな信仰は、正しい信仰とは言えません。願望が叶えられる事もあり、叶えられない事もあるのです。そうすると、叶えられないと、神も仏もあるものかと、神様を恨むのです。だから、偶像崇拝が正しい信仰ではないと、否定されるのは当然であります。
ただ、偶像の意味が正しく理解されていないと、単なる、器物破壊に成ってしまいます。イスラムの過激派教徒が行っている仏像破壊は、単なる、器物破壊に過ぎません。これは、自分達の宗教だけが正しいと主張する、独善的な勝手な暴力であります。
こんな独善的な暴力がまかり通る世界は、社会を混乱させるだけです。是非止めさせる必要があります。人類の叡智に依る良識によって、厳しく忠告すべきであります。
それが出来ないなら、人類は混乱の末、戦争によって破滅を迎える事になりましょう。人類が此の儘破滅に向かって走り続けるか、平和に生き続けられるか、二者択一の岐路に立っていると云わねばなりません。人類の叡智が正に試される秋であります。
偶像崇拝は、迷信であります。今日、信仰の名によって迷信が巷に溢れています。これは、学校教育が進んで、理性のみが発達して、所謂『所知障』と言う『分別』ばかりが蔓延して来たからであります。『分別』は、『所知障』と言いまして、『所知』(人間として、必ず知るべきもの)を障えて、知らせない様にする働きであります。
世間は分別によって成り立っていますから、学校教育が分別を大切に身に付けるように教えるのですが、この分別の為に、仏教の教えが解からなくなるのです。まことに厄介な事ですが、致し方もありません。そこで、仏教の方も頑張って仏教の教育をしなければなりません。今はこんなややこしい時代であります。
いくら教育が進んでも、大丈夫、仏教は伝わって行くものですから、安心して、仏教教育を進めて行けばよいのです。ただ今日は、仏教が解かり難い時代であることは、心得ておく必要があるのです。
二回に渡って『宗教の堕落』を見て来ました。宗教は、いとも簡単に堕落するものです。宗教では無くて、人間が堕落するのですが、人間が正しい信仰に到達することが困難なのです。人間には、煩悩障と所知障がありまして、煩悩障も大変ですが、現代では所知障を克服することが、中々困難な時代であります。
此の二つの障害を越えて、正しい信仰を得る事は、人生の最大の課題であります。それ故に、正しい信仰に遇い得た者は、人生の成功者であります。
以上、宗教の堕落の二つの形を述べました。宗教の観念化と偶像化であります。何れも今日の重要な課題であります。この二つを正しく克服して、信仰の正常を保たねばなりません。 信仰が正常に保たれてこそ、その社会は正常に発展するのです。今の世の中は、どう見ても正常な発展とは言えない状況であります。全てのものが、いびつになり、歪んでいます。『世の中安穏なれ、仏法広まれまれかし』と願わずには居られません。

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